混沌こんとん)” の例文
博士はまだ意識混沌こんとんとしているので、あのような恰好をしているのであろうが、両眼を大きく明けているのが、ちとに落ちかねる。
鞄らしくない鞄 (新字新仮名) / 海野十三(著)
疑っていたわけではないが、まだ自分は明らかな計策がつかないので、数日、混沌こんとんと思いわずらっていたわけです。——もし君も力を
三国志:05 臣道の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかしそれは体の感じであって、思想は混沌こんとんとしていた。己は最初は大股おおまたに歩いた。薩摩下駄が寒い夜の土を踏んで高い音を立てた。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
彼はちょうど自分の頭の中にいだいてる思想が混沌こんとんとしているような場合にあった。彼の脳裏には一種のほの暗い雑踏がこめていた。
美の形式はあらゆる種類のものが認識され、その奔放な心持ちは、ゆきつくところを知らずにいまもなお混沌こんとんとしてつづいている。
明治大正美人追憶 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
彼等の批判は賢明なのか、愚かしいのか? 混沌こんとんの中からイリアッドやエネイドを選び残した彼等は、賢いといわねばなるまい。
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
そして實際、途徹とてつもなく忙しい一日二日の後に、私達が自分でかもした混沌こんとんの中から段々と秩序を見附け出して來るのは樂しいことであつた。
畢竟ひっきょう、認識するということは、この混沌こんとん無秩序な宇宙について、主観の趣味や気質から選択しつつ、意味を創造するということに外ならない。
詩の原理 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
精神の混沌こんとんとしている広巳にはものを考える力がなかった。広巳はばかのように女の顔を見た。お鶴がそれをもどかしがった。
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
中谷孝雄なるき青年の存在をもゆめ忘れてはならないし、そのうえ、「日本浪曼派」という目なき耳なき混沌こんとんの怪物までひかえて居る。ユダ。
えたいの知れぬ混沌こんとんを成しており、この上もなく矛盾むじゅんした感情や、想念や、疑惑ぎわくや、希望や、喜びや、なやみが、つむじ風のようにうずまいていた。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
もし予にして、たとい一瞬たりとも活動を止めなば、世界は混沌こんとんのうちに陥りて、予は人生を滅ぼすものとならん……。
混沌こんとんとしてなにもわからない、じっと眼を閉じると「あんなお邸でも闇料理屋なんかしなければやっていけない、たいへんな世の中になったものだ」
四年間 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
してみれば欧米の家庭にしばしば見るような色彩形状の混沌こんとんたる間に毎日毎日生きている人たちの風雅な心はさぞかし際限もなく深いものであろう。
茶の本:04 茶の本 (新字新仮名) / 岡倉天心岡倉覚三(著)
「男の子は大学までやることだよ。我輩の若い頃は世の中が混沌こんとんたる戦国時代だったけれど、これからの人は正式の教育を受けて置かないといかん」
ガラマサどん (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
白昼凝って、ことごとく太陽の黄なるを包む、混沌こんとんたる雲の凝固かたまりとならんず光景ありさま。万有あわや死せんとす、と忌わしき使者つかいの早打、しっきりなく走るはからすで。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
それと同時に、烈しい力で、狭い車内を、二三回左右にたたき付けられた。眼がくらんだ。しばらくは、たゞあらしのような混沌こんとんたる意識の外、何も存在しなかった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
かれあたまなか色々いろ/\なものがながれた。そのあるものはあきらかにえた。あるものは混沌こんとんとしてくもごとくにうごいた。何所どこから何所どこくともわからなかつた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
が、それは私にもよくわかりません。唯私にわかつてゐる範囲で答へれば、私の頭の中に何か混沌こんとんたるものがあつて、それがはつきりした形をとりたがるのです。
粗雑な混沌こんとんたる頭脳あたまに筋道がついてきたのです。親に孝行をしなければならないと、書いたり言ったりするだけでは、今日の人間に親孝行ができないでしょう。
親子の愛の完成 (新字新仮名) / 羽仁もと子(著)
混沌こんとんといはうか、渺漠べうばくといはうか、一目茫々ばうばうたる国土を見おろしたが、その時にも到頭雁が飛ばなかつた。
雷談義 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
ガンガンと鳴り響く混沌こんとんたる彼の頭の中には最前からのいっさいの光景、人物の顔——夢のような墓場の景から茶屋の中でのフェレラとの異様な邂逅かいこう、青年の顔
この混沌こんとんとした社会の空気の中で、とにもかくにも新しい政治の方向を地方の人民に知らしめ、廃関以来不平も多かるべき木曾福島をも動揺せしめなかったのは
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
大菩薩は半空に腰をかがめて、まだ半ば混沌こんとんたる地上の雲をき分けると、二ツの山は躍起となって
大菩薩峠:25 みちりやの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
其方そちの心の奥にも、このあらゆる無意味な物事の混沌こんとんたる中へ関係の息を吹込む霊魂は据えてあった。
沈黙した精神を、あらゆる汚穢おわいと非礼と、無節度との混沌こんとんの中から洗い上げて立ち上がらせること。
二十歳のエチュード (新字新仮名) / 原口統三(著)
それだけでもいまから想えば華麗混沌こんとんたる一大万華鏡まんげきょうの観あるが、のぞいて見ると、そのスパイ戦線の尖端に、茶色の肌をした全裸の一女性が踊りぬいているのを見る。
戦雲を駆る女怪 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
どこかの懸崖にちがい無かったが、さてこれが、どこのどういう崖であるかは判らなかった。方角も地理も混沌こんとんとしてしまった。何故か、運を天に任せようと思った。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
しかしこの『破裂』ということばをなんと解釈したらいいのか? このあらゆるものが混沌こんとんとしている中では、最初の一句からして、もう彼にはのみこめないのである。
ミルクやクリームの鉢もそなわり、今わたしが数えあげたように、一切がっさい混沌こんとんとしており、しかもその真中からは大きな茶わかしが濛々もうもうたる湯気をまきあげている。
夜が明けたのかしら……まだ夢にいるような混沌こんとんたるあたまで、瞬間、そうも感じたのでした。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
二つの少し込み合った映像の重合したものはただ混沌こんとんたる夢のようなものにしか見えない。
耳と目 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
そらあをかつた。それはきつ風雪ふうせつれた翌朝よくてうがいつもさうであるやうに、なにぬぐはれてきよあをかつた。混沌こんとんとしてくるつたゆきのあとのはれ空位そらぐらひまたなくうるはしいものはない。
日の光を浴びて (旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
下の混沌こんとんとした湧きたつあわのなかへ、永久にまっさかさまに落ちこんでしまいました。
支那しなでも政界の混沌こんとんとしている時代は退しりぞいて隠者になっている人も治世の君がお決まりになれば、白髪も恥じずお仕えに出て来るような人をほんとうの聖人だと言ってほめています。
源氏物語:14 澪標 (新字新仮名) / 紫式部(著)
そこで幾ら自由の空氣を吸う爲に氣があはて燥ツてゐたとは謂へ、また奈何にお房の匂を慕ツて心が混沌こんとんとしてゐたからと謂へ、彼は此の生活の不安に對する用意だけは忘れなかツた。
平民の娘 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
そして、平次が戻つて來た時は、事件を混沌こんとんたる迷宮入りにしてしまつたのです。
しかしまた妾はこの支那の混沌が単なる混沌でなく、前進するラクダであっていつか彼等の富源を発見し機械的であった過去の人間が生物学的に発達したときの支那の混沌こんとんを思うのです。
地図に出てくる男女 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
すでに充分触れて来たように、公武対立の未曾有みぞうの世となって、廷臣たちの心には、上下おしなべて見透しのつかない混沌こんとんと停滞とその日ぐらし的不安やなげやりの傾向がえ出ておった。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
われわれ人間は、はかり知るべからざる混沌こんとんのうちに渾然たる大調和の存する大自然の前に、破壊の威力と建設の威力とを併せ有する大自然の前に、心をむなしくして跪坐きざしなければならぬ。
『グリム童話集』序 (新字新仮名) / 金田鬼一(著)
と、いくら考えつめていっても、同じような混沌こんとん状態と同じような物狂わしさは、いっかな果てしもなく、ただただ彼女だけが、その真っただ中に、取り残されているのを知るのみであった。
紅毛傾城 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
ひょうが降るわけでもない。稲光いなびかりひとつせず、雨一滴落ちて来ず……。とはいえ、あの混沌こんとんたる天上の闇、昼の日なかに忍び寄るこの真夜中が、彼らを逆上させ、にんじんをちぢみ上がらせたのだ。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
だが僕は相変らず、妄想もうそうと幻影の混沌こんとんのなかをふらついて、一体それが誰に、なんのために必要なのかわからずにいる。僕は信念がもてず、何が自分の使命かということも、知らずにいるのだ。
ただ自分も判然とそれを自覚しなければ、世間の人は無論、親さえも明らかに観察かんさつすることはできない。しかるに、この混沌こんとんたる有様ありさまのなかにも、おのずから輪廓りんかくだけはぼんやりと現れている。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
人このうちに立ちて寥々冥々りようりようめいめいたる四望の間に、いかでの世間あり、社会あり、都あり、町あることを想得べき、九重きゆうちようの天、八際はつさいの地、始めて混沌こんとんさかひでたりといへども、万物いまことごと化生かせいせず
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
そんな考えが混沌こんとんとした一種の感情となって彼の心をかきみだした。
次郎物語:04 第四部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
八が頭の中は混沌こんとんとしてゐる。飲みたい酒の飲まれない苦痛が、最も強い感情であつて、それが悟性と意志とをほとんど全く麻痺まひさせてゐる。
金貨 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
彼女は混沌こんとんたる状態のおりからも彼れの名を無意識に叫んだが、自分がこの世に生残ったと知ると、心にかかるのは彼れの身の上であった。
芳川鎌子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
彼の知力のうちの混沌こんとんたるものを突然貫いて、それを消散させ、一方に濃い暗黒と他方に光明とを分かち、その時の状態の彼の魂に働きかけて
そもそも、汝の宿命は、天にあっては天間星てんかんせい。地にあっては草華そうげの露。人と人との間に情けをこぼすさがのものだ。しかし世はまだ溟々めいめい混沌こんとん時代。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)