なつめ)” の例文
私はこの老女ひと生母ははおやをたった一度見た覚えがある。谷中やなか御隠殿ごいんでんなつめの木のある家で、蓮池はすいけのある庭にむかったへやで、お比丘尼びくにだった。
その時、大柄ののっぽうの、それでいていつもなつめのような顔をして眼の細い、何か脱俗している好々爺こうこうやが著て来たのがこれであった。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
百姓たちは、なつめを採ってんだり、草を煮て、草汁を飲んでしのいだり、もうその草も枯れてくると枯草の根や、土まで喰ってみた。
三国志:04 草莽の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
外界はぽか/\と暖かい五月の陽春であった。庭のなつめの白っぽい枝に日は輝き、庭の彼方の土蔵の高い甍に青空が浸みいっている。
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
だいたい五百助の家は年数も知れぬ昔から代々そこで管玉や切子きりこ玉やなつめ玉、臼玉、勾玉まがたま、丸玉などを造っていたと伝説されている。
時には彼は路傍の石の上に笠を敷き、枝も細く緑も柔らかななつめの木の陰から木曾川の光って見えるところに腰掛けながら考えた。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
またある道士は、その安期生の手から長寿の薬だといつて、なつめの実を貰つたが、その大きさが瓜ほどもあつたといふことだ。
独楽園 (新字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
父が此の上もなく大切にしている堆朱ついしゅなつめというのを覗かしてもらいましたら、それは私のおはじきを納れるによい容器いれもののように思われました。
虫干し (新字新仮名) / 鷹野つぎ(著)
診察室の西南にしみなみに新しく建て増した亜鉛葺トタンぶきの調剤室と、その向うに古いなつめの木の下に建ててある同じ亜鉛葺の車小屋との間の一坪ばかりの土地に
カズイスチカ (新字新仮名) / 森鴎外(著)
老紳士の顔は、すこし弾んでなつめの実のような色になった。青年は相変らず、眉根まゆね一つ動かさず、孤独でかしこまっていた。
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
事件はこれからですが、ね、ある日、それは夏でしたね、私の裏庭には、一本の大きななつめの木があって、それに棗の実がいっぱいにみのっていたのです。
港の妖婦 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
あたかもその時谷を隔てしかなたの坂の口に武男の姿見え来たりぬ。顔一点なつめのごとくあかく夕日にひらめきつ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
肉も煮焼きをしたものは気に入らず、もっぱらなまの肉をくらって、一食ごとに猪の頭や猪の股を梨やなつめのように平らげるので、子や孫らはみな彼をおそれた。
すると一人の童子が王質になつめの実をくれた。それを食べたら、もう腹がへらない。いつまでも見物している。
ガラマサどん (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
僕の家の裏には大きななつめの木が五六本もあった。『坊っちゃん』に似ているって。あるいはそうかもしれんよ。『坊っちゃん』にお清という親切な老婢ろうひが出る。
僕の昔 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ちょうどその辺に大きななつめの木とゆずの木とがあったので、両方の根を痛めないようにと頼んだのでした。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
椰子や芭蕉やなつめの木などにこんもりと囲まれた広庭は彼ら土人達の会議所であったが、今や酋長のオンコッコは、一段高い岩の上に立って滔々とうとうと雄弁をふるっている。
汽車の黄河を渡る間に僕の受用したものを挙げれば、茶が二椀、なつめが六顆、前門牌チェンメンはいの巻煙草が三本、カアライルの「仏蘭西革命史」が二頁半、それから——蠅を十一匹殺した!
雑信一束 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
先ず裏の畑の茄子冬瓜とうが小豆あずき人参里芋を始め、井戸脇の葡萄塀の上のなつめ、隣から貰うた梨。
(新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
麦門冬りゅうのひげふちを取った門内の小径こみちを中にして片側には梅、栗、柿、なつめなどの果樹が欝然うつぜん生茂おいしげり、片側には孟宗竹もうそうちくが林をなしている間から、そのたけのこいきおいよく伸びて真青まっさおな若竹になりかけ
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
当惑げな伸子を素子は皮肉な目で見て、なつめ形の彼女の顔をうっすりあからめた。
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
憑物つきものでも放れて行ったように思うんですが、こりゃ何なんでしょう、いずれその事に就いてでしょうよ、」とかすかにえみを含んで、神月は可愧はずかしげに上人が白きひげあるなつめのごときおもてを見た。
湯島詣 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
少年がふり返ると、彼女はその手になつめの実やキャラメルを握らせる。
可愛い女 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
玉箒刈りこ鎌麻呂むろの樹となつめがもとゝかき掃かむため
万葉集巻十六 (旧字旧仮名) / 正岡子規(著)
乳母 お庖厨だいどころでは、なつめ榲桲まるめろれいとんでゐます。
なつめはそのあいだ、ほかの弟子が来ぬように見張っていた。兆二郎は天井の穴に目をつけて、息をのみながら久米一の仕事を凝視ぎょうしする。
増長天王 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
露次ぐちにあるなつめの枯枝やひさしさきがひょうひょうとうめき、地震でゆるんだ雨戸や障子はもちろん、柱やはりまでがみじめなほどきいきいと悲鳴をあげていた。
柳橋物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
なつめの花の咲くところ、光は強く、は青し。棗のもとに啼くかはづ、蛙と呼ばひれ遊ぶ。棗よそよげ、青空に。
雀の卵 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
白い頭髪は肩まで垂れ雪を瞞く長髯は胸を越して腹まで達し葛の衣裳に袖無羽織、所謂童顔とでも云うのでしょうなつめのような茶褐色の顔色。鳳眼隆鼻。引き縮った唇。
天草四郎の妖術 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
自分はこれらの前に立って、よく秋先あきさきに玄関前のなつめを、兄と共にたたき落して食った事を思い出した。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
山のなかに成長して樹木も半分友だちのような三人には、そこの河岸にさやをたれた皀莢さいかちがある、ここの崖の上に枝の細いなつめの樹があると、して言うことができた。
夜明け前:01 第一部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
さるにしろとおっしゃれば、ほんとうに猿にしてみせますよ、しかし、まあ、それよりも、一ばん早いところをお眼にかけましょう、若旦那、その大きななつめの木を枯らしてみましょうか
港の妖婦 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
上り列車に間に合ふかどうかは可也かなり怪しいのに違ひなかつた。自動車には丁度僕の外に或理髪店の主人も乗り合せてゐた。彼はなつめのやうにまるまると肥つた、短い顋髯あごひげの持ち主だつた。
歯車 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
楽焼らくやき煎茶せんちゃ道具一揃ひとそろひに、茶の湯用のうるし塗りのなつめや、竹の茶筅ちゃせんほこりかむつてゐた。
蔦の門 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
赤色せきしょくなつめの実の赤色にしてけぶれるほのおの色(黒き赤)と銀色ぎんしょくの灰色(灰の赤)とに分たれ、緑には飲料茶の緑、蟹甲かいこうの緑、また玉葱たまねぎしんの緑(黄味きいろみある緑色)、はすの芽の緑(あかる黄味きいろみある緑)
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
フロイド時代のなつめの実の夢、その他に表現される潜在的な形をとらない。
心に疼く欲求がある (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
俗にいふ越後は八百八後家はっぴゃくやごけ、お辻がとこも女ぐらし、又海手うみての二階屋も男気おとこげなし、なつめのある内も、男が出入ではいりをするばかりで、年増としま蚊帳かやすきだといふ、紙谷町一町のあいだに、四軒、いづれも夫なしで
処方秘箋 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
死人の耳にも鼻にもなつめの実ほどの黄金が詰め込んであった。
すると大きななつめの木が五、六本あって、隠士の住居とも見える閑寂な庭があった。門柱はあるが扉はない。そしてそこの入口に
三国志:02 桃園の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それから戸板で担ぎこまれたお祖父さん、裏のさかな屋の女房、露次ぐちにあったなつめの樹、幾つもの研石や半揷はんぞう小盥こだらいのある仕事場、みんなはっきりと眼にうかんできた。
柳橋物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
上り列車に間に合うかどうかは可也かなり怪しいのに違いなかった。自動車には丁度僕の外に或理髪店の主人も乗り合せていた。彼はなつめのようにまるまると肥った、短い顋髯あごひげの持ち主だった。
歯車 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
そこから伸子を見ている黒い二つのなつめ形の眼、くつろいだ部屋着の胸元をゆたかにもり上らせている伸子より遙に成熟した女の胸つきなどを眺めていて、伸子は不思議にたえない心持になった。
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
雪のように白い長髪を肩へ深々と垂れ下げた、なつめのようなあかい顔の、獣の皮と木の葉とで不細工に綴った着物を着た、仙人のような老人で、いつもあかざの杖をついて、静かに歩いて来るのであった。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
今まで落ちていたなつめの実が落ちやんで、しおれていた葉がみるみる青あおとなるのじゃありませんか、私は老人を神様のように思って、奇術の箱などは、もう打っちゃらかしといて、老人を上へあげて
港の妖婦 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
なつめには実ありき、その実いと赤かるべきも
緑の種子 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
しかし、久米一より大事な罪人、絵描座えかきざの兆二郎と、娘のなつめの姿は、捕手が入った時すでに、影も形も見えなくなっていた。
増長天王 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして首を捻曲ねじまげたり肩を揺上げたり、両腕を振廻したりして、暫く筋肉のこりをほぐしてから、ふと思出したように旅嚢を引寄せ、乾したなつめの実を二つ三つ取出して口へ入れた。
松風の門 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
その日は薄雲が空に迷って、おぼろげな日ざしはありながら、時々雨の降る天気であった。二人は両方に立ち別れて、なつめの葉が黄ばんでいる寺の塀外へいそと徘徊はいかいしながら、勇んで兵衛の参詣を待った。
或敵打の話 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
緑色笠のスタンドの光をなつめ形の顔にうけて、素子は、伸子にわからない慣用語や語源の質問をした。それが終り、発音の練習がはじまった。これは、ひとりで伸子の耳にわかり、時々興味をひかれた。
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
映画フイルムの中に一本のなつめの樹あり。
緑の種子 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)