慇懃いんぎん)” の例文
またそれに対して、慇懃、武蔵も師礼を取ったかもしれない。けれど晩年絵を吉重に学んだとして武蔵の画を見るわけにはゆかない。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
黒絽の羽織をひっかけた、多少は酒気もあるらしい彼は、谷村博士と慇懃な初対面の挨拶をすませてから、すじかいに坐った賢造へ
お律と子等と (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
別段、話に聞いていたような不愉快な印象を与えられることもなくかえってすこぶる慇懃に、大使館本館の応接間に招じ入れられた。
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
相手よりもなお慇懃な態度で、熱心にあいづちを打ち、おどろいてみせ、感じ入り、適度に反対したり、あいそ笑いをしたりする。
雪の上の霜 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
殊に私は婦人の前で自分を大きくして見せ得る不思議な力と、慇懃を失はない程度で大胆に勝手に振舞ひ得る快活さとをも持つて居た。
(新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
かかる場合には裁判官はか態度を慇懃にし審理を鄭重にし成るべく被告の陳弁を静に聴いて居る。しかしそれはただ聴くだけである。
公判 (新字旧仮名) / 平出修(著)
私は、いまこの井の頭公園の林の中で、一青年から慇懃に煙草の火を求められた。しかもその青年は、あきらかに産業戦士である。
作家の手帖 (新字新仮名) / 太宰治(著)
が、此源助が、白井樣の分家の、四六時中リユウマチで寢てゐる奧樣に、或る特別の慇懃を通じて居た事は、誰一人知る者がなかつた。
天鵞絨 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
客はあたたかげな焦茶の小袖ふくよかなのを着て、同じ色の少し浅い肩衣の幅細なのと、同じ慇懃なる物ごし、福々しい笑顔。
雪たたき (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
とうとう隠しきれなかったが、あの人たちは慇懃な世なれた人たちだもんだから、そのことはしゃべらず、わしをかばってくれた。
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
聴水はかくと見るより、まづ慇懃に安否を尋ね。さて今日斯様のことありしとて、黒衣が黄金丸を射殺せし由を、白地に物語れば。
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
軍右衛門と小平は木蔭へ行って、何やらヒソヒソ囁き合っていたが、やがて梶子の側へ帰って来ると、小平が慇懃に梶子へ云った。
猫の蚤とり武士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
約束の画面の前に立ってると、脅迫者が揚々と近寄ってきて、わざとらしい慇懃さで話しかけた。彼女は黙ってその顔を見つめた。
それを道庵が素直に受けますと、お角さんが今度は健斎老の方へ向き直り、これは道庵先生に対するとは打って変った慇懃ぶりで
がらりと人格が変ったように、彼はそこの上りに佩刀をおいて両手をつかえた。ながながと、慇懃に、身分姓名を名乗りだした。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
細君宗助るやや、かい慇懃挨拶べた此方からかうとつて安井消息を、つてふからねた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
何卒、先生、主義の為めに御奮闘を願ひます」慇懃に腰をめたる少年村井は、小脇の革嚢と抱へて、又た新雪踏んで駆け行けり
火の柱 (新字旧仮名) / 木下尚江(著)
信長の弟勘十郎信行の折目正しい肩衣袴で慇懃に礼拝したのとひき比べて人々は、なる程信長公は聞きしに勝る大馬鹿者だと嘲り合った。
桶狭間合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
内には言ひ争ふごとき声聞えしが、又静になりて戸は再び明きぬ。さきの老媼は慇懃におのが無礼の振舞せしをびて、余を迎へ入れつ。
舞姫 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
そして田舎つてから、慇懃礼状受取つたのであつたが、無精竹村返事しそびれて、それりになつてしまつた。
彼女の周囲 (新字旧仮名) / 徳田秋声(著)
海の通行人は騎士のごとく慇懃だ。が、全船員は各自その船べりに重なり合って、船同士の儀礼を破壊して日本語で叫びかわす。
森は二歩三歩前へ進み、母を始め姉や娘に向ッて、慇懃に挨拶をして、それから平蜘蛛のごとく叩頭をしている勘左衛門に向い,
初恋 (新字新仮名) / 矢崎嵯峨の舎(著)
奥の喫茶室で珈琲を飲んでいた一人の見馴れない老紳士が、その時つかつかと雪姉ちゃんの所へ立って来て、慇懃に挨拶をして
細雪:01 上巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
四辺を見𢌞している所へ、依田豊前守の組下にて石子伴作金谷藤太郎という両人の御用聞が駆けて来て、孝助に向い慇懃
その時虹汀、大勢に打ち向ひて慇懃に一礼を施しつゝ、咳一咳してべけるやう、は御遠路のところ、まことに御苦労千万也。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
家康が副将軍だなどと言われて大変な人望があるものだから、秀吉の側近の連中は家康の変に鄭重慇懃な律義ぶりを信用せず
家康 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
正体が知れてからも、出遊の地に二心を持って、山霊をにした罪を、慇懃にこの神聖なる古戦場にって、人知れず慚謝したのであるる。
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「私は、」と彼は慇懃な微笑をうかべて私に言った、「パリ法廷づきの執達吏です。検事長殿からの通牒を持って来ました。」
死刑囚最後の日 (新字新仮名) / ヴィクトル・ユゴー(著)
と、モルガンを見つけた若紳士たちは、すぐに彼を取りまいて、肩をいたり笑ったりして、お雪には、慇懃に握手を求めた。
モルガンお雪 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
正直な日本人は、心持顔を赤めながら、慇懃に帽子を脱いでお辞儀をした。そして懐中から手帖を取り出して次のやうな文字を書き込んだ。
互に歩み寄りて一間ばかりにけば、貫一は静緒に向ひて慇懃に礼するを、宮はふ限は身をめて流盻を凝したり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
ハツバス・ダアダアは再びホラチウスの教を忘れ給ふなと繰返しつゝも、猶慇懃に我手を握りて、詩人よ、めよやと云ひぬ。
チャーミングさんは、なんともいいようのない美しい微笑をうかべながら、たいへんに慇懃な口調で、お招きにあずかって有難い、といった。
四十といふにしては若く、何んとなくかな感じのする男ですが、噂の通り良い男で、何處か慇懃無禮なところがあります。
細い胸を縮めてお辞儀をするその恰好は人のいい感じの慇懃さを通り越していかにも卑屈な哀しいものだったが、その声も哀しく卑屈だった。
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
母が何やらしきりに父をなじると、父の方は例の調子で、冷やかで慇懃沈黙をまもっていたが、まもなく外へ出て行った。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
顧盻おのずから雄厳にして、しかして他人のこれに接する生ける鬼神にうるがごとく、慇懃に尊恭するもまたはなはだし。
将来の日本:04 将来の日本 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
その見かたは慇懃ではあるが、変に思っているという見かたであった。そしてボオイに合図をすると、ボオイがもう一杯水を持って来てくれた。
(新字新仮名) / オシップ・ディモフ(著)
法水にそう云われて、里虹は慇懃に頷いた。彼は、懐古とも怖れともつかぬ異様な表情をして、っと伏目になっていた。
人魚謎お岩殺し (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
見ているとこの外国人の一団はこの日本の作曲者を取り巻いてきわめて慇懃な充分な敬意を表した態度で話しかけている。
試験管 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
間もなくその素封家から「紅葉先生と露伴先生のだけは早速表装しました、おで自慢の家宝が二幅出来えました、」と、慇懃な礼手紙が来た。
倉地が岡を通して愛子と慇懃わし合っていないとだれが断言できる。愛子は岡をたらし込むぐらいは平気でする娘だ。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
彼の風采には、快活な眼付から真白なカフスの輝に至る迄、一種渾然と陽気さと慇懃さとの調和したものが漲っていた。
伊太利亜の古陶 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
豎牛ももちろんそれは心得ている。叔孫の息子たち、殊に斉から迎えられた孟丙・仲壬の二人に向かっては、常に慇懃を極めた態度をとっている。
牛人 (新字新仮名) / 中島敦(著)
ここより別るるものは勇蔵が前に来て慇懃にその無事と好運とを祈り、中には涙にれて、再びい見ぬもののごとく悲しき別れをぶるもありき
空家 (新字新仮名) / 宮崎湖処子(著)
何故なら、若し結婚するのなら貴族の令孃にもふさはしいやうにあらゆる特權、あらゆる慇懃があなたのものになるやうにしてあげたいからですよ。
ふたりは素直にその忠告をいた。殊に呂氏の家というのもかねて知っているので、それではすぐに行こうと出かけると、主人は慇懃に別れを告げた。
大臣だとか華族だとかいえば、慇懃を尽くすというような阿附主義でない坊さんがいると如何にも溜飲が下がる。
僧堂教育論 (新字新仮名) / 鈴木大拙(著)
堂島ホテル附近にある、夜間薬品店の売子の売行表と、商業的な饒舌は、女の温度にたいしてひどく慇懃なのだ。
大阪万華鏡 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
「いや、ダリアさんですか、始めまして」と帆村は慇懃に挨拶をして「その繃帯はどうしたんです」とねた。
赤外線男 (新字新仮名) / 海野十三(著)