彷彿ほうふつ)” の例文
荒行にたえたその童貞の身体はたくましく、彼の唄う梵唄はその深山の修法の日毎夜毎の切なさを彷彿ほうふつせしめる哀切と荘厳にみちていた。
道鏡 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
わたくしは一葉柳浪鏡花等の作中に現れきたる人物の境遇と情緒とは、江戸浄瑠璃中のものに彷彿ほうふつとしている事を言わねばならない。
里の今昔 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
新聞の標題の下の最も簡約で要領をえた報道におとらず、スペインの正確な事態、もしくは乱脈状態をわれわれに彷彿ほうふつさせるであろう。
「翌日訪ねると、もう何処どこかへ行ってしまっていた」といい、生前の伯父を知っている者には、如何いかにもその風貌を彷彿ほうふつさせる描写なのだ。
斗南先生 (新字新仮名) / 中島敦(著)
この「倫敦消息」は後年の『吾輩わがはいねこである』をどことなく彷彿ほうふつせしめるところのものがある。試みにその一節を載せて見る。
漱石氏と私 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
この第一楽章に示された高雅な雲雀の歌の美しさは、春の野辺のべうららかさを彷彿ほうふつさせるもので、今は亡きカペエの傑作レコードの一つである。
楽聖物語 (新字新仮名) / 野村胡堂野村あらえびす(著)
庸三はやつれたその顔を見た瞬間、一切の光景が目に彷彿ほうふつして来た。葉子のいつも黒いひとみは光沢を失って鳶色とびいろに乾き、くちびるにも生彩がなかった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
はすはになりがちであるのをしっとりと品よく、大どころの秘蔵娘を彷彿ほうふつさせたと、あのきりりとした綾之助の面影まで思いうかべるのだった。
豊竹呂昇 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
はじめて皆一斉に「都の西北」を高唱しながら練歩ねりあるいて行ったその時の感激的な光景は、今もなお眼前に彷彿ほうふつとしている。
早稲田神楽坂 (新字新仮名) / 加能作次郎(著)
実際その時はそうして見たら、ふだんは人間の眼に見えない物も、夕暗にまぎれる蝙蝠こうもりほどは、朧げにしろ、彷彿ほうふつと見えそうな気がしたからです。
妖婆 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
あるいは生きあるいは死ぬる様が彷彿ほうふつとして、昨日のことのようにも思われる。壁は揺らぎ、石は落ち、裂け目は音をたてている。穴は傷口である。
東海道でもしばしば太洋を見たが、この感じとは違う。水天彷彿ほうふつたるかなたまで、さえぎるものもなく、無辺際までつづくかと思える大海原だった。
新潮記 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
隠れたるに見給う神に祈を捧げている鳴尾君の姿には、使徒トマスとかアンデレとかを彷彿ほうふつさせるものがあって、私はひどく心をそそられたのである。
西隣塾記 (新字新仮名) / 小山清(著)
それから突然、何処かの村で明もそうやって片側だけ雪をあびながら有頂天になって歩いている姿が彷彿ほうふつして来た。
菜穂子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
二百七十名の来会者が大広間に居並んだその正面に、黒紋付の羽織袴に端然と構えた翁の姿、さながら能面の如く気品ある容貌、今なお眼前に彷彿ほうふつする。
明治世相百話 (新字新仮名) / 山本笑月(著)
指のそりかえった頑丈がんじょうな足をみると、生存を歓喜しつつ大地をかけまわった古代の娘を彷彿ほうふつせしむる。その瞑想と微笑にはいかなる苦衷の痕跡こんせきもなかった。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
ラサ府がはるかに東北の方に彷彿ほうふつと見えて居るのみならず、法王の宮殿も糢糊もこの間に見えて居りますと、幸いにきも帰りも好天気であったものですから
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
大勢の人びとは岸にあつまって眺めていると、金のよろいを着た神者が彷彿ほうふつとして遠い空中に立っているのを見た。
ヴォルテル称揚して言えらく、「人類の偉業を失うや久し、モ君出でてこれを回復しこれを恢張せり」と。陸羯南の人となり、真に先生に彷彿ほうふつたるものあり。
近時政論考 (新字新仮名) / 陸羯南(著)
幻花子げんくわし新聞しんぶんはういそがしいので、滅多めつたず。自分じぶん一人ひとり時々とき/″\はじめのところつては、往事むかし追懷つひくわいすると、其時そのとき情景じやうけい眼前がんぜん彷彿ほうふつとしてえるのである。
地は荒れ、物はこぼたれたる中に一箇ひとりは立ち、一箇ひとりいこひて、ことばあらぬ姿のわびしげなるに照すとも無き月影の隠々と映添さしそひたる、既に彷彿ほうふつとしてかなしみの図を描成ゑがきなせり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
君の顔を見た瞬間に、故郷の禿山はげやま彷彿ほうふつとして眼前に浮んだね。イヤ。禿げているから云うんじゃない……アハハハ。今夜はこの風をさかなに飲み明かそうじゃないか。
爆弾太平記 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
町々を歩くと、しばしばあの唐三彩とうさんさい彷彿ほうふつさせる緑釉りょくゆうの陶器を、山と車に積んで通るのを見かけます。
北支の民芸(放送講演) (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
私交上、女子の位地の重要なる事は、国際上に個人としての政治家の位地が重大なるに彷彿ほうふつしておる。
国民教育の複本位 (新字新仮名) / 大隈重信(著)
花下かかに五れつせる緑萼りょくがくがあり、花冠かかん高盆形こうぼんけいで下は花筒かとうとなり、平開へいかいせる花面かめんは五へんに分かれ、各片のいただきは二れつしていて、その状すこぶるサクラの花に彷彿ほうふつしている。
植物知識 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
風の便たよりに聞くとも違って、実地を踏んで来た縫助の話には正香の住む京都ころもたなのあたりや、染物屋伊勢久の暖簾のれんのかかった町のあたりを彷彿ほうふつさせるものがあった。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
読者の眼頭に彷彿ほうふつとして展開するものは、豪壮悲惨なる北欧思想、明暢めいちよう清朗なる希臘ギリシヤ田野の夢、または銀光の朧々ろうろうたること、その聖十字架を思はしむる基督キリスト教法の冥想
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)
本篇はただわずかに故人の一生の輪廓を彷彿ほうふつせしむるためのデッサンたるに過ぎないのである。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
また曰く、「勝利における唯一の道は、殉難じゅんなんに依るにり、殉難を耐久するにり」と。いやしくもこの語を聞く者は、また以て松陰の維新前における猛志を彷彿ほうふつするを得べし。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
ならびに時間的空間的分布の片影を彷彿ほうふつさせるくらいのものはあるであろうと思われる。
年頃に多少の違いはあろうが、むす子の中学時代を彷彿ほうふつさせる長いひさしの制帽や、太いズボンの制服のいでたちだけでも、かの女の露っぽくふるえているまぶたには、すでに毒だった。
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
彼女らの父親の悲憤のさまが彷彿ほうふつと思い浮かべられますが、だから、久之進がいくぶんの罪滅ぼしというつもりから、彼女ら姉妹をその邸内に引き取ってくれたのをさいわいに
洋服ようふくのボタンが一つれて、ひじのあたりがやぶれている具合ぐあいまでが、無頓着むとんちゃくで、なおしてあげるといってもめんどうくさがる、おとうさんのようすを彷彿ほうふつさせて、どくのようにも
汽車は走る (新字新仮名) / 小川未明(著)
親しく語り交わすことが出来た三斎息女浪路なみじは、翌日大奥に戻ったが、かの優人わざおぎのいかなる美女よりも美しくあでやかなおもかげが、たえず目の前に彷彿ほうふつするにつれ、今更のように
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
我々はこの人格を通して彼の「悉有」の認識を思索せねばならぬ。その時にこの悉有の内的光景が幾分かは彷彿ほうふつせられるであろう。思うにそれは、最も深き意味における「自由」である。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
この歌も前の歌と共通した特徴があって、人麿を彷彿ほうふつせしむるものである。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
カトリックの地獄の幻想を彷彿ほうふつさせながら、無間の闇の中に消えている。
白雪姫 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
処が、仮令たとい事件そのものは伝説上に置いても、考証学的知識に依って当時の風俗、歴史が適確に描かれ、その時代の空気を彷彿ほうふつさせるような作品であれば、これを歴史小説と呼んでもいいと思う。
大衆文芸作法 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
ただいま申しましたご婦人の椅子にこの上なく愚劣な傲慢ごうまんさを示しながらふんぞりかえっていたその有様が今も私の眼前に彷彿ほうふつとしているくらいですが、この男はなんと答えたでしょうか? 諸君
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
その点に、上古の天皇と氏上うじのかみとの対面の様子が彷彿ほうふつするのである。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
「好い思いつきだよ。地方色も多少我輩の郷里を彷彿ほうふつしている」
ガラマサどん (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
ドストエフスキーのように、その人物の特徴ある部分のみを誇張してそれによって全人格を彷彿ほうふつたらしめようとする作家がある。
この句は唯この七番戸が生命で、其処まで事実を摘み出して来たところに、いかにも田舎らしい家を彷彿ほうふつせしむる力があって面白いのである。
俳句はかく解しかく味う (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
この人の指揮はこの有名な風景画の描写には少し重いが、しかし申し分なく優麗で、海の奇勝が彷彿ほうふつする心地がするだろう。
楽聖物語 (新字新仮名) / 野村胡堂野村あらえびす(著)
が、それにもかかわらず、あの「わが袖の記」の文章の中にはどこか樗牛という人間を彷彿ほうふつさせるものがあった。
樗牛の事 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
お婆さんの部屋の長押なげしにはその人の肖像が額にしてけてある。私は一言か二言の中にその人のおもかげや生涯が彷彿ほうふつとしてくるような言葉をきくのが好きだ。
犬の生活 (新字新仮名) / 小山清(著)
お雪はみつかれたわたくしの心に、偶然過去の世のなつかしい幻影を彷彿ほうふつたらしめたミューズである。
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
希臘ギリシャの神殿を彷彿ほうふつせしむるような円柱の立ち並んだ金堂、平城京の朝集殿と伝えらるる講堂、及びその西側に細長く建っている舎利殿、小さく可憐かれんな二階造の鼓楼
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
ひねくれた先入観があっては、私はこの故人を、こう彷彿ほうふつと思い浮べることは出来なかったであろう。
樋口一葉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
ツイこのあいだまで立ち働らいていた妻の病みやつれた姿や、現在、先に帰って待っているであろう吾児わがこの元気のいい姿を、それからそれへと眼の前に彷彿ほうふつさせるのであった。
木魂 (新字新仮名) / 夢野久作(著)