口髭くちひげ)” の例文
福間先生は常人よりもむしせいは低かつたであらう。なんでも金縁きんぶち近眼鏡きんがんきやうをかけ、可成かなり長い口髭くちひげたくはへてゐられたやうに覚えてゐる。
二人の友 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
島さんは口髭くちひげを立てている。眉のきりっとした、眼のきれいな、品のいい顔だちで、こんな「街」に住むような人柄とはみえない。
季節のない街 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
反対のかたすみには、支那しな服を着た、大きな男がいました。顔は平たく、長い口髭くちひげをはやしていて、頭がひどく禿げていました。
金の目銀の目 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
春ごろ、日比谷の近くで会ったが、あのときの泣虫の子供が、ひとかどのおとなになって、口髭くちひげをはやしているのには、笑った。
あなたも私も (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
が、それがもう少しこうじると、ほとんど妖怪談ようかいだんに近い妙なものとなって、だらしのない彼の口髭くちひげの下から最も慇懃いんぎんに発表される。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
詩人ウイレムは華奢きゃしゃな脚を組み合わせ、肱をつき、指を口髭くちひげにあて、やがて、のべつにそれをひねるのである。顔を影に向けて眼をつぶる。
その隅には、二人の中年の紳士が向合むきあっていて、その一人の大きな青眼鏡をかけた口髭くちひげのある男の顔が、こちらからは真正面に見えるのだ。
妖虫 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
伸びた口髭くちひげをグイ/\引つ張り/\詩を考へてゐた狂詩人は、私が問ふと矢にはに跳ね起きあごを前方に突き出し唇をとがらせて
途上 (新字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
色の白そうな、口髭くちひげまゆや額の生際はえぎわのくっきりと美しいその良人の礼服姿でった肖像が、その家には不似合らしくも思えた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
梭櫚しゆろの毛を植ゑたりやとも見ゆる口髭くちひげ掻拈かいひねりて、太短ふとみじかなるまゆひそむれば、聞ゐる妻ははつとばかり、やいばを踏める心地も為めり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
あの先生、口髭くちひげをはやしていやがるけど、あの口髭の趣味は難解だ。うん、どだいあの野郎には、趣味が無いのかも知れん。
渡り鳥 (新字新仮名) / 太宰治(著)
パーヴァはもはや子どもではなく、口髭くちひげを生やした一人前の若者だったが、それが見得を切って片手をさし上げ、悲劇の声色こわいろでこう言った。——
イオーヌィチ (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
つい最近退職したばかりの軍人のよくするように、口髭くちひげだけをたくわえて、頤鬚あごひげは今のところきれいにり落としている。
れほどの物好ものずきなれば手出てだしを仕樣しやうぞ、邪推じやすゐ大底たいていにしていてれ、あのことならば清淨しようじよう無垢むく潔白けつぱくものだと微笑びようふくんで口髭くちひげひねらせたまふ。
われから (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
口髭くちひげ頬髯ほおひげとのために顔の他のものは何も見えない。頭には帽子をかぶらず、髪はパピヨットで綺麗に縮らせてある。
鐘塔の悪魔 (新字新仮名) / エドガー・アラン・ポー(著)
もう一つは雑誌の印刷写真から切り抜いたものらしく、眼の大きく鋭い、口髭くちひげの厚い、一種云ひ尽せない魅力のある、豪気な中年の男の横顔でした。
亜剌比亜人エルアフイ (新字旧仮名) / 犬養健(著)
私は自分の白髪頭しらがあたまを両手でつかむと、すっぽり帽子のように脱いだ。次に耳の下からつらなる頬髯ほおひげ口髭くちひげとをとった。
空中墳墓 (新字新仮名) / 海野十三(著)
ハンメル・ランクバック男爵閣下は、頬髯ほおひげ口髭くちひげとをはやし、頤鬚あごひげってる、さっぱりとした小さな老人であった。
中年以後には短い口髭くちひげがあって、頬髯ほおひげがまばらにのび、晩年にはらないので、それが小さな渦を描いていたという。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
声をかけたのは三十前後の、眼の鋭い、口髭くちひげの不似合な、長顔の男だった。農民の間で長顔の男を見るのは、豚の中で馬の顔を見るようなものだった。
カインの末裔 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
髪もまゆも、薄い口髭くちひげもまったくの緑色で——その不思議な色合いが、この娘を何かしら、神々こうごうしく見せるのだった。
紅毛傾城 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
先生せんせいさん、わたしやれでもどうしたものでがせうね」おしな突然とつぜんいた。醫者いしやたゞ口髭くちひげひねつてだまつてた。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
ジャヴェルは橋の欄干に両肱りょうひじをもたせ、あごを両手に埋め、濃い口髭くちひげ爪先つまききで機械的にひねりながら、考え込んだ。
どの世界にでも、いっそ口髭くちひげをつけて歩いておればよいようなむつかし気な女性が一人二人はあるものだ。
平凡な女 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
追いかけ呼びもどして三人の見事な口髭くちひげ、銀色の呼吸を流して、年増女の深い思いが高潮に達したときニコロは私の白いワイシャツの皮膚に彼女の眉墨まゆずみでもって
恋の一杯売 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
司令官は、がっしりした背の高い年をとった男で、口髭くちひげにも、髪にもきらきら光る白髪しらががまじっている。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
如何にそれが正しい人間の形であるかは知らないがあのフランスの多少口髭くちひげえた美人が、一尺の間近まぢかに現れたとしたら、私はその美しさに打たれるより先きに
楢重雑筆 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
口髭くちひげはやした五十年配の主人に出ッ歯の女房、小僧代りに働いている十四、五の男の子の三人暮らし。
ひかげの花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
彼は彼女のそばに、右手を腰にあてがって立ったなり、左手でせわしなく茶色の口髭くちひげをひねっている。
わたしはまたなにかの小言こごとでもくのかとおもつて、軍曹ぐんそうはなしたにチヨツピリえた口髭くちひげながめてゐた。
一兵卒と銃 (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
それは顔一面にひげを生やし、その上、口髭くちひげまでつけた男で、その口髭の下で荒い息をしながらいつでも口を開けたままにしているのだが、この男がおどけてみせようとして
(新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
六尺近い大男で、日本人には類のない白皙はくせきおもてにやや赤味を帯びた口髭くちひげをはやしていた。
大人の眼と子供の眼 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
仰向いてゐる旦那だんなさまの口髭くちひげのある顔や、奥さまの白粉おしろいをつけて眉墨まゆずみを引いた顔や、坊ちやん嬢ちやんのきれいな顔などを見た時、なんともいへぬ可笑をかしさと気の毒さを覚えて
かぶと虫 (新字旧仮名) / 槙本楠郎(著)
大きな鼻の下にちょっぴりと口髭くちひげを生やした純然たるユダヤ系の風貌であった。
父親というのは口髭くちひげを生やした貧弱な男で、どこかに勤めているようであった。母親の方はどこか面差しが姉に似通ったところがあった。その後姉は女学校を卒業してどこかに勤め出した。
安い頭 (新字新仮名) / 小山清(著)
戸内をのぞくと、明らかな光、西洋蝋燭ろうそくが二本裸でともっていて、罎詰びんづめや小間物などの山のように積まれてある中央の一段高い処に、ふとった、口髭くちひげの濃い、にこにこした三十男がすわっていた。
一兵卒 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
その濃い口髭くちひげ顎鬚あごひげとは、博士の顔に冒すべからざる威厳を与えていた。
飼猫のそれとまるで同じな白い口髭くちひげなどに、そっとさわって見たりした。
虎狩 (新字新仮名) / 中島敦(著)
しかし、この時の亡霊は、はるかに背が高くて、すばらしく大きな口髭くちひげをたてていた。そしてどうやらオブーホフ橋の方へ足を向けたようであったが、それなり夜の闇の中へ姿をかき消してしまった。
外套 (新字新仮名) / ニコライ・ゴーゴリ(著)
署長はそれに対して、口髭くちひげに手を当てながらうなずきつづけていた。
或る嬰児殺しの動機 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
「臭いね」綺麗な口髭くちひげの若い士官が、上品に顔をしかめた。
蟹工船 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
背が高く口髭くちひげたくわえ、あぶらぎった赭顔あからがおをしていました。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
禿あがったひたいにも、近眼鏡きんがんきょうかした目にも、短かに刈り込んだ口髭くちひげにも、——多少の誇張を敢てすれば、脂光やにびかりに光ったパイプにも
十円札 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
まゆからほおにかけて、大きくたたんだガーゼを当てて、口にはふくみ綿をして、これも目立たぬ口髭くちひげをつけ、頭を五分刈りにする。
パノラマ島綺譚 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
浅井は押入れの前にしゃがんで、手紙や書類を整理していたが、健かな荒い息が、口髭くちひげを短く刈り込んだ鼻から通っていた。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
「変ですね。」先生は、不満そうに口髭くちひげを強くこすりながら言った。「私がそんなばかな事を言うはずが無いやないか?」
惜別 (新字新仮名) / 太宰治(著)
彼は神経の亢奮こうふんまぎらす人のように、しきりに短かい口髭くちひげを引張った。しだいしだいににがい顔をし始めた。そうしてだんだん言葉少なになった。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
得石のよく手入れのしてある口髭くちひげが片方へひきつった。だがそれは怒りのためではなく、ぬかるみへ坐りこむ酔漢の、居直るような表情に似ていた。
五瓣の椿 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
ひどく日焦ひやけしたその顔は、半分以上、頬髯ほおひげ口髭くちひげに隠れている。大きなかしの棍棒をたずさえていたが、そのほかには何も武器は持っていないらしい。
そして毛ぶかい頤鬚あごひげ口髭くちひげをブルブルふるわせながら、低声こごえの皺がれ声で何かブツブツいっていた。どうやら警官の取扱いに憤慨しているらしかった。
蠅男 (新字新仮名) / 海野十三(著)