せわ)” の例文
愛之助が闇の庭にたたずんで、二階に耳をすましながら、頭ではせわしくそんなことを考えていた時、突然びっくりする様な物音が起った。
猟奇の果 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
手ばしこく針を動かしているお島の傍へ来て、せわしいなかを出来上りのおさめものを取りに来た小野田はこくりこくりと居睡をしていた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
バタバタと蒲焼を焼く煙の中で団扇うちわをたたく音が板場でする。うなぎを裂いたり、蒸したり、せわしげに男達がそこで働いているのだった。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ただ学問のある人はあのような奇妙な素振りをするものか……と思い思いせわしさにまぎれて忘れておりましたような事で……ヘイ……。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
体はいくらか楽ですけれども種々な東京に残した仕事についてのわずらはしい心配や気苦労で少しも休むひまがなく心がせわしいのです。
それはかく、キーシュの狩はその後も成功つづきです。意気地いくじのない村人たちは、彼が取った肉を運ぶのにせわしいという有様でした。
負けない少年 (新字新仮名) / 吉田甲子太郎(著)
……みなさまは、仕事のほうがせわしくて、健康や日常の細かいことまでとても気をつけていられない。……それは、よくわかりました。
キャラコさん:04 女の手 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
其の後で鋳掛屋は、せわしく銅のソース鍋にせ掛けをしました。その鍋の内側をすつかり砂で洗つて、それを火の上に置きました。
未亡人は余りせわしくない奉公口をと云って捜して、とうとう小川町俎橋際まないたばしぎわ高家衆こうけしゅう大沢右京大夫基昭うきょうたいふもとあきが奥に使われることになった。
護持院原の敵討 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
貨殖かしよくせわしかった彼女が種々いろいろな客席へ招かれてゆくので、あらぬ噂さえ立ってそんな事まで黙許しているのかと蜚語ひごされたほどである。
松井須磨子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
「今声を立てたのはお前かい。たれか大声を出して叫んだように聞えたが。」こう言い掛けて、男はせわしい息をいて、こう言い足した。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
ちょっと労働でもして血液中の水素イオン濃度がわずかに一億分一だけ増すとすぐ呼吸がせわしくなって血液中の炭酸ガスを洗滌せんじょうさせる。
柿の種 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
田川夫人はせわしく葉子から目を移して、群集に取っときの笑顔えがおを見せながら、レースで笹縁ささべりを取ったハンケチを振らねばならなかった。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
但東京の屋敷にたのまれて餅を搗く家や、小使取りに餅舂もちつきに東京に出る若者はあっても、村其ものには何処どこ師走しわすせわしさも無い。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
「これが友人の家です。一しょに歩いて貰ってほんとうに愉快でした。ええと、今日は火曜日なんだが、あなたは土曜はおせわしいですか」
フェリシテ (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
併し、嘉三郎は、そのまま何も言わずに、残っている冷酒ひやざけを一息にあおると、せわしく勘定をして、梅雨ばいうの暗い往来へ出て行った。
栗の花の咲くころ (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
それでははじめから、そうしてあげるのだったんですが、手はなし、こうやって小児こどもに世話が焼けますのに、入相いりあいせわしいもんですから。
海異記 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
埠頭にはすでに黒山のようなイキトス号見送り人の喚声が湧き起って眼球めだまあおい船員たちはせわしく出帆の準備に立ち働いている。
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
そこで何かとせわしい思をしている中に、いつか休暇も残少のこりすくなになった。新学期の講義の始まるのにも、もうあまり時間はない。
西郷隆盛 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
しかしそれは、一見変に突き詰めてゐてせわしく大股に見られるものの、又なにがしの太い気落ちと、ガッカリした何か無限の弛緩が見えた。
竹藪の家 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
裏の銭湯で三助を呼ぶ番台の拍子木ひょうしぎが、チョウン! チョウン! と二つばかり、ゆく年のせわしいなかにも、どこかまだるく音波を伝える。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
オシイツクツクの声は日にまし騒がしくせわしなく、あたりが全く暗くなってしまうまで、後から後からと追いかけるように鳴きつづけている。
虫の声 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
女房を迎える暇もないようなせわしい遊蕩ゆうとう——そんな出鱈目でたらめな遊びの揚句は、世間並みな最後の幕へ押し流されて来たのです。
その囃子の音を聴きながら柚湯のなかに浸っているのも、歳の暮れのせわしいあいだに何となく春らしいのびやかな気分を誘い出すものであった。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
安達君としては没計もっけの幸いだったかも知れない。銀行は大晦日の夜更けまでせわしいから、年末の活躍を一切封じられている。
求婚三銃士 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
水があらば一口飲ませてやりたいものと、それでせわしく、四方を見廻したけれども、そこには水のあろうはずがありません。
大菩薩峠:24 流転の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
第一中隊のシードロフという未だ生若なまわかい兵が此方こッちの戦線へ紛込まぎれこんでいるから⦅如何どうしてだろう?⦆とせわしい中でちら其様そんな事を疑って見たものだ。
待兼まちかねたるは妻君よりも客の大原、早く我が頼み事を言出さんと思えども主人の小山たずさえ来れる大荷物をひらくにせわしくて大原にまで手伝いを頼み
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
日曜日になりますとね、あなた、母親おや今日きょうせわしいからちっと手伝いでもしなさいと言いましてもね、平気でそのお寺にいっちまいましてね
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
善吉は一層気がせわしくなッて、寝たくはあり、妙な心持はする、機会を失なッて、まじまじと吉里の寝姿をながめていた。
今戸心中 (新字新仮名) / 広津柳浪(著)
往来であるのも打ち忘れ、範之丞と織江とは足を停め、又助が敵でもあるかのように、左右から詰め寄りせわしく訊いた。
血煙天明陣 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
で総理大臣の国王にいますと「今日は非常にせわしい。明日ランボンの猟宮かりみやへ来てくれ。旅行券を与えるから」という。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
『どうだ。なかなかよく勉強してゐるやうだね。つい始終せわしいもんだから、聞きもしないが、御親父は御壮健かね』
誰が罪 (新字旧仮名) / 清水紫琴(著)
文「また来たか、誠に心にかけて毎度旨い物を持って来てくれて気の毒だ、商売をしていればさぞせわしかろうから態々わざ/\持って来てくれなくもいゝのに」
業平文治漂流奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
たすきがけせわしく働いていた下女は二人とも、春日の姿を見ると叮嚀にお辞儀をした、その一人の方へ近づくと優しく
誘拐者 (新字新仮名) / 山下利三郎(著)
だが、わしのトランクに関するかぎり、そのような純真じゅんしんな算術は成り立たないのだよ。せわしいから説明をしていられないが、しかしこれは事実なんだ。
例のごとくせわしい正月を迎えた。客の来ない隙間すきまを見て、仕事をしていると、下女が油紙に包んだ小包を持って来た。どさりと音のする丸い物である。
永日小品 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
せわしない誘導訊問を受け、今にも死ぬほどの痛い目にあわすぞとおどされた人間の口から洩れた告白ではないか。
老婆が出て往って襖の締る音がすると、お滝は急に頭をあげて茶の間の方を見た後に、くるりと起きあがり、せわしそうに膳を引き寄せて飯を喫いだした。
狐の手帳 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
しかし口には何事も言わずにただ身形みなり容子ようすで——もう日が暮れて時刻が遅くなるぞ。早くやっつけてしまわねえかと催促するようにせわしげに動き始めた。
捕われ人 (新字新仮名) / 小川未明(著)
その罪のつぐないをする間はせわしくてこの世を顧みる暇がなかったのだが、おまえが非常に不幸で、悲しんでいるのを見ると堪えられなくて、海の中を来たり
源氏物語:13 明石 (新字新仮名) / 紫式部(著)
女から見れば、男は種種いろいろの事に関係たずさわりながらそのせわしい中で断えず醜業婦などに手を出す。世の中の男で女に関係せずに終るという人は殆どありますまい。
産屋物語 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
彼は、瑠璃子には、一言も答えないで、そのいら/\しい気持を示すように、自棄やけせわしく箸を動かしていた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
眼でも悪いのか、しょぼしょぼした目蓋をせわしなくふるわせながら、小鼓つづみの望月は二三歩先に立って道を拾う。
助五郎余罪 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
せわしいので、今月はねつから小説を読まずに暮した。谷崎君の『病蓐びやうじよくの幻想』と中村孤月氏の『人の生活』と、加能君の『醜き影』とこの三つを読んだきりだ。
初冬の記事 (新字旧仮名) / 田山花袋田山録弥(著)
せわしい結婚準備に追われ、そのまま引きられるようにして、とうとう式まですましたので御座います。
秘密の相似 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
ダイヤモンド鉱山の仕事がせわしすぎるのに違いありませんでした。手紙には、こう書いてありました。
きのうの事は幕明まくあきの音楽で、せわしい調子の中へ、あらゆるモチイヴを叩き込んだものに過ぎないので、これからが本当の曲になると云いたいのですが、あなたには
十一時近かったけれども、空風からっかぜに裾をくられながら、せわしそうに歩き廻っている人で群れていた。
罠に掛った人 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
隣家となりでは朝から餅搗もちつきを始めて、それが壁一重隔てて地響のように聞えて来る。三吉の家でも、春待宿はるまつやどのいとなみにせわしかった。門松は入口のところに飾り付けられた。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)