一図いちず)” の例文
旧字:一圖
宗近の言は真率しんそつなる彼の、裏表の見界みさかいなく、母の口占くちうら一図いちずにそれと信じたる反響か。平生へいぜいのかれこれからして見ると多分そうだろう。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
マアそう一図いちずに怒らんでもよい。ナニも満が私たちに黙って自分の好きな女を引入れたのでなし、ともかくも東京へ来て本人を
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
この男と一緒に、江戸の陋巷ろうこうの真ん中へでも、人里離れた山の奥へでもと、一図いちずに思い込む京姫の望みは、素より遂げられる筈もありません。
あの土人どもの無智な一図いちずの活動はむしろ峻烈極まったものだった。映画で見る樺太犬のそり引きとたいして違いはなかった。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
わたしはまだこの時位、開化を鼻にかける兄を憎んだことはございません。お母さんを莫迦ばかにしてゐる、——一図いちずにさう思つたのでございます。
(新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
あの通り組んずほぐれつの中ではねらいは至極しごく困難致す、足を傷つけて下へ落し、命は助けておきたいと存ずるが、一図いちずにそうもなり兼ねる、万一
大菩薩峠:14 お銀様の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
が、それはもとより酒の上の冗談に過ぎないのを、世間知らずの山育ちの青年わかものただ一図いちず真実ほんとうと信じて、こことんでもない恋の種をいたのであろう。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
『——そういう事とは知らない八雲様は、もう、私は獄舎ひとやの人間か、死んだ者とお思いになって、一図いちずに、先へお出でになってしまったのではないか?』
篝火の女 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その気で居れば可いものを、二十四の前厄なり、若気の一図いちず苛々いらいらして、第一その宗山が気に入らない。(的等。)もぐっとしゃくに障れば、妾三人でかっとした。
歌行灯 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
じつ私自身わたくしじしんも、はじめてこちらの世界せかいました当座とうざは、ただ一図いちず口惜くやしいやら、かなしいやらでむねが一ぱいで、自分じぶん場所ばしょがどんなところかというようなこと
意地強く金をめようなどという風の男ではない。万事控目で踏み切ったことが出来ない。そこで判事試補の月給では妻子は養われないと、一図いちずに思っていたのだろう。
独身 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
……けれども最早もう、ここまで来た以上は仕方がない。この少年は私が二年前に出した広告をいつまでも……私が息を引き取る間際までも有効だと一図いちずに信じて来ているらしい。
暗黒公使 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
そうかといって他に相当な生活の道を求める手段を講ずる気振けぶりもなかったから、一図いちずに我が子の出世に希望を繋ぐ親心おやごころからは歯痒はがゆくも思いあきれもして不満たらざるを得なかった。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
青天せいてん霹靂へきれきにもたとうべくや、所詮しょせんは中江先生も栗原氏も深き事情を知り給わずして、一図いちずに妾と葉石との交情を旧の如しと誤られ、この機を幸いに結婚せしめんとの厚意なるべし。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
聞いて、一図いちずにアヽ悪い事をしたと云って、お前さんのような事を仰しゃるお方も有りますが、其の心持が永く続かないものですから、そんな事を云わなくっても、只アヽ悪い事を
真景累ヶ淵 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
学問をしたい、そうしたならばと一図いちずに思い詰めた少年の杉本がいた、官費の師範学校でさえも(彼はそのさえもに力を入れて考える)知人の好意に泣きすがらねばならぬ家庭であった。
白い壁 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
目鼻立のパラリとした人並以上の器量、純粋の心を未だ世に濁されぬ忠義一図いちずの立派な若い女であった。然し此女の言葉は主人の昨日きのう今日きょうを明白にして了った。そして又真正面から見た
雪たたき (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
一ツ寝の床に寐相ねぞうをかまはず寐言ねごと歯ぎしりに愛想をつかさるるとは知らで、たまたま小言の一も言はるれば、一図いちずに薄情とわるく気を廻して、これよりいよいよ何かにつけて悋気りんきの角を現す。
桑中喜語 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
風流人という文人かたぎの本性においては終始かわらぬものがあったが、ただ一図いちずに物を思いこむと、それが強い自負心のうちで高揚される。かれが自然主義に熱中したのもそれがためであろう。
ふくろ他人ひとから後ろ指を差されることになっては困る……一図いちずにそう考えこんだものと見えまして……その後あれ他人ひと様のお金に手をかけたのも、つまりそのお金でもってわたしの盗んだ金を返して
情状酌量 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
兄さんが、いつか、お金にもならない小説なんか、つまらぬ、と言っていたが、それは人間の率直な言葉で、それを一図いちずに、兄さんの堕落として非難しようとした僕は、間違っていたのかも知れない。
正義と微笑 (新字新仮名) / 太宰治(著)
その時私はただ一図いちずに波を見ていました。そうしてその波の中に動く少し紫がかった鯛の色を、面白い現象の一つとして飽かず眺めました。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
孫の隼人を初め江原もことの不思議に驚いて、この上は唯一図いちずに嘘だとか馬鹿馬鹿しいとかいい消して了う訳には往かぬ。
お住の霊 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
血まようた平家の衆は、源氏のもの憎しの一図いちずで、およそ、源家の係累けいるいのものと聞けば、婦女子でも、引っからげて、なにかの口実をとって必ず斬りまする
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それまでの私の心は、ただ、私の事を、はずかしめられた私の事を、一図いちずにじっと思っていた。それがこの時、夫の事を、あの内気うちきな夫の事を、——いや、夫の事ではない。
袈裟と盛遠 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
若い内はとかく何事も一図いちずに物を思いつめる癖があってそれがために往々正当な判断力を失う。
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
平生へいぜい悪人をのみ取り扱うに慣れたる看守どもの、一図いちずに何か誤解せる有様にて、妾の言葉には耳だもさず、いよいよあざけ気味ぎみに打ち笑いつつ立ち去りたれば、妾は署長の巡廻を待って
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
ごうも小生の意志を眼中がんちゅうに置く事なく、一図いちずに辞退し得ずと定められたる文部大臣に対し小生は不快の念を抱くものなる事をここに言明致します。
博士問題の成行 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
彼は理由をくもたださずに、の怪しき坑夫ていの男を母のかたき一図いちずに思い定めて、その場を去らずに彼を刺止さしとめた。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
脱けて、一図いちずにお急ぎ遊ばしたお心はよくわかっておりますが、なぜ一言ひとこと、吉次にお洩らし下さいませんでしたか。吉次如きは、鞍馬の後は、もはやお役に立たぬ人間と、お見限りを
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そこで、娘はそれを観音様の御告おつげだと、一図いちずに思いこんでしまいましたげな。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
母の考えでは、夫がさむらいであるから、弓矢の神の八幡はちまんへ、こうやって是非ないがんをかけたら、よもやかれぬ道理はなかろうと一図いちずに思いつめている。
夢十夜 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
重太郎はうも考えた。けれども、自分の姿を見ればただちに追跡する警官等が、その理屈をいてれるや否やをあやぶんだ。警官等は自分の敵であると彼は一図いちずに信じていた。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
けれども妹の気質きしつを思えば、一旦篤介を愛し出したが最後、どのくらい情熱に燃えているかはたいてい想像出来るような気がした。辰子は物故ぶっこした父のように、何ごとにも一図いちずになる気質だった。
(新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
手を合せる一図いちずさで
私本太平記:01 あしかが帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
年の若いわたくしはややともすると一図いちずになりやすかった。少なくとも先生の眼にはそう映っていたらしい。私には学校の講義よりも先生の談話の方が有益なのであった。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「無邪気なものですね」と兄はむしろ賛嘆さんたんくちぶりを見せた。今まで黙っていた客が急に兄に賛成して、「全くのところ無邪気だ」とか「なるほど若いものになるといかにも一図いちずですな」
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
こけを畳むわずらわしさを避けて、むらさき裸身はだかみに、ちつけて散る水沫しぶきを、春寒く腰から浴びて、緑りくずるる真中に、舟こそ来れと待つ。舟はたても物かは。一図いちずにこの大岩を目懸けて突きかかる。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
私の同意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。一図いちずな彼は、たとい私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられます。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
彼は別れて以来一年近く今日こんにちまで、いまだこの女の記憶をくしたおぼえがなかった。こうして夜路よみちを馬車に揺られて行くのも、有体ありていに云えば、その人の影を一図いちずおっかけている所作しょさちがいなかった。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)