あわ)” の例文
あわれなことには、わたしはその後にもいろいろのことを見ているにもかかわらず、いまだに彼女を悪魔だと信じることができません。
(おそらくはのたれじにという終りを告げるのだろう。)そのあわれな最期さいごを今から予想して、この洋杖が傘入の中に立っているとする。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
兵部をあわれむような、むしろ、いたましいとでもいうふうに、ゆっくりと首を振り、それから疲れた人のように、深い太息をついた。
この点においては反感を買おうとも、あわれみを受けようとも、そこは僕がまだ至らないのだとして沈黙しているよりいたしかたがない。
片信 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
王子おうじはこういうあわれな有様ありさまで、数年すうねんあいだあてもなく彷徨さまよあるいたのち、とうとうラプンツェルがてられた沙漠さばくまでやってました。
薫はあわれみも感じ、心のかれそうになることがあっても、何事も無常の人世なのであるからと冷静に考えては見ぬふりを続けた。
源氏物語:49 総角 (新字新仮名) / 紫式部(著)
しかし昔はそれがあったものと見えて、「紫の一もとゆえに武蔵野の、草はみながらあわれとぞ見る」という有名な歌がのこっている。
植物知識 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
あわれむべし過度の馳騖ちぶに疲れ果てたる馬は、力なげにれたる首をならべて、てども走れども、足は重りて地を離れかねたりき。
義血侠血 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
記者は彼を指して不幸なる男よというのみ、その他を言うに忍びず、彼もまた自己をあわれみて、ややもすればいわく、ああ不幸なる男よと。
酒中日記 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
「なにゆえに眼を開くのか? なにゆえに眼を覚ますのか? 地下に横たわってるあわれな友のように、このままじっとしていたい……。」
孤児みなしごは、頑固かたくななものと、沢庵はあわれにもなったが、その頑固な心の井戸はつねに冷たい空虚うつろをいだき、そして何かにかわいている。
宮本武蔵:02 地の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
浜田は口をもぐもぐやらせて、何か云いそうにしましたけれど、矢張黙って、私の前にあわれみをうかのごとく、うなじを垂れてしまいました。
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
夫人の整った美しい顔にあわれみをうようなすがりつきいような功利的な表情が浮んで、夫人の顔にはじめて生気を帯ばした。
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
あわれな清吉にとっては教師も遂に正義の味方ではなかった。——多数の方には動かすべからざる力があっても真理は弱者に存ずる場合がある。
蝋人形 (新字新仮名) / 小川未明(著)
イエス・キリストの乗り物であった驢馬にまたがることは、あわれな一牧師にとってははなはだ不遜ふそんなことである、と諸君は思われるでしょう。
「お前はあわれな父親の手から、この女の子を盗んで来た。もし命が惜しかったら、明日あすとも言わず今夜の内に、早速この女の子を返すがい」
アグニの神 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
全く自分の見て来たものも知らずにまだ前と同じ良人おっとだと自分を思っている妻の芳江が、このとき何となく梶にはあわれに見えてならなかった。
厨房日記 (新字新仮名) / 横光利一(著)
余程旅慣れた姿の汚ない姿で、三十三番の内美濃うちみの谷組たにぐみの御詠歌を唄ってまいりましたが、巡礼の御詠歌を唄うはあわれなものでございまする。
お前は渦巻うずまきつつ落ちて行く者どもを恐れとあわれみとをもってながめながら、自分も思い切って飛込もうか、どうしようかと躊躇ちゅうちょしているのだな。
悟浄出世 (新字新仮名) / 中島敦(著)
このあわれむべき学生、このから威張りの坊や、脚の曲った髯の男が、エルザのベッドの前にひざまずき、手を合わせて許しをうている情景だった。
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
あなたの考えていらっしゃるようなことはとても実行できる見込みはありません。あなたは私をあわれみ愛してください。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
必ず同情相あわれむの心をば生ぜずして、かえってこれを忌み嫌うの念を起こし、これをにくんでその実に過ぐること多し。
学問のすすめ (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
ほの暗い谷(3)を歩みながら、私は世の人々の同情を——むしろあわれみをと言いたいのであるが——切望している。
何よりももっとも悪いのは、こういう金銭上の悩みや一家のなかの確執が、このあわれな男自身に及ぼした結果である。
だが、それ以上突込んで聞くのも私には業腹ごうはらだったし、私は自分の無能をあわれみ、自己嫌悪を感じて黙ってしまった。
火縄銃 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
ただ願わくは上人のわが愚かしきをあわれみて我に命令たまわんことをと、九尺二枚の唐襖からかみ金鳳銀凰きんほうぎんおうかけり舞うそのはく模様の美しきも眼に止めずして
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
みやこに去られた方も、あなたさまのなかに秘められてあるという、愚鈍なわたくしの考えをおあわれみくださいませ。
津の国人 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
あなた様があわれみて五十銭を恵み給いし小供は、悪性の疱瘡ほうそうにかかり、一週間前に世を去りぬ、今日こんにちはその一七日ひとなのかなれば線香なりと手向たむけやらんと
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
弁信が悄々しおしおとして、それにつづいて来たけれど、伊太夫は、それを叱ることも、あわれむことも、なすいとまがなく
大菩薩峠:26 めいろの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
といって、また追憶を新たにする風であったが、私はそれよりも自分の目前の境遇の方がはるかにあわれであった。
霜凍る宵 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
私はいかに小さくともあれだけ貧乏して来たからにはどんなに自分があわれな貧乏人の子であったかを知っている。
ただ寄り集って手を握り、たがいに人の悲しみを感じながら、あわれに沈黙するほかはないのである。見よ。秋深き自然のもとに、見も知らぬ隣人が生活している。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
これはと思ったら、思い切った金をかけて、物惜しみなさらねえ……御自分も苦労なすった方でやすから、あわれみが深くて、実にようでけたお方でやす。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
兄は珊瑚のことを聞いてあわれに思って、うちへ連れて来て他へ嫁にやろうとした。珊瑚はどうしてもきかずに、姨の傍で女の手仕事をして生計くらしをたてていた。
珊瑚 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
鎌倉幕府の記録である吾妻鏡天福元年五月二十七日の条には、聴くもあわれな補陀洛渡海の事件が載せてある。
本朝変態葬礼史 (新字新仮名) / 中山太郎(著)
先生はいたずらに気合をかけても誰れ一人としてその気に打たれるものなき時まことにまた悲しくもあわれである。
油絵新技法 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
「我らが主君御嶽冠者みたけかじゃは仁義に厚き大将ゆえ、貴殿の妻女をよくあわれみ、陣の後方に侍女を付けて大切に住まわせており申す。賓客まれびとあつかいにしてござるよ」
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
思惟しいの思惟」に依って橄欖山オリーブやまを夢見る哲学者をあわれみ、ヂオヂゲネスの樽をおしている詩人を軽蔑けいべつ
吊籠と月光と (新字新仮名) / 牧野信一(著)
小雨の中に肩をすぼめて艙口ハッチを降りて行く伊那少年の背後うしろ姿は、世にもイジラシイあわれなものであった。
難船小僧 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
あわれであるから金を恵むというも、一円や二円の額ならその申し開きも受け取れるが、数千の金を出すにいま述ぶるがごとき申し訳けは取り上げがたいとげた。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
阿賀妻はだしぬけに一言そう云って、煙草盆の小さな埋火うずみびをきせるの先で掻きだした。そのあわれな火玉を、最後の握り飯にかじりついている甚助におしてやった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
彼はただキョロキョロして家の裏を駈け回り、己が影をいてまた立ち回り、「主はいずこに帰ってある」と、あわれのものよ彼はまだ夫の不幸に気づかであるなり
空家 (新字新仮名) / 宮崎湖処子(著)
この憎むべき矢に射貫いぬかれた美しい暖い紅の胸を、この刺客の手にたおれたあわれな柔かい小鳥のむくろを。
少年・春 (新字新仮名) / 竹久夢二(著)
そうした彼らを見ていると彼らがどんなに日光をたのしんでいるかがあわれなほど理解される。とにかく彼らが嬉戯きぎするような表情をするのは日なたのなかばかりである。
冬の蠅 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
大汗になって弁解する源吉を、平次は浅ましくもあわれに見て、それっきり引揚げてしまったのです。
たまにはあわれな私の事を思い出して下さい。どうぞ、生甲斐のある人生をお送りになりますように。
罠に掛った人 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
書いたものもまた色も香もつやも生気もないしおれた花のあわれさを思わせるようなものばかりだった。
美妙斎美妙 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
そうしてことに私のように、詩を作るということとそれに関聯したあわれなプライドのほかには、何の技能ももっていない者においていっそう強くけねばならぬものであった。
弓町より (新字新仮名) / 石川啄木(著)
そのかたわらに見るからあわれをもよおすような、病みやつれた六十ばかりの老爺おやじ、下草にべったりと両手をつき、水洟みずばなをすすりながら、なにかクドクドとくり言をのべている。
顎十郎捕物帳:09 丹頂の鶴 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
いよいよ大原君がお代さんと婚礼したら大原君の身をあわれに思いあくまでも和女がお代さんを良夫人に仕立ててげて大原君の幸福を増さしめるように心掛けなければならん。
食道楽:秋の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)