ぬか)” の例文
それは何か巨像が金剛こんごうの信を声に発したように二人の耳朶じだを打った。はっと、ぬかずいてしまうしか他の意志のうごくすきもなかった。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼の言葉によると、彼ほどの誠をもって、その若く美しい女の霊前にぬかずいたものは、彼以外にほとんどあるまいという話であった。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
この部屋は、光線の取り方も苦心をして幽邃ゆうすいを漂わせているから、此処こそ参詣者のぬかずく場所と、私も合点して合掌したのであった。
褐色の求道 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
一人は拝殿の広前へ立ち入ってぬかづき、鈴の緒を振って祈願をこめた後、社務所の前へ立って、役僧に雪見の場所を無心したのである。
『七面鳥』と『忘れ褌』 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
彼等は一輛の車に二三人ずつ乗せられて、町を引き廻された上刑場に着くと、先ず秀次の首にぬかずいて、それから順々に殺されて行った。
聞書抄:第二盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
この時に當りて、その御髮みかみぬかに結はせり。ここに小碓をうすの命、そのみをば倭比賣やまとひめの命御衣みそ御裳みもを給はり、たち御懷ふところれていでましき。
黒がねのぬかはありとも、帰りてエリスになにとかいわん。「ホテル」を出でしときのわが心の錯乱さくらんは、たとえんに物なかりき。
舞姫 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
八時いつつすぎになって港の左側の堰堤の上に松明たいまつの火が燃えだした。其処には権兵衛が最初の祈願の時の武者姿で、祭壇を前にしてぬかずいていた。
海神に祈る (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
この神の前にぬかずいて、老人は亡びたる伝統を祈り、若者は見もしらぬ恋人を念じ、そして万人が「自己」を願うのだ。
二十歳のエチュード (新字新仮名) / 原口統三(著)
一方天高く遙かに仰ぎ見る如きぬかづいた心で居ながら、而もその人が世にも不幸なはかない者に思はれて、慈悲の眼で、陰から見守つてやりたくなる。
明神の社前にぬかずいて、型のごとく一家の息災を祈っているうちに、空はいよいよ曇って来て、さらでも薄暗い木の下蔭が夕暮れのように暗くなった。
半七捕物帳:55 かむろ蛇 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
さらずば、君は始より眞成まことにベルナルドオを愛せざりしか。君が唇のベルナルドオのぬかに觸れしをば、われ猶記す。君いかでかベルナルドオを愛せざらん。
又は「正義」「進歩」「眞理」或は「神性」「人道」「自然法則」また「藝術」にも「美」にもぬかづかしめず
頌歌 (旧字旧仮名) / ポール・クローデル(著)
琢堂の墓の前にぬかずく黒い影は、平次とガラッ八が、しめし合せて前後から迫るのも知らずにいたのです。
謂はゞ偶然今日其處へ參詣して、この叔父の事が思ひ出され、その位牌にぬかづく思ひで、頭を垂れた。
鳳来寺紀行 (旧字旧仮名) / 若山牧水(著)
その金力の前に、先ず雪江さんの両親がぬかずき、ついで雪江さんも額ずくことを余儀なくされたのだ。
恋愛曲線 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
老松おいまつちこめて神々こうごうしきやしろなれば月影のもるるは拝殿階段きざはしあたりのみ、物すごき下闇したやみくぐりて吉次は階段きざはしもとに進み、うやうやしくぬかづきて祈るこころに誠をこめ
置土産 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
ねんごろにくものを葬う重厚な村の儀式気分は少しもなく、みな、憂心忡々ゆうしんちゅうちゅうとして墓地に群がり、ある者は墓の前にぬかずき、ある者は墓を抱いてみな泣いている。
大菩薩峠:38 農奴の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
一千一百年以前からあったという古神社を継承した建築の、奥底に持つ深秘の力は、いかにも富士の本宮として、人類がぬかずくべき御堂を保ち得たことを喜ぶばかり。
不尽の高根 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
三度みたび⦅汝、詩人たるべし!⦆と呼び、三度みたび我がぬかを月桂樹もてよそほうて、空の方へと連れ去つた。
そして二人とも拝んでいる幼い子の背後にぬかずいて、凝乎じっと一緒に合掌しているのであろう。
逗子物語 (新字新仮名) / 橘外男(著)
そして、その行くての空に、伝法院のいちょうのぬかずくごときしげりの影をしたがえた仁王門が……これだけは昔ながらのの褪せた建てものが、おりからの夕日に映えて
浅草風土記 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
現代の文明によって生まれた機械は現代人に血と肉とを与えると共に、またこれをくらう。傲然として労働者の父となり王となり、富豪をぬかずかせ、国家の政治をも左右する。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
親子が揃ってぬかずいた時、お妙の手の巾着きんちゃくが、羽織の紐の下へ入って、姿は辻の暗がりへ。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
郎女のぬかの上の天井の光のかさが、ほのぼのと白んで来る。明りのくまはあちこちに偏倚かたよって、光りをたてにくぎって行く。と見る間に、ぱっと明るくなる。そこに大きな花。蒼白いすみれ
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
二人の婆さんは広い神前にぬかずくと、やがて両手を拡げて、異様な踊を始めだした。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
華かな王朝という織物の裏が、ちらりと見えて面白い。また「鳥の声などは聞えで、御嶽精進みたけさうじにやあらん、ただ翁びたる声にて、ぬかづくぞ聞ゆる」は更に深く民衆の精神をうかがわしめる。
『新訳源氏物語』初版の序 (新字新仮名) / 上田敏(著)
座敷著のまま毘沙門様の扉の前にぬかずいているのも見られた。新内の流しが此方こっちの横町から向側の横町へ渡って行ったかと思うと、何処かで声色使こわいろづかいの拍子木の音が聞えて来たりした。
早稲田神楽坂 (新字新仮名) / 加能作次郎(著)
ひとまにひそかに入りつつ、京に疾くのぼせ給ひて、物語の多く侍ふなる、あるかぎり見せ給へと、身を捨ててぬかをつきいのり申すほどに、十三になる年のぼらむとて、九月三日門出して——
その男のはさだめしお父さんを恋しがっていることだろうなどと語り合い、やがて一種奇妙な想念の流れにみちびかれて、二人して聖像の前にかしこまって、地にぬかずいて礼拝をしながら
可愛い女 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
一松斎はそういって、ぬかずく雪之丞を見下ろすと、祭壇に向って、柏手を打ち、深く、跪拝きはいして、いつも神霊の前に供えてある、黒木の箱のふたをはねると、中から、一巻の巻物まきものを取り出した。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
前に、「相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへにぬかづく如し」(巻四・六〇八)とあったのを参考すれば、木像のようにおもわれる。何れにせよ、この諧謔が自然流露の感じでまことにうまい。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
筒井は父母の位牌いはいの前に行き、ぬかずいて永く頭をあげずにいのりの時をつづけた。それは親しいものの限りをつくした、見ていても、心に重みのくるような礼拝のよろこびをあらわしたものだった。
津の国人 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
おもはぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへにぬかづくがごと (笠女郎)
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
うつそみの親のみすがた木につくりただにぬかずり哭き給ひけん
貢さんは黒塗くろぬりの経机の前の円座ゑんざの上に坐つて三度程ぬかづいた。
蓬生 (新字旧仮名) / 与謝野寛(著)
汐あむや瑠璃を斫りたる桂なし海松みるぶさささともぬかふれにける
恋衣 (新字旧仮名) / 山川登美子増田雅子与謝野晶子(著)
わがぬかむちもて打つは誰がわざぞ見覚めて見れば手の上のふみ
註釈与謝野寛全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
こし方や我れおのづからぬかくだる謂はばこの恋巨人の姿
晶子鑑賞 (新字旧仮名) / 平野万里(著)
私前に再三ぬかづき又は手を合せて拝みなど致し候うて
尾形了斎覚え書 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
ぬか青き林光文は、 そばだちてまじろぎもせず。
文語詩稿 一百篇 (新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
ぬかづきしおもわのかげのえがてに
有明集 (旧字旧仮名) / 蒲原有明(著)
わがぬかふんして鳥は空に遊べり
一握の砂 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
ぬかづきし日は何日なりし。
泣菫詩抄 (旧字旧仮名) / 薄田泣菫(著)
裏面うらには伶人ぬかをたれて
古盃 (旧字旧仮名) / 萩原朔太郎(著)
ぬかひろく 顎しじまり
池のほとりに柿の木あり (新字旧仮名) / 三好達治(著)
夜半の戸にぬかを垂れて
焔の后 (新字旧仮名) / 末吉安持(著)
わがぬかをみむねにあてゝ
孔雀船 (旧字旧仮名) / 伊良子清白(著)
仰げばぬかあめなる
花守 (旧字旧仮名) / 横瀬夜雨(著)
旅すがたのまま、いちど持仏堂へ入り、やがて、静かに出てきた善信は、自分のまえにぬかずいて、無事な帰りを祝う法弟たちに向って
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)