ただよ)” の例文
一斉に絶えずかすかゆらいで、国が洪水に滅ぶる時、呼吸いきのあるはことごとく死して、かかる者のみただよう風情、ただソヨとの風もないのである。
伊勢之巻 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
やがて胸はその花のごとく燃ゆるをおぼえ、こころはかの帆影の星のごとくただよふをわかざらむとす、そは佐用姫さよひめの古事を憶ひいづればなり。
松浦あがた (新字旧仮名) / 蒲原有明(著)
十畳ばかりのその部屋には、彼のわびしい部屋とは似ても似つかぬ、何か憂鬱ゆううつなまめかしさの雰囲気ふんいきがそこはかとなくただよっていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
船縁からのぞいてみたら、金魚のようなしまのある魚が糸にくっついて、右左へただよいながら、手に応じて浮き上がってくる。面白い。
坊っちゃん (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それから太陽が沈み、涼しい夜の空気がくりの木蔭にただよつた時、二人は其処そこに坐つてゐた。ほほと頬とを寄せ合ひ、互ひに腰へ手を廻しながら。
翻訳小品 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
そして、ジャズの音が激しく、光芒のなかで、歔欷すすりなくように、或は、猥雑わいざつ顫律せんりつただよわせて、色欲のテープを、女郎じょろうぐものように吐き出した。
しぶきが頬桁ほおげたなぐり、水が手足をぎとろうとする、刻々に苦しくなってゆく波に、ふと仄明ほのあかりにただよっているボートが映る。
火の唇 (新字新仮名) / 原民喜(著)
高い天井には古風なシャンデリアが点いていたが窓外にはまだ黄昏たそがれの微光がただよっているせいか、なんとなく弱々しい暗さを持った大広間だった。
赤耀館事件の真相 (新字新仮名) / 海野十三(著)
そこら一面には、着物や肌着などが、暴風雨あらしのあとの花のように飛散し、若い女の血の臭いが、なまぐさただよっているのだった。
夢鬼 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
ほど経て、一滴のしづくのやうな悲しさを一つの場所に感じてゐた。そして、冷え冷えとただよふものが一条ひとすじばかりゆるやかに身体をぬうて流れていつた。
Pierre Philosophale (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
陽に光るたくましいにわとこや、まかく鋭いおうちの若葉が茂る間にライラックの薄紫の花がただよ
ガルスワーシーの家 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
蒼白あおじろい、光の鈍い顔だつた。縁の無い近眼鏡のレンズだけが、滑らかな光を彼女の顔にただよはせて、妙に大人びた表情を生み出してゐた。伊曾は不調和な印象を受け取つた。
青いポアン (新字旧仮名) / 神西清(著)
見渡す限り草も木も、燃え立つような若緑に蔽われていて、色とりどりの春の花が、巨大な左右の土の斜面の上を、てしもなく群がり輝やき、流れただよい、乱れ咲いていた。
木魂 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
天の一方には弦月げんげつが雲間から寒い光を投げて直下の海面に一抹の真珠光をただよわしていた。
札幌まで (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
前は近く弥陀ヶ原の高原と並行して、其縁を限る大日岳の連嶺が奥大日、大日、小大日の諸峰を崛起くっきし、余脈を遠く西に走らせて、末は富山平原の上にただよう層雲の中に没している。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
其中には銀細工やニッケル細工のこまかい精巧なものが倒れたり破れたりして狼籍し、切子の美しい香水瓶が憐れに破われて煙臭い塵臭い中に床しいホワイトローズの香気をただよわしていた。
元禄五年の春、五十二歳になった上野介は飄然ひょうぜんとして領地へかえってきた。着いたのは三月のはじめの雨の日である。大気はまだうすら寒かったが華蔵寺には早くも春の気配がただよっていた。
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
もうひとつ、彼等の知性のうちには不思議な病症がただよっていた。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
男性的な、豊なかおりが、革の隙間を通してただよって参ります。
人間椅子 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
そして微笑がその口のあたりにただよいました。
Kの昇天:或はKの溺死 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
屋根から屋根へ、——樹のこずえから、二階三階が黒烟りにただよう上へ、飜々ひらひらと千鳥に飛交う、真赤まっかな猿の数を、く行く幾度も見た。
朱日記 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
行く手に、ぼんやりと千鳥食堂の灯が、ただよって来た——と同時に若い女の後姿が、仄々と影絵のように、浮び出て来た。
夢鬼 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
彼はふらふらの気分で、しかしまっすぐ歩ける自分をいぶかりながら鋪道を歩いていた。友人と別れた後の鋪道にはまたぼんやりと魔の影がただよっていた。
死のなかの風景 (新字新仮名) / 原民喜(著)
それはこの尼僧院には、およそ似つかしからぬ艶めいた香をただよわせるのだった。それとも若い女というものは、作らずしてこんな体臭をもっているのだろうか。
鍵から抜け出した女 (新字新仮名) / 海野十三(著)
葉子の家の裏あたりから、川幅は次第に広くなって、浪にただよっている海猫うみねこの群れに近づくころには、そこは漂渺ひょうびょうたる青海原あおうなばらが、澄みきった碧空あおぞらけ合っていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
博雅の君子亦「鏡花全集」を得て後、先生が日光晶徹の文、哀歓双双あいくわんさうさう人生じんせいを照らして、春水欄前に虚碧きよへきただよはせ、春水雲外に乱青らんせいを畳める未曾有の壮観をほしいままにす可し。
「鏡花全集」目録開口 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
あとに続けと一人が従えば、尻を追えと又一人が進む。一人二人の後は只我先にと乱れ入る。むくむくと湧く清水に、こまかき砂の浮き上りて一度にただよう如く見ゆる。
幻影の盾 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
只看れば、日の入るかたの空は黄金いろに燻りて名残の光のさまよへる、また匂はしき西風は一片の白雲を静かにただよはせたるよ。——詩人が愛づるを言ひしは、かかる折なりき。
松浦あがた (新字旧仮名) / 蒲原有明(著)
弱々しい、物悲しい微笑をただよわしている博士の顔を仰いだが又、ハッと眼を伏せた。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
あらゆる外界の刺戟と変化からさえぎる為に引かれた幕の内に、只茫然と坐す空虚がかすかに、その青白い頬や額にただようばかり。引かれた幕の南端を守る夫人と老女は、時々低くささやいて居る。
動かぬ女 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
椿岳の伝統を破った飄逸ひょういつな画を鑑賞するものは先ずこの旧棲を訪うて、画房や前栽せんざいただよう一種異様な蕭散しょうさんの気分に浸らなければその画を身読する事は出来ないが、今ではバラックの仮住居かりずまい
新藤は自嘲的なうすら笑いを口辺にただよわした。
学校騒動 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
いや、しょうのものの膝栗毛ひざくりげで、いささか気分なるものをただよわせ過ぎた形がある。が、此処ここで早速頬張ほおばって、吸子きびしょ手酌てじゃくったところは、我ながら頼母たのもしい。
雛がたり (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
おおらかな感銘のただよっているのもつかで、やがて四辺は修羅場しゅらじょうと化す。烈しい火焔かえんの下をくぐり抜け、叫び、彼は向側へつき抜けて行く。向側へ。
冬日記 (新字新仮名) / 原民喜(著)
こういってマダム丘子は、いつもの朗らかさに似合わぬ、荒涼とした淋しさを、美しい顔一杯にただよわすのであった。
火事は構わぬが今心の眼に思い浮べた燄の中にはクララの髪の毛がただよっている。何故あの火の中へ飛び込んで同じ所で死ななかったのかとウィリアムは舌打ちをする。
幻影の盾 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
思想界にも文学界にもいろいろのイデオロギイやイズムの目覚めざましい興隆と絶えざる変遷があったが、その波にただよいながら独身時代の庸三の青壮年期も、別にぱっとしたこともなくて終りを告げ
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
部屋の中にただようている桃色の光りを白眼にらみまわした。
白菊 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
……はじめは蘆の葉にすがったかにが映って、流るる水にただようのであろう、と見たが、あらず、も心あるもののごとく、橋に沿うてきつ戻りつする。
海の使者 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
翌朝、あらしはけろりと去っていた。その颱風の去った方向に稲の穂はことごとなびき、山の端には赤く濁った雲がただよっていた。
廃墟から (新字新仮名) / 原民喜(著)
沖には、早打ちを仕掛けた打上げ船が、ゆたりゆたりと、光り輝く海面うなもただよい、早くも夏に貪婪どんらんな河童共の頭が、見えつ隠れつ、その船のあたりに泳ぎ寄っていた。
鱗粉 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
乗り込んで来るのは真昼間まっぴるまである。鍋の底からは愛嬌あいきょういて出る。ただようは笑の波だと云う。ぜるのは親切の箸と名づける。鍋そのものからがひんよく出来上っている。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
蟹に乗ってら、曲馬の人魚だ、といううちに、その喜見城きけんじょうを離れて行く筈の電車が、もう一度、真下の雨にただよって、出て来た魚市の方へはしるのです。
菊あわせ (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
白い大きな雲がキラキラと光ってただよった。朝は静けさゆえに恐しくて悲しかった。その廃墟を遠くからとりまく山脈や島山がぼんやりと目ざめていた。
鎮魂歌 (新字新仮名) / 原民喜(著)
女は長いまつげの奥にただようているような眼で鴉を見詰めながら「あの鴉は五羽います」といったぎり小供の問には答えない。何かひとりで考えているかと思わるるくらいすましている。
倫敦塔 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
思わず、三人とも異口同音に、低くうめいた。そのなかは、まるで春のように明るく、暖かく、気のせいか、何か媚薬びやくのように甘い、馥郁ふくいくたる香気こうきすらただよっているのが感じられた。
鱗粉 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
と精々喜多八きだはちの気分をただよわせて、突出つきだし店の硝子戸がらすどの中に飾った、五つばかり装ってある朱の盆へ、突如いきなり立って手を掛けると、娘が、まあ、と言った。
雛がたり (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
すると、すぐ足許のところを、白木の大きなはこが流れており、函からみ出た玉葱たまねぎがあたりにただよっていた。私は函を引寄せ、中から玉葱をつかみ出しては、岸の方へ手渡した。
夏の花 (新字新仮名) / 原民喜(著)
数万の家、数十万の人、数百万の物音は余と堂宇との間に立ちつつある、ただよいつつある、動きつつある。千八百三十四年のチェルシーと今日のチェルシーとはまるで別物である。
カーライル博物館 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
紫玉はふなばたすがって身を震わす。——真夜中の月の大池に、影の沈める樹の中に、しぼめる睡蓮すいれんのごとくただよいつつ。
伯爵の釵 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)