此方こっち)” の例文
「湯河原までじゃ、十五円で参りましょう。本当なれば、もう少し頂くのでございますけれども、此方こっちからお勧めするのですから。」
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
はじめのようにからかう勇気がなくなり、此方こっちも巡査の様子を見詰めていると、巡査はやはりだまったままわたくしの紙入を調べ出した。
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
立派なところへ縁づいてでもくれるんならいいが、又のこのこと花柳界へ戻って行かれちゃ、それだけ此方こっちも世間が狭くなるからな。
蓼喰う虫 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
ふみ「およしや、そこ開けて遣っておくれ……此方こっちだよ、此方へお這入りなさい……あらまア穢い服装なりでマア、またお出でなすったね」
松と藤芸妓の替紋 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
うのは全く此方こっちが悪い。人の勉強するのを面白くないとはしからぬ事だけれども、何分きょうがないからそっと両三人に相談して
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
尤もその間に梅子は電話口へ二返呼ばれた。しかし、嫂の様子に別段変った所もないので、代助は此方こっちから進んで何にも聞かなかった。
それから (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
一人だから余計に存在を認められるのか、家庭の一員として充分の権利と尊敬を享有しているのらしく、却って此方こっちが羨ましかった。
ぐうたら道中記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
ともかく、明日のパンに困っては、売るあてもない原稿を書いて、運のさいの目が此方こっちへ廻って来るのを待っているわけにも参りません。
はなしの方は色気があるが、此方こっちはお色気には縁の遠い方だった。だが色っぽくないことは、八人組も御多聞ごたぶんれないのが多かった。
「そりゃあうだろう、惚れてるからな」嘲笑あざわらうように鼻を鳴らした。「女を占めようと思ったら、決して此方こっちで惚れちゃあ不可いけねえ」
隠亡堀 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
が、その声がすると、女はきゅうに此方こっちを向いて、びっくりしたような顔貌かおで、いままでよりかずっと早足で歩き出したのです。
ゆめの話 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
「ですが、私の為に態々わざわざ帰郷させるのも気の毒ですから、此方こっちは別に急ぐ訳でもないから、冬季休業まで延期しろと云ってりました。」
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
夜になってから、お島は養父に吩咐いいつかって、近所をそっち此方こっち尋ねてあるいた。青柳の家へもいって見たが、見つからなかった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
お勢が開懸あけかけた障子につかまッて、出るでも無く出ないでもなく、唯此方こっちへ背を向けて立在たたずんだままで坐舗のうちのぞき込んでいる。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
最初の形勢では容易に中川君同胞きょうだいが承知しそうもなかったけれども案じるよりはむが安く、今では向うの方がかえって此方こっちより熱心だ。
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
『たしか、馬廻り役の近松勘六だったと思う。あの顔は、たしかに覚えているのだが、よく思い出せない。もう此方こっち懐中ふところも油断がならん』
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
背には乳飲児ちのみごおぶって、なるたけ此方こっちの顔を見ないように急いで、通り違ってしまった。きっと、森の中の家に来ているのだろうといった。
凍える女 (新字新仮名) / 小川未明(著)
そこに恐ろしい顔をした女がいて、今にも何かを掴み取ろうとするようにして両手をかまえ、凄い涙を浮べた眼で此方こっちを見ていた。後妻は
前妻の怪異 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
いや、う六十になるが忘れないとさ、此の人は又ういふよ、其れから此方こっち、都にもひなにも、其れだけの美女を見ないツて。
二世の契 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
此方こっちではツァイスの顕微鏡を要求しているのに露店で売っている虫眼鏡をよこして「見える」「見える」と云って主張するようなものである。
ラジオ雑感 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
闇太郎——ここまで来て、もう此方こっちのものだと思った。石置場の暗がりに飛び込んでしまえば、どのような鋭い探索の目も、及ばぬであろう。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
それにはその者の身分も調べて、此方こっちの身分との釣合も考えなければなりませんし、血統を調べなければなりません。それに人物が第一です。
蒲団 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
ヂュリ わし骨々ほね/″\其方そなたっても、はやその消息しらせ此方こっちしい。これ、どうぞかしてたも。なう、乳母うばや、乳母うばいなう、如何どうぢゃぞいの?
段六彼方あっち此方こっちをおびえた顔で見廻しながら、後退りに歩いて七三。早田呆れて見ながら、これも後退り。遠くで大砲の音。
天狗外伝 斬られの仙太 (新字新仮名) / 三好十郎(著)
あの老人程かじの取りにくい人はないから貴所が其所そこを巧にやってくれるなら此方こっちは又井下伯に頼んで十分の手順をする、何卒か宜しく御頼おたのみします。
富岡先生 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
ハテな誰だろう、此方こっちへ向けば好いと、気を揉んで待ったけれど、歩む許りで此方へ向かず、早や鏡から離れ相に成った。
幽霊塔 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
もう御飯になるから御帰りとか、寒いから内へ御入りとかいって子供を呼ぶ声が、彼方あっちの家からも此方こっちの家からも聞える。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
作者の道楽かもしくは、お庭の石を彼方あっち此方こっちと動かしては眺めるのと同じ格の一種の隠居仕事かも知れないと思われる。
創作人物の名前について (新字新仮名) / 夢野久作(著)
彼は急に金持ちの慈善家になったという不思議な感じがすると同時に、此方こっちをそう思いこんでしまった相手の幻想によってこそぐられるのであった。
幻想 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
ゆうべ狼を曳出しに行った時、母さんにこれからチイ公をやっつけに出掛けるんだと口を滑らしたのが此方こっちには仕合せで、危うく君が助かったんだ
殺生谷の鬼火 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
「そりゃ、その時は口を利く人はあったの。ですけれど此方こっちがお母さんと二人きりだったから甘くみんなに欺されたの。」
別れたる妻に送る手紙 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
そのとき、知っていたのかどうか、利助は着物を着ながら、此方こっちを振り向いた。そしてじっと、利平の顔を見た……と思った、その眼、その眼……。
(新字新仮名) / 徳永直(著)
そんな訳なので、息子の云い出さないうちは此方こっちからその事を云い出すのも何と云う事はなしてれ気味なので、余計ずるずるになるばかりであった。
栄蔵の死 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
そうそう此方こっちの勝手な時に呼び出されては、困るだろう。知栄だってお前がいないもんだから何時迄いつまでもねやしないし。
女の一生 (新字新仮名) / 森本薫(著)
悪くすると天晴な好い若い者が、愍むべし「お茶壺」になって、ただ彼方あっちから此方こっちへ渡って歩く事になります。今後はもう国外旅行が宜さそうですネ。
旅行の今昔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
……といえば麻布の狸穴まみあなにいるものとばかり此方こっちは思っている。——麻布にいるものがそんな目に逢うわけはない。
春泥 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
だが彼は妙に気がいた。無理をしまいと思うと猶更なおさら焦々いらいらした。時々箕島刑事の方に横眼を流して見ると、それとなく此方こっちを警戒して居る風があった。
乗合自動車 (新字新仮名) / 川田功(著)
するとそのうちに何かのきっかけで「Aの気持もよくわかっていると云うのならなぜ此方こっちを骨折ろうとしないんだ」
橡の花 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
どんなはなしをするのであろうか、彼処かしこっても処方書しょほうがきしめさぬではいかと、彼方あっちでも、此方こっちでも、かれ近頃ちかごろなる挙動きょどう評判ひょうばん持切もちきっている始末しまつ
六号室 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
これは小供が彼方あっち向いているのを、美味しい物即ち肉を喰わせてやるから、此方こっちへ向けといって引張込ひっぱりこむ意で、これがいわゆる育の字の講釈だそうである。
教育の目的 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
なぜなら、庭に向いた窓の向うから、しきりに此方こっちを覗きこんでいる者があった。その円い顔——まぎれもなく、逃げたとばかり思っていた松永の笑顔だった。
俘囚 (新字新仮名) / 海野十三(著)
ちょうちんを灯けた牛車が橋を此方こっちへ渡り切った頃、そのかげから、鉄ちゃんがひょっこり現われて来た。
鋳物工場 (新字新仮名) / 戸田豊子(著)
忍路高島おしょろたかしまですか。あれは流石に松前から此方こっちのものですね。信濃の追分とはまた味がちがっていい。」
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
昨夜ゆうべは隣の室で女の泣くのを聞きながら眠ったっけが、今夜は何を聞いて眠るんだろうと思いながら行くんだ。初めての宿屋じゃ此方こっちの誰だかをちっとも知らない。
我国にも有形無形うけいむけい怪物ばけもの彼方あっちにも此方こっちにもゴロリゴロリころがって世の中はまるで百鬼夜行ひゃっきやこうの姿である。
大きな怪物 (新字新仮名) / 平井金三(著)
同じ姿でしかも黙って此方こっちを向いて今にも自分の方へ来そうなので、もう彼もたまらなくなったから、急いで母家おもやへ駆けこんでとこへ入ったが、この晩は、とうとう一晩
暗夜の白髪 (新字新仮名) / 沼田一雅(著)
... しやがつて、其方そっちよりは此方こっちが泣きてえ」と立掛り「さあ金を出さねえか、脇へこかしたな、し、尼あ引きずつて行つて、叩き売つて金にする」と内侍ないし引立ひったてに掛る。
らくなった谷をへだてて少し此方こっちよりも高い位の平地に、忘れたように間をおいてともされた市街地のかすかな灯影ほかげは、人気ひとけのない所よりもかえって自然を淋しく見せた。
カインの末裔 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
此方こっち側の中腹から谷底へかけては、割合になだらかな斜面で、雑草や灌木が青々と生い茂り、こんもりと盛り上った椈の大木が疎らに散生して谷風にそよいでいるさまは
黒部川を遡る (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
会長のK博士が温顔をきびしく結ばれて、此方こっち洋杖ステッキの音もコツコツとやって来られたのです。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)