しん)” の例文
旧字:
宋にはしり、続いてしんに逃れた太子蒯聵かいがいは、人毎に語って言った。淫婦刺殺という折角せっかくの義挙も臆病な莫迦ばか者の裏切によって失敗したと。
盈虚 (新字新仮名) / 中島敦(著)
昭は一時、大いに威を振るい、大魏大将軍になり、また、しん王の九錫きゅうしゃくをうくるにいたって、ほとんど、帝位に迫るの勢威を示した。
三国志:12 篇外余録 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
虎の異名多くある中にしんりょう以後の書にしばしば大虫と呼んだ事が見える。大きな動物すなわち大親分と尊称した語らしい。
その漢がまた衰えて、となり、しんとなったことも知らない。黄が一々それを説明して聞かせると、いずれもその変遷に驚いているらしかった。
(七) 孔子はえいにおいて用いられず、西してしんに行こうとしたが、趙簡子ちょうかんしがその功臣を殺したことを聞いて引き還した。
孔子 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
「なんだって好い。打ちせえすりゃあ、講釈で聴いて知っているしん予譲よじょう故事ふるごととやらだ。敵討の筋が通るというもんさ」
怪異暗闇祭 (新字新仮名) / 江見水蔭(著)
富めるものはおほくおろかなりといふは、しん三七石崇せきそう唐の三八王元宝わうげんぱうがごとき、三九豺狼さいらう蛇蝎じやかつともがらのみをいへるなりけり。
「昔、しん左思さしが作った三都さんとの賦は十年してできあがりました。文章は巧みなのをとうとんで、速いのを貴びません。」
織成 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
蘭亭修禊の宴はしん王羲之おうぎしが永和九年癸丑の暮春に行ったので、嘉永六年はあたかも千五百一年目に当るのである。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
鹽原しおばら多助が忠孝の道を炭荷とともに重んじ。節義はあたか固炭かたずみの固くとって動かぬのみか。獣炭じゅうたんを作りて酒をあたゝめししん羊琇ようじゅうためしならい。自己おのれを節して費用を省き。
塩原多助一代記 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
しんの王質と云う樵夫きこりが山の中で童子が碁を打っているのを見ていたら、その間におのただれた、とやら云うようなことではございませんでしたでしょうか」
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
唐の開元年中、郭元振かくげんしんしんの国を出てふんの方へ往った。彼は書剣を負うて遊学する曠達こうたつな少年であった。
殺神記 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
独美の家は門人の一人が養子になっていで、二世瑞仙と称した。これは上野国こうずけのくに桐生きりゅうの人村岡善左衛門むらおかぜんざえもん常信じょうしんの二男である。名はしんあざな柔行じゅうこう、また直卿ちょくけい霧渓むけいと号した。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
しんしんえんしゅう等に王とし、そのはなはだしきは、生れてはじめて二歳、あるいは生れてわずかに二ヶ月のものをすら藩王とし、いで洪武十一年、同二十四年の二回に、幼弱の諸子をも封じたるなれ
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
北はちょうえんしんから、西は※岐ぶんきまで足を延ばした。商於しょうおて洛陽に至った。南は淮泗わいしから会稽かいけいに入り、時に魯中ろちゅうに家を持ったりした。斉や魯の間を往来した。梁宋には永く滞在した。
岷山の隠士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
しんの哀公が会を設けて、覇を図る処があつて、せい国の夜明珠やめいしゆ国の雌雄剣、しん国の水晶簾すゐしやうれんなどとならぶ中に、子胥先生、わが楚国もつて宝とするなし、唯善を以て宝とすとタンカを切つて
いろ扱ひ (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
おのれを知るもののために死す。しん予譲よじょうです。やはり忠臣の亀鑑きかんです」
苦心の学友 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
講釈で聞いたしん予譲よじょうとやらの出来損ないだ、おれの片腕では、残念ながらしょうのままであの女をどうすることもできねえんだ、時と暇を貸してくれたら、どうにかならねえこともあるめえが
また「しん刑法志」に「五帝象を画いて民禁を知る」とあるなどは、皆刑罰の絵を宮門の双闕そうけつその他の場所に掲げて人民をいましめたことを指すもので、これに依っても古聖王が法を朦昧の人民に布き
法窓夜話:02 法窓夜話 (新字新仮名) / 穂積陳重(著)
しん懐帝かいてい永嘉えいか年中に、韓媼かんおんという老女が野なかでおおきい卵をみつけた。拾って帰って育てると、やがて男の児が生まれて、そのあざな※児けつじといった。
しん石崇せきそうとう王元宝おうげんぽうのような、豺狼蛇蝎さいろうだかつにも似た猛悪残忍にして貪欲なやつだけをさしていったのであります。
北宋のちょうは、歴史では、金に敗れたとなるだろうが、実はくに自分自体で敗れていたのさ。遠い前の、唐、しん後漢ごかん、前漢、しん、周——の前例どおりさ。
人間山水図巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しん魏楡きゆの地で石がものを言ったという。民の怨嗟えんさの声が石を仮りて発したのであろうと、ある賢者が解した。すで衰微すいびした周室は更に二つに分れて争っている。
弟子 (新字新仮名) / 中島敦(著)
太祖の詔、可なることはすなわち可なり、人情には遠し、これより先に洪武十五年こう皇后の崩ずるや、しんしんえん王等皆国に在り、しかれども諸王はしりてけいに至り、礼をえて還れり。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
然るに二世瑞仙しんの子直温ちょくおんの撰んだ過去帖かこちょうには、独美の弟玄俊げんしゅんの子だとしてある。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
ただ、後に魏を取った司馬しんそむいて敗れ去ったため、晋人しんじんの筆に悪く書かれてしまったものとみえる。
三国志:12 篇外余録 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
司馬氏はもとしゅうの史官であった。後、しんに入り、しんに仕え、かんの代となってから四代目の司馬談しばたんが武帝に仕えて建元けんげん年間に太史令たいしれいをつとめた。この談が遷の父である。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
この原本の世に伝わるものは二十巻で、しん干宝かんぽうせんということになって居ります。
しんの撰んだ池田氏行状には、初代瑞仙の庶子善直ぜんちょくというものを挙げて、「多病不能継業やまいおおくぎょうをつぐあたわず」と書してある。その前に初代瑞仙が病中晋に告げた語を記して、八十四げんの多きに及んである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
其の分封太侈たいしを論ずるにいわく、都城百雉ひゃくちを過ぐるは国の害なりとは、でんの文にも見えたるを、国家今やしんしんえんせいりょうびんの諸国、各そのを尽してこれを封じたまい、諸王の都城宮室の制、広狭大小
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
「むかし、春秋の時代にしん献公けんこうの夫人には、二人の子があった。兄を申生しんせいといい、弟を重耳ちょうじという」
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あなたは今に偉くなる人ですから、ちょっとためしてみただけの事です。わたしをこんな目に逢わせるのは、あんまりひどい。しん温嶠おんきょう牛渚ぎゅうしょをうかがって禍いを招いたためしもあります。
山脇、堀、田中三氏の子が相踵あひついで逐はれた後に、当時籍を瑞仙の門人中に列してゐた上野国上久方村かみひさかたむら医師村岡善左衛門常信つねのぶ倅善次郎が養子にせられた。即ち霧渓二代瑞仙直郷なほさと、又の名はしんである。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
魏蜀を併合して、しん一体となったこの国が、なお呉を余していたのは、呉に間隙がなかったによる。
三国志:12 篇外余録 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しんの人でその資産を弟にたくして、久しく他郷たきょうに出商いをしている者があった。旅さきで妻をめとって一人の子を儲けたが、十年あまりの後に妻が病死したので、その子を連れて故郷へ帰って来た。
即ち宗家霧渓瑞仙しん、分家天渓瑞長、又分家全安である。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
檻車かんしゃをもって槙島まきしまへ送られ、虜将の生き恥に耐え忍びおるも、番士の隙あらば、ここを破って脱出し、しん予譲よじょうならうまでもなく、いつかは筑前に狙い寄り、お命をいただいて
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しんの時、呉興ごこうの農夫が二人の息子を持っていた。
四隣のしんせいもいちどに起って、呉の領土を分けりにし、呉はついに亡んだ。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
などと、かたりで、中華ではしんのころから紳士のあいだで愛飲されだして、唐の陸羽りくうは、茶経さきょうという書物しょもつさえあらわしている。また、鬱気うつきを散じるによく、血滞けったいを解くによろしい。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そして十九年後、初めて世に出たしんの文公は——すなわちそのむかしの重耳であったのです。……今、荊州の東南、江夏の地は、呉のために黄祖が討たれてから後守る人もなく打捨ててあります。
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)