宵闇よいやみ)” の例文
もう宵闇よいやみ。大釜の火だけが赤い。そのまわりに立ち群れて、人夫や百姓たちはがつがつ飯茶碗を持ち合い、汁の杓子しゃくしを争っていた。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
夏の陽が対岸の檜山ひのきやまこずえの向こうへ沈んでしまうと蝙蝠こうもり宵闇よいやみの家々の屋根を、かすめるようにして飛び廻わり、藪原は夜になるのであった。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
とにかくに、この早手は翌日の夕方、無事に大津の石浜に着くと同時に、早くも宵闇よいやみにまぎれて、町のいずれかに姿を消してしまいました。
宵闇よいやみの夜がほとんどまっくらになったのに、灯もつけないので、一寸さきさえよく見えないが、ただ谷川の水音だけが耳近く聞こえてくる。
夏の暮れ方は、一種あわただしいはかなさをただよわして、うす紫の宵闇よいやみが、波のように、そこここのすみずみからきおこってきている。
丹下左膳:03 日光の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
一日じめじめと、人の心を腐らせた霧雨もやんだようで、静かな宵闇よいやみの重く湿った空に、どこかの汽笛が長い波線を引く。
竜舌蘭 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
間もなく田代屋を抜け出した一人の女——小風呂敷を胸に抱いて後前あとさきを見廻しながら水道端の宵闇よいやみ関口せきぐちの方へ急ぎます。
宵闇よいやみの中を歩きながら、ねぐらに騒ぐ鳥の声を聞いて、この季節に著しく感じる澄んだ寂しさが腹の底までみるのを知った。
果樹 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
宵闇よいやみの迫った室内にぱっと百しょくの電燈がついて、客と主人との顔が急に明るく浮び上った。そして二人の心は顔よりももっと明るかったのである。
予審調書 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
やまいがようやくおこたって、とこの外へ出られるようになってから、私は始めて茶の間のえんに立って彼の姿を宵闇よいやみうちに認めた。私はすぐ彼の名を呼んだ。
硝子戸の中 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
と紫玉は、宵闇よいやみの森の下道したみち真暗まっくらな大樹巨木のこずえを仰いだ。……思い掛けず空から呼掛けたように聞えたのである。
伯爵の釵 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
小侍従はそれでもすずりなどを持って来て責めたてるので、しぶしぶお書きになった宮のお手紙を持って、宵闇よいやみに紛れてそっと小侍従は衛門督えもんのかみの所へ行った。
源氏物語:36 柏木 (新字新仮名) / 紫式部(著)
一二分、考えた末、彼女は到頭たまらなくなって部屋を出た。長い廊下を急ぎ足にけすぎた。ホテルの玄関で、草履ぞうり穿くと、夏の宵闇よいやみの戸外へ、走りでた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
その物音に気がついて、奥から新兵衛夫婦が出て来たときには、二人の姿はもう宵闇よいやみにかくれてゐた。
赤膏薬 (新字旧仮名) / 岡本綺堂(著)
裏窓を閉めた雨戸一枚に時ならぬ宵闇よいやみをつくった四畳半の一間、二人が昼寝の枕元にぱっと夕方の電燈がつく時、女中がお風呂はいかがで御座いますと知らせに来る。
夏すがた (新字新仮名) / 永井荷風(著)
右上がりの広い肩。眼深にかぶった羅紗らしゃ頭巾ずきん宵闇よいやみの中に黒い口髯くちひげ判然はっきりと浮かんで来た。
熊の出る開墾地 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
何事が起ったかと胸に動悸をはずませて帰って見ると、宵闇よいやみの家の有様は意外に静かだ。台所で家中夕飯時であったが、ただそこに母が見えない許り、何の変った様子もない。
野菊の墓 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
日の永くなる季節ではあったが、もうすっかりれてしまい、あたたかい宵闇よいやみのどこかから、みみずの鳴く声が聞えて来た。お兼はもうそこにいて、暗い小屋の前から彼を呼んだ。
青べか物語 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
宵闇よいやみが広がっていた。二人の血はなおうなっていた。彼女は寝床の上に横たわって、上衣をはねのけ、両腕を広げ、体をおおおうとの様子さえしなかった。彼はまくらに顔を埋めてうめいていた。
そのかどには赤い提燈ちょうちんを釣るしたおでん屋があった。一時間ばかり宵闇よいやみをこしらえて出た赤い月の光がその簷にあった。山西はここで一つ景気をつけたいと思ったので、その暖簾のれんに首を突っ込んだ。
水魔 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
わたしはこの策を思いついた後、内裏だいりへ盗みにはいりました。宵闇よいやみの浅い内ですから、御簾みす越しに火影ほかげがちらついたり、松の中に花だけほのめいたり、——そんな事も見たように覚えています。
報恩記 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
「いい具合に宵闇よいやみだ。数珠子釣じゅずこつりに行って来るかな」
渾沌未分 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
宵闇よいやみせまればレジエント街の並木道を
孟買挿話 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
もう宵闇よいやみの空に白い星のまたたいている頃だし、そう参詣人さんけいにんもない境内なので、気をゆるしていたので、彼はよけいにぎょッとした。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と紫玉は、宵闇よいやみの森の下道したみち真暗まっくらな大樹巨木のこずえを仰いだ。……思ひけず空から呼掛よびかけたやうに聞えたのである。
伯爵の釵 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
風のない蒸し暑いある日の夕方私はいちばん末の女の子をつれてはさみを買いに出かけた。燈火の乏しい樹木の多い狭い町ばかりのこのへんの宵闇よいやみは暗かった。
芝刈り (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
方丈と暫らく対談があったらしく、やがて乗物とお供とがここから帰って行く時分に、その裏山の宵闇よいやみに紛れて行く宇津木兵馬の姿を見ることができました。
大菩薩峠:14 お銀様の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
大藪の裾に佇んで、もう夕陽が消えたので、藪に搦まっている蔓草つるくさの花が、宵闇よいやみにことさら白く見える、そういう寂しい風物の中に、悄然といつまでも動かずにいた。
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
廿日正月はつかしょうがつという其の日も暮れて、宵闇よいやみの空に弱い星のひかりが二つ三つただよっていた。今夜も例のごとく寒い風が吹き出して、音羽の大通りに渦巻く砂をころがしていた。
半七捕物帳:69 白蝶怪 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
彼は比較的人通りの少ない宵闇よいやみの町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
宵闇よいやみにふくまれ去ったお藤と左膳を追って、捕方の者もあわただしく庭を出て行ったあとで。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
二人はきよい愛の火に焼かれながら、夏の夜の宵闇よいやみに、その白い頬と白い頬とを触れ合せた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
ひるがえつて冬となりぬる町の住居を思へば建込むいえにさらでも短き日脚ひあしの更に短く長火鉢置く茶の間は不断の宵闇よいやみなるべきに、山の手の庭は木々の葉落尽すが故に夏よりもあかるく晴々しく
矢はずぐさ (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
みだれる雲——疾風はやての叫び——宵闇よいやみほど暗かった。時々、青白くひらめく稲妻がひとみを射、耳には、おどろおどろ、遠い雷鳴かみなりがきこえてきた。
無宿人国記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
初の烏 あの、(口籠くちごもる)今夜はどういたしました事でございますか、わたくしなり……あの、影法師が、この、野中の宵闇よいやみ判然はっきりと見えますのでございます。
紅玉 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
風のないけむったような宵闇よいやみに、蝙蝠を呼ぶ声が対岸の城の石垣いしがきに反響して暗い川上に消えて行く。
花物語 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
その湖水さえ次第次第に、夜のとばりに包まれて、灰色なすかと見るほどもなくやがて宵闇よいやみにつつまれた。高島城さえ今は見えず、今宵は月が遅いと見えて空には無数の星ばかり。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
唄声を背後うしろに、やがて守人は宵闇よいやみの中へさまよい出た。ひやりと横鬢よこびんをかすめる水気に、ぱっとじやを差し掛けて、刀の柄を袖でかばった篁守人、水たまりを避けて歩き出した。
つづれ烏羽玉 (新字新仮名) / 林不忘(著)
初の烏 あの、(口籠くちごもる)今夜はういたしました事でございますか、わたくしなり……あの、影法師が、此の、野中のなか宵闇よいやみ判然はっきりと見えますのでございます。
紅玉 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
宵闇よいやみの迫る頃には、もう一番乗り二番乗りの名のりが敵の城壁をこえていた。忽ち城内の一角から炎があがる。——えた秋の夜空は星と火の粉に満ちていた。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あらゆる火花のエネルギーを吐き尽くした火球は、もろく力なくポトリと落ちる、そしてこの火花のソナタの一曲が終わるのである。あとに残されるものは淡くはかない夏の宵闇よいやみである。
備忘録 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
耳をかしているのかいないのか、その長いはなしの間を、光秀は拝殿の奥にゆらぐあかしを見つめていた。そして黙然と起つともうきざはしくだっていた。すでに宵闇よいやみがふかい。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
先に引っ返した陳登は、宵闇よいやみのとっぷりと迫った頃、蕭関に行き着いて、駒を降りるや否
三国志:04 草莽の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その旗、その城兵を巧みに使って、今夕の宵闇よいやみにまぎれ、こちらの秦明しんめい、花栄そのほかの部隊が、城中へなだれ込み、一気に青州城を内から占領する手順になっているのです。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ほのぐら宵闇よいやみのそこから、躑躅つつじさきほりの流れは、だんだん透明とうめいぎだされてきた。ひとみをこらしてのぞきこむと、にねむるうおのかげも、そこ砂地すなじへうつってみえるかと思う。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
片笑靨かたえくぼでそう云うとすぐおかみさんの姿は、鳥居うち宵闇よいやみの人影にまぎれてしまった。
春の雁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
早口に注意して、どこともなく、宵闇よいやみのうちへ掻き消えた。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
宵闇よいやみの樹上から鉄砲で狙撃そげきされたのである。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
松島田んぼの宵闇よいやみがひろびろとそよいでいた。
鳴門秘帖:04 船路の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)