娑婆しゃば)” の例文
しかし水際に始めて昨日、今日のわかい命を托して、娑婆しゃばの風に薄い顔をさらすうちは銭のごとく細かである。色も全く青いとは云えぬ。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それ故娑婆しゃばの悦びもこれでおしまいかと思えば興奮のあまり、昨夜敵娼あいかたの頬をメロンだメロンだと叫んでかぶりついたのであるが
天馬 (新字新仮名) / 金史良(著)
まったく救われない地獄の娑婆しゃばだという気がする。死んで行った人、雪の中の監獄のT君、そして自分らだってちっとも幸福ではない。
父の出郷 (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
「わたしはぼんやりしてたんだ。久しぶりに娑婆しゃばに出たんで、感覚が働かない。話しかけられても、聞えなかったんだよ。きっと」
幻化 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
死んだような気持で送った牢内の三日間は、娑婆しゃばの三年よりも永かった。——その三日の間に歌麿は、げっそり頬のこけたのを覚えた。
歌麿懺悔:江戸名人伝 (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
ほほう生れかわって娑婆しゃばへ出たから、争われねえ、島田の姉さんがむつぎにくるまったなりになった、はははは、縫上げをするように腕を
葛飾砂子 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
事が娑婆しゃば世界の実事であり、いま説いていることが儒教の道徳観にもとづくとせば、縹緲ひょうびょう幽遠な歌調でない方が却って調和するのである。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
娑婆しゃばにある大きな蒸汽機械も折々休息をさせて大掃除おおそうじもしなければごみまったり油が切れたりしてきに機械が壊れてしまう。
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
「なぜ、娑婆しゃばにいるうちから、こうして、おともだちにならなかったものか……。」と、貧乏人びんぼうにん霊魂れいこんは、いぶかしくかんじました。
町の真理 (新字新仮名) / 小川未明(著)
「女に誤りし身の果ては死ぬるも女の跡を追わねばならぬか、古門村の住人山田佐太郎生年二十三歳アアこれまでの娑婆しゃばは夢か」
空家 (新字新仮名) / 宮崎湖処子(著)
やっと今日まで娑婆しゃばに生き永らえまして、おなつかしい皆様に今一度、斯様かような舞台姿で、お目にかかる事が出来たので御座います
二重心臓 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
娑婆しゃば生涯しょうがいを寄せる和尚はその方丈を幻の住居すまいともしているので、必ずしもひとりをのみ楽しもうとばかりしている人ではない。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「げっそりおやせなすったようだが、どうやらこれでまた命がつながりましたから、たんと娑婆しゃばの風でもお吸いなさいましよ」
その煙りが、娑婆しゃばをうつすいちばん最後のものになったのが、隊のなかの誰と誰だろうか。そうして、最後の密林行がはじまったのである。
人外魔境:01 有尾人 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
とうとう年来の宿望をげる日がやってきたのだ。それとともに、生きてふたたびこの娑婆しゃばへ出てこられようとも思われない。
四十八人目 (新字新仮名) / 森田草平(著)
だから我々が模範を……と、劇評家たちが娑婆しゃばッ気を起すことになり、それが文士劇に発展したのは、前に書いた通りである。
胡堂百話 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
ただ彼を穴蔵からこの娑婆しゃばへかつぎ出すのが困難であったから、近所の人に手伝ってもらって、やっと運び出すことができた。
「ばかを言え、おれはまだもう少し生きのびるつもりだ。いろいろ娑婆しゃばに未練があって、どうもこのままじゃ往生ができねえ」
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
M君は後になり先になりしながら、彼女は女学校を出るとK電気会社の事務員をしていたことや、もう転向して娑婆しゃばに出ているなどと話した。
冬枯れ (新字新仮名) / 徳永直(著)
あとにて聞けばしょうの親愛なる富井於菟とみいおと女史は、この時娑婆しゃばにありて妾と同病にかかり、薬石効やくせきこうなくつい冥府めいふの人となりけるなり。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
維摩経ゆいまぎょう』には聚香世界の香積仏が微妙の香を以て衆生を化度し、その世界の諸菩薩が、娑婆しゃば世界の衆生剛強度しがたき故
さて私は、その日から、の治療をうけることになった。何かにつけ、娑婆しゃばとは段違だんちがいにみじめな所内しょないではあるが、医務室だけは浮世並うきよなみだった。
柿色の紙風船 (新字新仮名) / 海野十三(著)
だが、人間が相当の年輩になれば仲人の二つや三つをして見るのが、娑婆しゃばの役目であるという諺のあるのを知っている。
縁談 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)
「まずそうらしいな。お国はゆうべから帰らねえというが、おそらく来年の盆までは娑婆しゃばへ帰っちゃあ来ねえだろうよ」
半七捕物帳:21 蝶合戦 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
監獄で考えるほど、もちろん、世の中は、いいものでもないし、また娑婆しゃばへ出て考えるほど、もちろん、監獄は「楽に食えていいところ」でもない。
牢獄の半日 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
娑婆しゃばに出てみると蕗子の妹艶子は、誰に聞いてもその行衛ゆくえが判りません。中谷の消息も捜りましたが知れないのです。
流転 (新字新仮名) / 山下利三郎(著)
寂心上人は衆生を利益せんがために、浄土より帰りて、更に娑婆しゃばいますということであった。かかることが歴然と寂心上人伝に記されているのである。
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
もうかなり娑婆しゃばは抜けました、人を焚きつけてうまい汁を吸おうなんぞという骨折りは頼まれてもやれません。
大菩薩峠:37 恐山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「こけでもこけずきでもええだ。聴いてくれる人が一人でもこの娑婆しゃばにあるうちは、おれあ胡弓はやめられんよ」
最後の胡弓弾き (新字新仮名) / 新美南吉(著)
無いそでは振れないから一番いいのさ。娑婆しゃばへ出てから、乞食こじきも同然、お酒どころか飯も食えない事があったよ。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
ご承知の通り、手前は当今、ほうぼうの役割部屋で養われている名もない権八、これで功名しようの、あなたをやっつけようの、そんな娑婆しゃばッけは毛頭もうとうない。
顎十郎捕物帳:07 紙凧 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
つら娑婆しゃばとは、容易たやすく口では言っては居たが、斯くまで辛いと知るは今が始めて。これにつけても期するところは弥陀の浄土。いずれ彼方で待ち合すとしよう。
取返し物語 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
『われはこの家の娘なり。死して冥土めいどに向かうも、娑婆しゃばに多くの衣服を残せしために、思う所に至ることあたわず。願わくは、これこれの衣類を渡されんことを』
迷信解 (新字新仮名) / 井上円了(著)
そして、それをとして、もう一度娑婆しゃばへ立帰り、新しい生活を始めようかと思った程でございます。
人間椅子 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
彼奴あいつは発狂の当初わたしを殺そうとしたとか、今度彼奴が娑婆しゃばへ出たら本当にしめ殺されてしまう等とゾッとふるえ乍ら、又急に私の顔を眺めてニヤニヤと冷笑を送ったりする。
(新字新仮名) / 坂口安吾(著)
「しかし会えぬものならば、——泣くな。有王ありおう。いや、泣きたければ泣いてもい。しかしこの娑婆しゃば世界には、一々泣いては泣き尽せぬほど、悲しい事が沢山あるぞ。」
俊寛 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
「こいつあ耳に痛えや。相変わらず娑婆しゃばの場ふさぎといいてえところだ。あれからどうしたい?」
巷説享保図絵 (新字新仮名) / 林不忘(著)
さっきもおれアうっかり踏んむと、殺しに来たと思いやがったンだね、いきなりおけの後ろから抜剣ぬきみ清兵やつが飛び出しやがって、おいらアもうちっとで娑婆しゃばにお別れよ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
ねえ、お初つぁん、おいらは、あの荒波にかこまれた、三宅の島をいのち懸けで抜け出して娑婆しゃばの風にふかれてこの方、こんなにいい気持に酔っぱらったこたあねえぜ。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
人と生まれた以上、こういう娑婆しゃばにいればいやでも嘘をせにゃならんのは人間の約束事なのだ。嘘の中でもできるだけ嘘をせんようにと心がけるのが徳というものなのだ。
親子 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
其処へ養母によって仁侠にんきょうとたんかと、歯切れのよい娑婆しゃばを吹き込まれたのだ。そうした彼女は養母の後立うしろだてで、十四歳のおりはもう立派な芳町の浜田屋小奴であった。
マダム貞奴 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
少し今、ガタという音で始めて気がついたが、いよいよこりゃ三尺地の下に埋められたと見えるテ。静かだッて淋しいッてまるで娑婆しゃばでいう寂莫せきばくだの蕭森しょうしんだのとは違ってるよ。
(新字新仮名) / 正岡子規(著)
「か、かあいそうなのはこちとらじゃねえか! 腕を持ってて腕が使えねえこんな娑婆しゃばに生きながらえているこちとらじゃねえか! 子供のことまで文句をつけてもらうめえ」
白い壁 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
名号が衆生と仏とを不二ならしめ、娑婆しゃばを寂光に即せしめるのである。だが「即」と「同」とをゆめゆめ同じだと受取ってはならない。どうして人と仏とが同じであり得よう。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
さてどうも娑婆しゃばのことはそう一から十まで註文ちゅうもん通りにはまらぬもので、この二三箇月前から主はブラブラわずらいついて、最初は医者も流行感冒はやりかぜの重いくらいに見立てていたのが
深川女房 (新字新仮名) / 小栗風葉(著)
私たちはこのけがれた娑婆しゃばの世界には望みを置かない。安養の浄土に希望をいだいている。私たちは病気をしても死を恐れることはない。死は私たちにとって失でなくて得である。
出家とその弟子 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
したがっていとうべき娑婆しゃばもなければ、くべき浄土もありません。娑婆即寂光、娑婆こそそのまま浄土です。「無明なく、無明の尽くることなく、老死なく、老死の尽くること」
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
あんな素知そしらぬかおをしてられても、一から十までひとこころなか洞察みぬかるる神様かみさま、『このおんなはまだ大分だいぶ娑婆しゃばくさみがのこっているナ……。』そうおもっていられはせぬかとかんがえると
その様子をみていると、本当に切なさそうで、全く、地獄で、娑婆しゃばの罪人をごうはかりにかけ、浄玻璃じょうはりの鏡にひきむけて、閻魔えんま大王の家来達が、折檻せっかんしているようにしかみえなかった。
娑婆しゃばのかなたの岸も再会の得られる期の現われてくることを思っておいでなさい。
源氏物語:34 若菜(上) (新字新仮名) / 紫式部(著)