へこ)” の例文
探りながら歩いてゆく足が時どきへこみへ踏み落ちた。それは泣きたくなる瞬間であった。そして寒さは衣服にみ入ってしまっていた。
過古 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
ガラッ八のへこむ顔を見て、女は始めて微笑みましたが、そのまま物優しく小腰を屈めると、きびすを返して竹屋の渡しの方へ急ぎます。
とうとう平あやまりのこっちへこみ、先方様さきさまむくれとなったんだが、しかも何と、その前の晩気を着けて見ておいたんじゃアあるまいか。
註文帳 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
鷲尾は倅のへこんだたよりなげなウツロな眼や、でッかちになった頭などを、まるで夢心地でシゲシゲとつめながらやっと抱えあげた。
冬枯れ (新字新仮名) / 徳永直(著)
と答えたら、赤んべんが、肉のない頬をへこまして、愚弄ぐろうの笑いをらしながら、三軒置いて隣りの坑夫をちょいとあごでしゃくった。
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
兄の岩太郎は、顔や胸を泥に穢したまま鳩尾みぞおちをフイゴのようにふくらしたりへこめたりしながら、係長がはいって行くから睨みつづけていた。
坑鬼 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
そうして何等かの策略で吾輩をへこませるために、君をここへ連れて来るんだな……と気が付いたから、ドッコイその手は桑名くわなの何とかだ。
ドグラ・マグラ (新字新仮名) / 夢野久作(著)
執念しゅうねく争いて中川をへこまさんとするは子爵家の姫君に対してひそかに野心ありと見えたり。他の人々もこの問答を面白く感じぬ。
食道楽:冬の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
久「誠にお立派なお住居すまいでございます、斯ういうお広いおうちは初めて拝見致しました、あのへこんで居ります処は何と申します」
塩原多助一代記 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
活動写真のカンバスへ皺が寄るように、時々、街路の光景が歪んだり、へこんだり、ぼやけたり、二重になったりして、瞳に映った。
恐怖 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
ですから、兵曹長をはやくはやくとせきたてて、すぐ前を走っている塹壕ざんごうのようなへこんだ道を、先にたってかけだしました。
怪塔王 (新字新仮名) / 海野十三(著)
その広言をへこましてやろうと、一人が後ろからなぐりかかった。しかし、小次郎の体は地へ低く沈み込み、不意を襲った男は前へもんどり打った。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
俺は頬に手をやったが、その頬は自分でも気持が悪いくらいげっそりとへこんでいる。卵みたいな顔と干物みたいな俺の顔とは妙な対照だったろう。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
『ハ。奈何どうせ私も然う思つてだのでごあんすアハンテ、お戻しすあんす。』と、顔を曇らして言つて、頬をへこませてヂウ/\する煙管を強く吸つた。
足跡 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
壁の一角を与うれば、背中および両すねの緊張と、石のへこみにかけた両ひじおよび両のかかととをもって、魔法でも使うように四階までも上ることができた。
みちはだんだんせまくなってまん中だけがへこんで来ました。ハーシュは車をとめてこどもをふりかへって見ました。
(新字旧仮名) / 宮沢賢治(著)
小さなすみあるいはへこんだところが、たくさんあって、それもまた、ブランスビイ博士の経済的工夫力によって、やはり寝室になるように造ってあった。
極度にへこむと、裏のほうがふくれて来る。つまり、あの自尊心の倒錯である。原田もここは必死、どもりどもり首を振って意見を開陳し矢鱈やたらにねばる。
新釈諸国噺 (新字新仮名) / 太宰治(著)
和服ではすそが寒くてたまらない上に、私のやせぎすは、腹が内側へへこんでいるために、日に幾度ともなく、帯を締め直すはんに堪えない事もあるのである。
めでたき風景 (新字新仮名) / 小出楢重(著)
そして、このへこみの真中に、果して、山羊の皮で作った小さなテントがあった。ちょうどイギリスでジプシー人が持ち𢌞っているようなテントだった。
門野かどのというところの向う山には、山男が石に歩みかけた足跡がある。岩がへこんで足の形を印している。いかほどの強い力だろうかといったそうである。
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
自分が何々博士を訪ねて、種々議論したうち、少ししゃくさわったことがあったので、こうこういってやったところが、だいぶ相手もへこんだようだったと。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
ね返した痕跡が割れ目を生じたころは、雪は一方にうずたかく盛り上られ、一方ではすくわれたようにげっそりとへこむ。
奥常念岳の絶巓に立つ記 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
吉次越の絶頂のへこんだ処に木と草とで忽ち速成のバンガローを造って、悠々と尻を落ちつけて、指揮したと云う。
田原坂合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
と威厳ある一ト睨で、帝釈天はへこんで面をふくらせたのは、溜飲が下った。山本さんは更に主任達の方を向いて
監獄部屋 (新字新仮名) / 羽志主水(著)
それでも政宗は遠慮せずに三千塚という首塚を立てる程の激しい戦をして蘆名義広をへこませ、とうとう会津を取ってしまったのが、其翌年の五月のことだ。
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
三方にあるれた庭には、夏草が繁って、家も勝手の方は古い板戸がこわれていたり、根太板ねだいたへこんでいたりした。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
梯子はしごと僕と鞄が、すっかり仲よく船尾スタアンへこみへへばりついて、ぜんたい斜めに宙乗りしていた。陸から漕いで来た僕のはしけボウテ梯子ジャコップの下に結び着けてある。
字を書けの、歌をめのと言われては、がんちゃんもいささかへこむだろうが、歩けと言われる分には本職です。
藍皮阿五は横合いから手を出して「そんなことは一切乃公おれに任せろ」と言ったが、王九媽は承知せず、「お前にはあした棺桶をかつがせてやる」とへこまされて
明日 (新字新仮名) / 魯迅(著)
しかし太った紳士がそのとなりから慌てて立ち上ろうが、汽車が動き出そうが、太った紳士が再びそのかたわらへ大きなおしりをどっかと下して座席がへこもうが、二等室の一隅いちぐう
蝗の大旅行 (新字新仮名) / 佐藤春夫(著)
ライオン歯磨の桐箱も今はすずのパイプとなるからに親指の跡へこみし古下駄の化身、そも何となるべき。
偏奇館漫録 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
酒を飲まないやつは飲む者にへこまされると決定きまっているらしい。今の自分であってみろ! 文句がある。
酒中日記 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
へこんだ鑵や、虫けらや、ぶくぶく浮き上る真黒なあぶくや、果実の皮などに取り巻かれたまま、蘇州からでも昨夜下って来たのであろう、割木を積んだ小舟が一艘
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)
ガルールは、それから夢中になって船床ゆかを探し廻った。そしてふと穴のようなへこみへ首を突込むと
それは、最初鏡を磨く際に、模様のある低い部分が、一端はへこむのですけど、やがて日を経るにつれ盛り上ってきて、結局、不思議なかたを反射するようになるのです。
人魚謎お岩殺し (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
やがて、この弱々しい月光の下で、二つの小さな頭の影が、一つになって仕舞うと、彼は、葉子の頬についている、小さい愛嬌黒子ぼくろが、自分の頬をも、へこますのを感じた。
夢鬼 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
そして、地のへこみに足をとられて、立木へ倒れかかって、やっと、左手で、木にすがって支えた。
近藤勇と科学 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
米国の応募兵のなかに、脳の後頭部がいで取つたやうにへこんだ頭をした兵卒の一人があつた。
ところが、重味で真ん中の根太ねだへこんで困りましたが、それなりでとうとう翌年の二月に仕上げ、農商務省へ納めました。やっとシカゴの博覧会出品に間に合ったことであった。
眼の上の眉のひさしがやや眼にのしかかり気味でそれが眼に陰影を与える。眼と嘴と額との国境のようなへこんだ三角地帯に、こわい毛に半ばうもれるように鼻孔がこの辺のこなしを引締めている。
木彫ウソを作った時 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
狭い澄んだ額のまわりにさざなみのように揺らいでる細やかな髪の毛、やや重たげな眼瞼まぶたの上のすっきりしたまゆ雁来紅がんらいこうの青みをもった眼、小鼻のぴくぴくしてる繊細な鼻、軽くへこみを帯びた顳顬こめかみ
虫は、凝ツと翅を休めると、どんなに、私の腹が大きく脹れたりへこんだりしても、一向に頓着なく、何か憂鬱なことでも想ひながら遊動円木にでも乗つてゐるかのやうに図々しく、落ついてゐます。
晩春の健康 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
硝子窓につぶされ、へこんだ鼻をしているその顔がまるで、泣きだしそうな羞恥しゅうちゆがんでおり、それをえて、友達と笑い合っては、道化どうけ人形をおどらせ、あなたは、こちらの注意をこうとしていました。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
一口でへこまされて仕舞うでしょう。何にも知らないんですもの。
お久美さんと其の周囲 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
「正太もまた、こんなことにへこんで了うようなことじゃ不可いけない
家:02 (下) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「お縫様の死はどうするね?」半九郎へこまずきき返した。
染吉の朱盆 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
眼のへこむのを覚えた。
放浪の宿 (新字新仮名) / 里村欣三(著)
ガラツ八のへこむ顏を見て、女は始めて微笑みましたが、其儘物優しく小腰を屈めると、きびすを返して竹屋の渡しの方へ急ぎます。
死人のようにほっペタをへこまして、白い眼と白いくちびるを半分開いて……黄色い素焼みたいな皮膚ひふの色をして眠っているでしょう。
狂人は笑う (新字新仮名) / 夢野久作(著)