黄昏たそがれ)” の例文
へやに入つて洋燈ランプを點けるのもものういので、暫くは戲談口じやうだんぐちなどきき合ひながら、黄昏たそがれの微光の漂つて居る室の中に、長々と寢轉んでゐた。
一家 (旧字旧仮名) / 若山牧水(著)
分担金の必要はないのだが、菱苅と同様、停年近くの黄昏たそがれの状態で、みな、くすみにくすんでいる。谷川岳など、飛んでもない話だ。
一の倉沢 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
晩春の黄昏たそがれだったと思う。半太夫は腕組みをし、棒のように立って空を見あげており、その脇でお雪が、たもとで顔をおおって泣いていた。
市兵衛町の表通には黄昏たそがれ近い頃なのに車も通らなければ人影も見えず、夕月が路端みちばたそびえた老樹の梢にかかっているばかりであった。
枇杷の花 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
またあたりは妙に森閑しいんと静まり返って再び山の墓場は木の葉の落ちる音一つ聞えるくらいの侘しい澄んだ黄昏たそがれの色に包まれめたが
逗子物語 (新字新仮名) / 橘外男(著)
どうしてこのように無心な者の言葉が、聴けば身にむのかということを考えて見るのもよい。風のない晩秋の黄昏たそがれに町をあるいて
こども風土記 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
黄昏たそがれがすつかり迫つて、アデェルが、私を殘して子供部屋に行つて、ソフィイと遊ぶ頃になると、私は堪へがたく逢ひたいと思つた。
黄昏たそがれ——その、ほのぼのとした夕靄ゆうもやが、地肌からわきのぼって来る時間になると、私は何かしら凝乎じっとしてはいられなくなるのであった。
腐った蜉蝣 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
海岸へ出る頃には、黄昏たそがれの明るみが月の光りに代りかけていた。茫と青白く光る海岸線が、魔物のような波音をのせて遠く続いていた。
月明 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
青年せいねんは、あかはたが、黄昏たそがれうみに、えるのを見送みおくっていました。まったくえなくなってから、かれはがけからおりたのであります。
希望 (新字新仮名) / 小川未明(著)
もう黄昏たそがれに近く、西日の影が、町の豆腐屋や織物屋の軒に赤々とさしこんでいる。——その一軒に、何か、まっ黒に人がたかっていた。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
私は以前とは反対に溪間を冷たく沈ませてゆく夕方を——わずかの時間しか地上にとどまらない黄昏たそがれの厳かなおきてを——待つようになった。
冬の蠅 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
私は、朝の八時から、黄昏たそがれどきまで、十時間ほど、しゃっくりをつづけた。危いところであった。もう少しで死ぬところであった。
春の盗賊 (新字新仮名) / 太宰治(著)
壁にかけられた油絵のけばけばしい金縁の光輝ひかりさえ、黄昏たそがれ時の室の中の、鼠紫の空気の中では毒々しく光ることは出来ないらしい。
沙漠の古都 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
時既に黄昏たそがれぬ。正午頃より今に至るまで、米を計りて待構えたる鮫ヶ橋の貧民等恩に浴せんとてきたる者無く、貧童一にんの影だに見えず。
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
黄昏たそがれは、誰も知るとおり、曲者くせものである。物みなが煙のように輪郭りんかくを波打たせ、が飛んでも、かみなりが近づくほどにざわめき立つのである。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
さういふ伴侶なかまことをんな人目ひとめすくな黄昏たそがれ小徑こみちにつやゝかな青物あをものるとつひした料簡れうけんからそれを拗切ちぎつて前垂まへだれかくしてることがある。
(旧字旧仮名) / 長塚節(著)
汝が僧とならんといふは、けふの黄昏たそがれの暗黒なる思案にて、あすは旭日の光に觸れて泡沫のごとく消え去るべきものにはあらずや。
陽春のある黄昏たそがれである。しかし、万物甦生そせいに乱舞するこの世の春も、ただこの部屋をだけは訪れるのを忘れたかのように見える。
黄昏の告白 (新字新仮名) / 浜尾四郎(著)
しかして、黄昏たそがれ帰家せざるをもって家僕を迎わせんとせしに、あいにく不在なるにより、妻、一婢をもって出迎えせしは、すでに夜七時。
妖怪報告 (新字新仮名) / 井上円了(著)
もはや黄昏たそがれであった。こうしてさまざまに無駄骨を折ったあげくに見る我が宿は、世にも惨めな、きたならしいものに思われた。
(新字新仮名) / ニコライ・ゴーゴリ(著)
店舗みせにはみな煌々とあかりがついて、通りかかる女たちも、人も、物も、すべてこの春の黄昏たそがれの幸福な安逸と、生の楽しさとを物語っていた。
孤独 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
着て居た羽織をかたり取られた上、黄昏たそがれの場末の街上に置き去りにされた苦い経験があつたので、尚更不安に感じたのであつた。
乳の匂ひ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
小笠原はその持前の物静かな足取りで黄昏たそがれひたり乍ら歩いていたが、やがて、伊豆の心に起った全ての心理をくまなく想像することが出来た。
小さな部屋 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
はるかに火薬庫の煙筒は高く三田村の岡をいて黄昏たそがれの空に現われているけれども、黒蛇のような煤煙はもうやんでしまった。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
さてそれから、いかに現代が理想の黄昏たそがれであり空虚な時代であるかについて、軽快無比のアレグロ調の雄弁が際限もなく展開するのである。
じりじりと濃さを深めて行く黄昏たそがれも、私には昨日もくりかえされ、また明日につづいて行く時間の重苦しさ以外のものを語りかけなかった。
軍国歌謡集 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
たださえ、人をこころの故郷ふるさとに立ち返らさずにはおかない黄昏たそがれどき……まして、ものを思う身にはいっそう思慕の影を深める。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
庭の芝生は、黄昏たそがれの光の底に、濡れたやうなグリーンで、ゆき子の白い靴先が、木の卓子の下で、富岡の足とたはむれてゐる。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
時とすると生涯の黄昏たそがれがすでに迫って来て、このまま自滅するのではないかと思われもしたが、今においていくらかの取返しをつけるのに
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
長くながめていればいるほど、いよいよ見わけがつかなくなり、いっさいがいよいよ深く黄昏たそがれのうちに沈んでいくのだった。
(新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
密林は、死んだような黄昏たそがれの闇のなかを、ときどき王蛇ボアがとおるゴウッという響きがする。と、とつぜん、カークがポンとひざをうって言った。
人外魔境:01 有尾人 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
駒井は今、その海と船との信仰に、全身燃ゆるが如き思いを抱いて、万里の海風に吹かれながら、黄昏たそがれの道をおのが住家へと戻って来ました。
大菩薩峠:24 流転の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
最も名残の惜しまれる黄昏たそがれ一時ひとときを選んで、半日の行楽にやや草臥くたびれた足をきずりながら、この神苑の花の下をさまよう。
細雪:01 上巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
ある秋の日の黄昏たそがれ近くのころ、私はロンドンのD——コーヒー・ハウスの大きな弓形張出し窓のところに腰を下していた。
群集の人 (新字新仮名) / エドガー・アラン・ポー(著)
そしていつか薄明は黄昏たそがれに入りかわられ、苔の花も赤ぐろく見え西の山稜さんりょうの上のそらばかりかすかに黄いろににごりました。
インドラの網 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
高い天井には古風なシャンデリアが点いていたが窓外にはまだ黄昏たそがれの微光がただよっているせいか、なんとなく弱々しい暗さを持った大広間だった。
赤耀館事件の真相 (新字新仮名) / 海野十三(著)
そのあいだに、イカバッドはあの大きなエルムの木の下の泉のほとりや、あるいは、黄昏たそがれのなかをぶらぶら散歩しながら、娘を口説くのだった。
もう黄昏たそがれの人影が蝙蝠のようにちらほらする回向院前の往来を、側目もふらずまっすぐに、約束の場所へ駈けつけました。
妖婆 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
ずっと向う側の卓で、話し声がようやく高くなって来た。上半身裸になって、汗が玉になって流れている。出口の方に、黄昏たそがれの色がうすれかかった。
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
それが済むと、菓子折をり合う子供の声がした。すべてがやがてしずかになったと思う頃、黄昏たそがれの空からまた雨が落ちて来た。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
連て立ち出しは既に時刻じこくを計りし事故黄昏たそがれ近き折なれば僅かの内に日は暮切くれきり宵闇よひやみなれば辻番にて三次は用意の提灯ちやうちんあかりを
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
麓の方で晩鐘いりあいが鳴り出した。其鐘のうながさるゝかの如く、からす唖〻〻あああと鳴いて、山の暮から野の黄昏たそがれへと飛んで行く。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
行きづまった山合いへ、一町ほど急なくだりになっている。その底を流れる細谷川のかすかな水音の聞える黄昏たそがれであった。
花幾年 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
私達は晩餐のあとかかさず湖畔の草原へ出て、奇麗に露を綴った羽衣草を踏みながら、黄昏たそがれの長い北国の夕を味わった。
目覺めても黄昏たそがれになつても、そして夜になつても、泣いて歸つて來る我兒がゐないことを思ふと、彼女は安らかに瞳を閉ぢることが出來なかつた。
(旧字旧仮名) / 素木しづ(著)
すると、私のこの最後の疑問に対する明白なる答えとして、まだ黄昏たそがれだというのに、またもや例の幽霊がわたしの行く手をふさいでいるのを見た。
天もげよと燃えあがる熖の紅ではなく、淋しい不可思議な花の咲く秋の野の黄昏たそがれを、音もなく包む青ばんだもやである。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
貨幣の豪奢ごうしゃで化粧されたスカートに廻転窓のある女だ。黄昏たそがれ色の歩道に靴の市街を構成して意気に気どって歩く女だ。
女百貨店 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
一二五頁「花冠」は詩人が黄昏たそがれの途上にたたずみて、「活動」、「楽欲」、「驕慢きようまん」のくにに漂遊して、今や帰りきたれる幾多の「想」と相語るに擬したり。
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)