蕪村ぶそん)” の例文
これだけは蕪村ぶそんの大手腕もつひに追随出来なかつたらしい。しもに挙げるのは几董きとうの編した蕪村句集に載つてゐる春雨の句の全部である。
芭蕉雑記 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
蕪村ぶそん春風馬堤曲しゅんぷうばていきょくの種類ですか」「いいえ」「それじゃ、どんなものをやったんです」「せんだっては近松の心中物しんじゅうものをやりました」
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
東京鳴球めいきゅう氏より郵送せられし子規しき先生の写真及び蕪村ぶそん忌の写真が届きしは十日の晩なり。余は初めて子規先生の写真を見て実に驚きたり。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
「暮れて帰れば春の月」と蕪村ぶそんの時代は詩趣満々ししゅまんまんであった太秦うずまさを通って帰る車の上に、余は満腔まんこうの不平をく所なきに悶々もんもんした。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
言葉が制限であり、習慣が附け紐である限りは、要するにそれはただ蕪村ぶそんのいわゆる「水桶にうなづき合ふや瓜茄子なすび」である。
蕪村ぶそん七部集が艶麗えんれい豪華なようで全体としてなんとなく単調でさびしいのは、吹奏楽器の音色の変化に乏しいためと思われる。
俳諧の本質的概論 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
その宗祇時代から芭蕉に至るまでの間には宗鑑そうかん守武もりたけ貞徳ていとく宗因そういん等の時代を経ているのである。また芭蕉以後蕪村ぶそん一茶いっさ、子規を経て今日に至る。
俳句への道 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
が、師伝よりは覚猷かくゆう蕪村ぶそん大雅たいが巣兆そうちよう等の豪放洒落な画風を学んで得る処が多かったのは一見直ちに認められる。
天蓋の天人にもみられる童話的挙措である。顔の面長おもながな天人が、琵琶びわをかかえている姿をみると、「行く春やおもたき琵琶の抱きごころ」という蕪村ぶそんの句を思い出す。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
彼は蕪村ぶそんの高弟で、三代目夜半亭を継いだ知名の俳人であると説明すると、老人はうなずいた。
半七捕物帳:66 地蔵は踊る (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
しからば大雅たいがか、蕪村ぶそんか、玉堂ぎょくどうか、まだまだ。では光琳か、宗達か。なかなか。では、元信もとのぶではどうだ、又兵衛またべえではどうだ、まだだ。光悦こうえつか、三阿弥あみか、雪舟せっしゅうか、もっともっと。
河豚のこと (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
この図を描くに至つた動機と云ふやうな事もありませんがかつわたくし一茶いつさの句であつたか蕪村ぶそんの句であつたか、それはよく覚えませんが、蚊帳かやの句を読んで面白いと思つて居りました。
(新字旧仮名) / 上村松園(著)
單に青葉若葉と云はない、あのあたり一面におほい松の林の松の花、蕪村ぶそんが歌うた
蕪村ぶそんとか崋山かざんとかいうような清廉せいれんな画家になるだろうと思ったら大ちがいでした。
雨瀟瀟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
多くの一般の俳句は、自然の風物に託して主観の情調や気分を詠じているので、純に観照のために観照をしている如き、没情感の冷たい俳句と言うものは見たことがない。例えば蕪村ぶそん
詩の原理 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
三渓の蒐集品は文人画ばかりでなく、古い仏画や絵巻物や宋画や琳派りんぱの作品など、尤物ゆうぶつぞろいであったが、文人画にも大雅たいが蕪村ぶそん竹田ちくでん玉堂ぎょくどう木米もくべいなどのすぐれたものがたくさんあった。
漱石の人物 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
「菊川に公卿衆泊りけりあまがは」(蕪村ぶそん)の光景は、川の面を冷いやりと吹きわたる無惨の秋風が、骨身に沁みるのをおぼえようではあるまいか、更にそのむかし、平家の公達きんだち重衡しげひら朝臣あそん
天竜川 (新字旧仮名) / 小島烏水(著)
先に来たのが北山御房きたやまごぼうのわきの蕪村ぶそん呉春ごしゅんの墓のあるという土地だった。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
床の間の掛軸や花瓶かびんなどに目をつける習慣になっていて、花の生け方などで料理がひどく乱暴なものか否かを大体ぼくするのであったが、今そこに蕪村ぶそんと署名された南画風の古い軸がかかっていたので
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
「負けまじき相撲すまふを寝ものがたりかな」とは名高い蕪村ぶそんの相撲の句である。この「負けまじき」の解釈には思ひのほか異説もあるらしい。
澄江堂雑記 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
ちなみにいふ。太祇たいぎにも蕪村ぶそんにも几董きとうにも「訪はれ顔」といふ句あるは其角きかくの附句より思ひつきたるならん。(三月二十四日)
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
貧乏を十七字に標榜ひょうぼうして、馬の糞、馬の尿いばりを得意気にえいずる発句ほっくと云うがある。芭蕉ばしょうが古池にかわずを飛び込ますと、蕪村ぶそんからかさかついで紅葉もみじを見に行く。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ふたたび新境地をひらくだけの人が出なかったために、程なくまた様式の中に没頭してしまい、蕪村ぶそん一茶いっさ発句ほっくでは大家のようであるが、天明・文化の俳諧は
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
少なくも本邦のトーキー脚色者には試みに芭蕉ばしょう蕪村ぶそんらの研究をすすめたいと思う。
映画時代 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
蕪村ぶそん芭蕉ばしょうの俳句に関しては、近頃ちかごろさかんに多くの研究文献が輩出している。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
しからば大雅たいが蕪村ぶそん玉堂ぎょくどうか。まだまだ。では光琳こうりん宗達そうたつか。なかなか。では元信もとのぶではどうだ、又兵衛またべえではどうだ。まだまだ。光悦こうえつ三阿弥さんあみか、それとも雪舟せっしゅうか。もっともっと。因陀羅いんだら梁楷りょうかいか。
河豚は毒魚か (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
春雨や人住て煙壁を洩る 蕪村ぶそん
俳句とはどんなものか (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
蕪村ぶそんじゃないかな」
挿話 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
それからぐにその号のために書き出したが、その頃、私の知つてゐる人が蕪村ぶそんの書いた「芭蕉涅槃図ばせをねはんづ」——それは仏画である——を手に入れた。
表紙に芭蕪ばしょうの葉を画けるにその画つたなくしてどうやらかぶらの葉に似たるやう思はる。蕪村ぶそん流行のこの頃なれば芭蕉翁も蕪村化したるにやといと可笑おかし。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
行灯あんどう蕪村ぶそんも、畳も、違棚ちがいだなも有って無いような、無くって有るように見えた。と云ってはちっとも現前げんぜんしない。ただ好加減いいかげんに坐っていたようである。
夢十夜 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
芭蕉去って後の俳諧は狭隘きょうあいな個性の反撥力はんぱつりょくによって四散した。洒落風しゃれふう浮世風などというのさえできた。天明蕪村ぶそんの時代に一度は燃え上がった余燼よじんも到底元禄げんろくの光炎に比すべくはなかった。
俳諧の本質的概論 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
石をはなれてふたたび山道にかかった時、私は「谷水のつきてこがるる紅葉かな」という蕪村ぶそんの句を思い出した。
日光小品 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
一、古人の俳句を読まんとならば総じて元禄げんろく明和めいわ安永あんえい天明てんめいの俳書を可とす。就中なかんずく『俳諧七部集』『続七部集』『蕪村ぶそん七部集』『三傑集』など善し。
俳諧大要 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
これと比較するとたとえば蕪村ぶそんは自然に対するエロチシズムをもっていない。
俳諧の本質的概論 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
ふすま蕪村ぶそんの筆である。黒い柳を濃く薄く、遠近おちこちとかいて、むそうな漁夫がかさかたぶけて土手の上を通る。とこには海中文殊かいちゅうもんじゅじくかかっている。き残した線香が暗い方でいまだににおっている。
夢十夜 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
しかしこの意味では蕪村ぶそん召波せうはも、「十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめ」てはゐないか。
点心 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
蕪村ぶそんの句には牡丹の趣がある。闌更らんこうの句は力は足らんけれどもやはり牡丹のやうな処がある。梅室ばいしつなども俗調ではあるが、松葉牡丹まつばぼたん位の趣味が存して居る。
病牀六尺 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
だれでもが指揮者になれない理由はそこにあり、芭蕉七部集の連句には一芭蕉の存在を必須ひっすとした理由もここにあり、さらにまたたとえば蕪村ぶそん七部集の見劣りする理由もここにあるのであろう。
連句雑俎 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
下って大雅堂たいがどう景色けいしょくである。蕪村ぶそんの人物である。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
これはかへつて後世蕪村ぶそんの調にも似たるは如何といふに、山門前の意味なれば漢音にて門前と読ませたるなり。
俳諧大要 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
その代りにトルストイを読んだり、蕪村ぶそん句集講義を読んだり、就中なかんづく聖書を筆写したりした。武さんの筆写した新旧約聖書は何千枚かにのぼつてゐるであらう。
素描三題 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
以上のような方法を芭蕉や蕪村ぶそんに及ぼして分析と統計とを試みてみたらあるいはおもしろい結果が得られはしないかと思うのであるが、自分で今それを遂行するだけの余裕のないことを遺憾とする。
連句雑俎 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
咳唾がいだたまを成し句々吟誦するに堪へながら、世人はこれを知らず、宗匠はこれを尊ばず、百年間空しく瓦礫がれきと共に埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村ぶそんとす。
俳人蕪村 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
それから掘割りに沿うた往来わうらいも、——僕は中学時代に蕪村ぶそん句集を読み、「君くや柳緑に路長し」といふ句に出合つた時、この往来にあつた柳を思ひ出さずにはゐられなかつた。
本所両国 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
光琳こうりん歌麿うたまろ写楽しゃらくのごとき、また芭蕉ばしょう西鶴さいかく蕪村ぶそんのごときがそれである。彼らを昭和年代の今日に地下より呼び返してそれぞれ無声映画ならびに発声映画の脚色監督の任に当たらしめたならばどうであろう。
映画時代 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
咳唾がいだたまを成し句々吟誦するに堪えながら、世人はこれを知らず、宗匠はこれを尊ばず、百年間空しく瓦礫がれきとともに埋められて光彩を放つを得ざりし者を蕪村ぶそんとす。
俳人蕪村 (新字新仮名) / 正岡子規(著)
八大はちだいの魚や新羅しんらの鳥さへ、大雅たいがの巖下にあそんだり、蕪村ぶそんの樹上にんだりするには、余りにたくましい気がするではないか? 支那の画は実に思ひのほか、日本の画には似てゐないらしい。
支那の画 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
住居の上についても余り狭い家は苦しく感ずる。天井の低いのはことに窮屈に思はれる。蕪村ぶそんの句に
病牀六尺 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
やむを得ずんば大学教授の適任者と做すも忍ばざるにあらず。唯幸ひに予を以て所謂いはゆる文人と做すこと勿れ。十便十宜帖じふべんじふぎでふあるが故に、大雅たいが蕪村ぶそんとを並称へいしやうするは所謂文人の為す所なり。
続野人生計事 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)