)” の例文
己は御身に警告せずしてむに忍びない。己の次は御身だ。危険が御身に及ぶと云ふことは、この珍らしい娘の目の中で己が読んだ。
復讐 (新字旧仮名) / アンリ・ド・レニエ(著)
玄機が刑せられる二年前に、温は流離して揚州ようしゅうに往っていた。揚州は大中十三年に宰相をめた令狐綯が刺史ししになっている地である。
魚玄機 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
こぼしてゐた。一度昌作に代つて読手になつたが、間違つたり吃つたりするので、二十枚と読まぬうちに富江の抗議でめて了つた。
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
碑文に「辛未、宣教判官ニ拝ス。既ニシテマタ権大法官、五等判事ニ歴任ス。官廃セラレテム。マタツテ司法少書記官トル。」
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
今日はあるいはめているかもしれぬが、私たちの採訪して来た記録には豊かに残っており、昔なつかしい事実がその中には多い。
年中行事覚書 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
高橋が去り古川がめる以上はイツマデ腰弁を甘んずる義理も興味もないので、古川が罷めると間もなく自分も辞職してしまった。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
……この虚心な心の状態がむと、彼の両眼は半死半生の鼠を嬲る猫の眼よりも烈しく、炎となつて燃え耀いて来るのであつた。
そこで軍をめて去りました。かくて大前小前の宿禰がカルの太子を捕えて出て參りました。その太子が捕われて歌われた歌は
到頭とうとう仕舞しまいには洋書を読むことをめて仕舞うて攘夷論でも唱えたらば、ソレはおわびが済むだろうが、マサカそんな事も出来ない。
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
私共が外遊から帰って来ると、H君は二十五年の小学校奉仕をめて、六十近く新に進出の路を求めねばならぬ苦境に居ました。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
『俺は、今日ここをめたんだ、明日は国元へ帰るから、もう二度と逢えそうもない、最後だから一緒にそこまで散歩してくれないか……』
鉄路 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
教員は驚き慌ててそれを拾つたが、忿怒ふんどすることをめて、やはり父がしたやうに炉の炎をしばらくの間三稜鏡で眺めてゐた。
念珠集 (新字旧仮名) / 斎藤茂吉(著)
笹村はいい加減に翫弄おもちゃにされているように思って、三、四月ごろ注射を五本ばかり試みたきりめていたが、やはりそれが不安心であった。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
それが中途から学問をめて、この商売を始めたのは、放蕩ほうとう遣損やりそこなつたのでもなければ、あへ食窮くひつめた訳でも有りませんので。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
それからしばらく書くのをめていたが、やっぱり書かずにはどうしてもいられないような気がしたので、わざわざ山の中に隠れては書いて来た。
梁は覚えず体を舟のてすりに出して大声に言った。陳は梁の呼ぶ声を聞いて、棹をめさして水鳥のかたちを画いた舳に出て、梁を迎えて舟をやった。
西湖主 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
記には「こゝに将門まんと欲すれども能はず、進まんと擬するに由無し、然して身を励まして勧拠し、刃を交へて合戦す」
平将門 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
蛇足のたとえは『戦国策』に見ゆ。昭陽楚の将として魏をち更に斉を攻めた時、弁士陳軫ちんしん斉を救うためこの喩えを説き、昭陽にいくさめしめた。
それを今と成ッて、モウ官員は思切る……左様さようサ、親の口は干上ッてもかまわないから、モウ官員はおめなさるが宜いのサ
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
しかしふと気を換えてめた。そして爺いさんの後姿を見送っているうちに、気が落ち着いた。一本腕は肩をそびやかした。
橋の下 (新字新仮名) / フレデリック・ブウテ(著)
物音はまぬのみか、しだいに高まッて、近づいて、ついに思いきッた濶歩かっぽの音になると——少女は起きなおッた。何となく心おくれのした気色。
あいびき (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
象次郎曰ふ、復古はかたきに非ず、然れども門地もんちはいし、門閥もんばつめ、けんぐることはうなきに非ざれば、則ち不可なりと。二人の本領自らあらはる。
北条高時は病のため、執権職をめ、従来も剃髪ていはつではあったが、あらためて法名“崇鑑そうかん”ととなえる、とおおやけに沙汰された。
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「いったい、駒井が甲州をめたのは、神尾主膳との間が面白くないためか、それともほかに何か仔細があってか」
大菩薩峠:17 黒業白業の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
こゝをめたいと思へば、結構ひとりでやつて行けるくらゐめてるのは確かだと思ふわ。でもこゝには、もうすつかり落着いてしまつたんだらうよ。
「そう云えば先生は、近々大学をおめになると云うような噂がございますが、事実なのでございましょうか。」
蘿洞先生 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
殊にこの間職をめてからというものはこの「不正を憎む心」と「淋しさを楽しむ性質」が一層烈しく募って来て、朝から晩まで顕微鏡や、ビーカーや
暗黒公使 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
誰にも言わずに居ましたが、水野越前守忠邦は、天保十四年うるう九月十三日のこの日老中をめさせられたのです。
礫心中 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
その代りただでは不可いけません、邪慳な姑をさらりとめて、慈愛な母親になってやる、と私の前で御誓い下さい。
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
よって余は最初の計画に変更を加え、二十章以後を逐章研究することをめて、最後の数章のみを講ぜんと欲する。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
還俗は医者をめることなのです。つまり僧と同じ扱いなのでしょう。後に男爵西あまねとなったのはこの人でした。
鴎外の思い出 (新字新仮名) / 小金井喜美子(著)
一九四七年一月吉田内閣が補強政策を行ったとき、田中耕太郎はめさせられた。英国経済史の専門家で慶大教授・経済学博士高橋誠一郎が文相となった。
今日の日本の文化問題 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
私がツァーランに居る間に全く酒をめさした者が十五人、それからこの村では煙草の葉を噛んでその辛い汁を吸い込むことが盛んに行われて居りますが
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
私が職をめたならば、上役の首尾も直るでしょうと言えば、駅長はすぐ打ち消して、かえって私を慰めた上に、いろいろ行末のことも親切に話してくれた。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
給仕頭はガルボをめさせて友達の紹介で、新しくサンチョーというのを妻は雇い入れていたのであった。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
ちん郡の謝鯤しゃこんは病いによって官をめて、予章よしょうに引き籠っていたが、あるとき旅行して空き家に一泊した。
以下すべて過去形の動詞を用いてあるのは、この作の書かれたころには探偵をめていたからであろう。
東京の銭湯は余り熱いから少しぬるくしたら善からうとも思ふたがいつそ銭湯などはめてしまふて皆々冷水摩擦をやつたら日本人も少しは活溌になるであらう。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
ソソレを抜けば火が降ると昔から言つてあるどうぞめて下さいと云ふ、私は何に大丈夫と鉾の根の石をサツ/\と掻のけ、一息に引抜いて倒した儘で帰りました。
千里駒後日譚 (新字旧仮名) / 川田瑞穂楢崎竜川田雪山(著)
戦乱んで泰平の来る時、文運は必らず暢達ちやうたつすべき理由あり、然れども其理由を外にして徳川時代の初期を視る時は、一方に於て実用の文学大に奨励せらるゝ間に
われかくのごとき人のために誇らん、然れど我が為には弱き事のほか誇るまじ。もし自ら誇るとも我が言うところ誠実まことなれば、愚かなる者とならじ。然れど之をめん。
パウロの混乱 (新字新仮名) / 太宰治(著)
太古以来の習慣たる肉食の風習をめなかったがために、「特に身に穢れがある」との迷信から、後には「穢れ多し」という、忌まわしい「穢多」の名を負わされて
人心は統御し得ず今また半途にして股肱ここうの臣までもめさせられることになった、畢竟ひっきょうこれは不才のいたすところで、所詮しょせん自分の力で太平を保つことはおぼつかない。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
三日みつかにしてのちへいろくす。病者びやうしやみなかんことをもとめ、あらそふるつて、でてこれめにたたかひおもむけり。しんこれき、めにり、えんこれき、みづわたつてく。
侍臣が王の命のままに持って来たのは羽の真白なさぎのような鶉で、ただの鳥ではなかった。王成はその鶉を見てしょげてしまい、ひざまずいてめさしてくれといった。
王成 (新字新仮名) / 蒲 松齢(著)
此時このとき善ちゃんは最早もうめろ、仮髪かつらを返して来いと言った。で、乃公も講壇から下りようとすると
いたずら小僧日記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
二三年勤めるつもりで、陸軍には出た。大尉になり次第めるはずである。それを一段落として、身分相応に結婚して、ボヘミアにある広い田畑を受け取ることになっている。
薛許昌、亦た嘗て成都幕府を以て来り郡を摂す。未だ久しからずしてめ去る。故に其の茘枝の詩に曰ふ、歳杪監州曾見樹、時新入座但聞名と。蓋し時に及ばざりしを恨める也。
誰も彼も市会に苛め抜かれてめたような顔はしていなかった。それは恐らく市長になりたてのときの写真なのであろう。罷めるときは、こうは温和な顔付にはゆかなかった筈だ。
深夜の市長 (新字新仮名) / 海野十三(著)
父は出世するだけ出世してめさせられたのである。それを非職と称していた。その後は嘱託という名義で、仕事はこれまでと余り変らずに、主として地方への出張を続けていた。