おぼ)” の例文
くわかたげし農夫の影の、橋とともにおぼろにこれにつる、かの舟、音もなくこれをき乱しゆく、見る間に、舟は葦がくれ去るなり。
たき火 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
それよりも我々が切実に感じたのは、外国の圧迫に対して日本帝国を守る情熱である。三国干渉はおぼろながらも子供心を刺戟した。
蝸牛の角 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
姉の女御にょごの所で話をしてから、夜がふけたあとで西の妻戸をたたいた。おぼろな月のさし込む戸口からえんな姿で源氏ははいって来た。
源氏物語:14 澪標 (新字新仮名) / 紫式部(著)
そうすると、ほとんど有るか無きかのおぼろな神前の燈明の光にかすけく、そこに自分よりも最初に立っている一個の人影を認めました。
大菩薩峠:32 弁信の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
爾時そのとき、優におぼろなる、謂はば、帰依の酔ひ心地ともいふべき歓喜よろこびひそかに心の奥にあふれ出でて、やがておもむろに全意識を領したり。
予が見神の実験 (新字旧仮名) / 綱島梁川(著)
数日まえからおぼろげには聞いていた騒音が、いまはっきりと記憶の表によみがえり、唯事でないという感じがかれを呼び覚ましたのだ。
荒法師 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
誰もこたへるものはありません。平次も、八五郎も泣いて居りました。遲い月が屋根を離れて、五月の街をおぼろに照して居ります。
とはいえ、そこには愚かな濃いもやが一ぱいにたちこめていたので、その響はまったく鋭さのない遠いおぼおぼろしいものになっていた。……
田舎医師の子 (新字新仮名) / 相馬泰三(著)
姉妹達の母親は、妙子がようやく小学校へ上った頃亡くなったので、彼女はその人の面影について、おぼろげな記憶しか持っていない。
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
無限の大空には雲の影一ツない。昼のうちは烈しい日の光で飽くまで透明であつた空のあゐ色は、薄く薔薇色を帯びてどんよりとおぼろになつた。
黄昏の地中海 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
日下部太郎は、燈火のおぼろな書斎の一隅で、古風な鳩時計が、クックー、クックーと二時を報じる迄、机の前を去らなかった。
伊太利亜の古陶 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
空には上弦の初夏の月が、おぼろに霞んだ光をこぼし、川面を渡る深夜の風は並木の桜の若葉にそよいで清々すがすがしい香いを吹き散らす。
紅白縮緬組 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
なま暖かく、おぼろに曇った春の宵。とある裏町に濁った溝川みぞがわが流れている。そこへどこかの貧しい女が来て、盥を捨てて行ったというのである。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
患者の寝台の枕下に小卓が置かれ、その上にのせた絹張り傘の電燈が、室内をおぼろに照らしていた。小卓の向側は庭に開いた押上げ窓である。
偉大なる夢 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
早くも濁つた色で染められたのであつたが、「相合傘」の恐しさも、あの頃聞かされた話の一つとして、今なほおぼろげに私の記憶に殘つてゐる。
(旧字旧仮名) / 正宗白鳥(著)
妖女が馬腹をくぐる時の文句に「周囲の山々は矗々すくすくくちばしを揃え、頭をもたげて、この月下の光景を、おぼろ朧ろとのぞき込んだ」
雪の白峰 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
おぼながら覚えているのは、少年の頃母の埋まっているその宗源寺へ、私も遊びに行ったことがあって、その寺というのを知っているのです。
仁王門 (新字新仮名) / 橘外男(著)
硯友社の社則がその頃の青年の集会の会規と何処どこかに共通点があるのを発見して、おぼながらも割合に若い人たちの集団であると気が付いて
その上クリストフが自分よりも遠くまで見通しておることをおぼろに意識していた。そしてますますいらだつばかりだった。
つまり「つりをしていると、水底みずぞこから、ずっと深く、おぼろに三尺ほどの大きさで、顔が見えて、馬のような顔でもあり、女のような顔でもあった。」
夜釣の怪 (新字新仮名) / 池田輝方(著)
明りのささなかった墓穴の中が、時を経て、薄い氷の膜ほど透けてきて、物のたたずまいを、幾分おぼろに、見わけることが出来るようになって来た。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
元来快楽主義は脳力の発達した動物にのみあり得べき主義である。それに人間にはおぼろながら理想というものがある。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
しかし、もし、その石にたとえば月が差す、おぼろ/\とした春の夜の月影のようなものが差す。するとその石は僕に取って全く価値が変って来るのだ
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
他のものはおぼろに、目をあげて隣りに立ったものの顔を見直したものは記憶から消えていたが、しかし、何か目まぐるしく眼前にちらつくのであった。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
いくつものとうげえて海藻かいそうの〔数文字空白〕をせた馬にはこばれて来たてんぐさも四角に切られておぼろにひかった。嘉吉かきち子供こどものようにはしをとりはじめた。
十六日 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
手紙こそ月の中に十幾度となく往復しているが、去年の五月からと言えば顔の記憶もおぼろになるくらいである。
黒髪 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
と同様に、かつて北方で己を責めさいなんだ数々のわずらいも、単なる事柄の記憶にとどまってしまい、快い忘却の膜の彼方におぼろな影を残しているに過ぎない。
おぼろな望みに耽っていたもの——それがいまや、吹きしく嵐と化したのであったが、二人はそこのしきいまで来たとき、ハッと打ち据えられたように顎をすくめた。
潜航艇「鷹の城」 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
是は畢竟ひっきょうホドの原意が一般にもうおぼろになってしまって、火処ひどころだということを知らなかったためかと思う。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
彼異様なる感情をその顔面に動かしつゝ、君はゲーテの名を知るや。我、我は独逸話を知らざれど、英訳によりて彼の作物の幾分はおぼろげながら味はひたる事あり。
閑天地 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
しかし、それをどうして二人にき正すことが出来るだろう。彼女は昨夜は、全く自分の眠さと真暗な闇の中で起ったことだけを、おぼろげに覚えているだけだった。
上海 (新字新仮名) / 横光利一(著)
叔父もそんなような波動に漂わされた端くれの一人であることが、お庄の胸にもおぼろげに感ぜられた。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
私たちは既におぼろげながらにもせよ、人間として感ずべく知るべき事の幾分を感じかつ知りました。
婦人指導者への抗議 (新字新仮名) / 与謝野晶子(著)
かつて来たことのない沙地すなちの原へ出た。おぼろに月は空に霞んでうねうねとした丘が幾つも幾つもある。
薔薇と巫女 (新字新仮名) / 小川未明(著)
尠なくも、一かどの武将が手艶にかけた業物わざもので、さや揉皮もみかわには金紋のはくすらおぼろに残って見える。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
夜は花曇りとでも云いたいおぼろ月に、向う岸のサン・ジオルジオの灯火が、星のように望まれた。
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
暗い片隅にうずくまっている人間の姿が、差し向けられたカンテラの灯で、おぼろげながらわかって来た。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
しかし当時の私はただ眩惑げんわくされるだけであった。そして今頃になって、頭の片隅に残る色々な実験室内の場面をつづり合せながら、おぼろにその輪郭をたどるような始末である。
或いは彼は下積みの人々に目をつけて優しく彼らをいつくしんだのであり、或いはその作品には、「刻々に形成されゆくもの」へのおぼろげなそこはかとない期待が漂っており
海洞ほらあなに潮がさしこんでくるような異様におぼろな声で、はっきりと三度までくりかえした。
幼い頃のおぼろげな記憶の糸を辿たどって行くと、江戸の末期から明治の初年へかけて、物売や見世物の中には随分面白いかわったものがあった。私はそれらを順序なく話して見ようと思う。
梵雲庵漫録 (新字新仮名) / 淡島寒月(著)
然し——社会にもその動向はおぼろげに看取される如く——私には智的生活よりも更に緊張した生活動向の厳存するのをどうしよう。私はそれを社会生活の為めに犠牲とすべきであるか。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
界の襖に青のしやすかしが入つてゐて、それを透してその場の光景もおぼろげに窺はれたが、病褥の上で大儀さうに脇息に支へてゐた痩せた上体を前に乗り出して、頬のけた、色沢の悪るい
乳の匂ひ (新字旧仮名) / 加能作次郎(著)
浪漫主義は遙かなるもの、おぼろなるもの、ほのかなるものに心をひかれる。
ゲーテに於ける自然と歴史 (新字旧仮名) / 三木清(著)
十三日はうす曇りであった、富士はおぼろげに見える。
白峰の麓 (新字新仮名) / 大下藤次郎(著)
大津、京都、私はおぼろにしか知らなかった。
急行十三時間 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
そして叫びながら、彼は凄じい地響きと共に築地塀が崩壊し、敵味方の挙げる決戦の鬨声を、昏迷こんめいする耳の奥でおぼろげに聞いた。
三十二刻 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
どちらも若くて、どちらも元気そうな青年武士、浜町河岸がしおぼろの月下、二条の刃が春の夜風をって相正眼に構えたのです。
おぼろ気ながら知ることを得たのは十数年前のことであって、その時以来この島へ移住し、土人どもと交際をし今日まで暮らして参りました。
それでも、注連しめを張った岩窟の中まではおぼろに光が届いて、その奥の方に、かすかに白い衣服がうごいていることがわかる。
大菩薩峠:35 胆吹の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)