わだか)” の例文
過ぐる夜のもやは墨と胡粉ごふんを以て天地を塗りつぶしたのですけれど、これは真白々まっしろじろ乾坤けんこん白殺はくさつして、丸竜空がんりゅうくうわだかまる有様でありました。
大菩薩峠:14 お銀様の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
堀端ほりばたを沿うて走るその電車の窓硝子まどガラスの外には、黒い水と黒い土手と、それからその土手の上にわだかまる黒い松の木が見えるだけであった。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
わだかまりのないほゝ笑みに迎へられて、たじ/\となつたのは、反つて捨てた夫の鈴川主水だつたのは、言ふに言はれぬ面白い皮肉です。
真実ほんとに愛せられることもかつてなかった。愛しようと思う鶴さんの心の奥には、まだおかねの亡霊が潜みわだかまっているようであった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
今また野村の帰郷を必要としている背後にも、どれほど複雑な問題がわだかまっているか、ほぼ想像出来るような心もちがした。
路上 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
とまりに来ると、左手の屏風が急に畳まれて、そうヶ岳や駒ヶ岳の重なり合って大きくわだかまっている後ろから、劒ヶ岳の一部が大鋸の歯で空を引割っている。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
おりんが居なくなってからの平兵衛の変りよう、そこには愛妻を失った悩み以外に何物かがわだかまっていはしないか。それから不思議といえばもう一つ。
「妙な議論だな、これは。友達の胸臆きょうおくわだかまる秘密を察しなければ、一々責任を問われるんだから遣り切れない」
求婚三銃士 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
この山脈が湖面に浮んで居る有様はちょうど大龍が蜿蜒えんえんとして碧空にわだかまるというような有様で実に素晴らしい。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
怪しき岩の如く獣の如く山の如く鬼の如く空にそばだわだかまり居し雲の、皆黄金色の笹縁さゝべりつけて、いとおごそかに、人の眼を驚かしたる、云はんかたなく美し。
雲のいろ/\ (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
龍造寺、大友の末路を学ぶとも、天下のせいを引受けて一戦してみようと仰せられる事は必定じゃ。大体、主君とのの御不満の底にはソレがわだかまっておるでのう。
名君忠之 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
ただただ、山一つ越せばいわ、ですすき焼石やけいしふみだいに、……薄暮合うすくれあい——猿ヶ馬場はがらんとして、中に、すッくりと一軒家が、何か大牛がわだかまったような形。
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
一体自分達は、この先き何になるんだらう——二人の胸には一様にさういふ不安がわだかまつてゐたのだ。
環魚洞風景 (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
廟の前にはがまのような形をした大きい石がわだかまっていて、その石の上に張訓の兜が載せてあった。
青蛙堂鬼談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
蓮華の尾根に、巨岩を負って、大蛇のようにわだかまった老樹で、古い枝は葉も短くまばらに、老蒼の趣きが深く、若く勢いのいい枝の間にも、数多の枯枝をまじえている。
ある偃松の独白 (新字新仮名) / 中村清太郎(著)
そして私は、この単純な白漆喰に取り囲まれて、簡潔な、直線的リネエルな医療機械に護られてゐると、凡有あらゆわだかまりを発散して、白痴のやうにだらしなく安心したい気持になつた。
巨大な白蛇がうねりをなして、わだかまっているそれのように、長い白布が束ねられてあり、その中に可愛らしい田舎いなか娘風の飛天夜叉の桂子かつらこが佇んでい、その背後うしろに小次郎がいた。
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
この時からお玉は自分で自分の言ったりたりする事をひそかに観察するようになって、末造が来てもこれまでのようにわだかまりのない直情で接せずに、意識してもてなすようになった。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
くまでに私が漢学を敵にしたのは、今の開国の時節に、ふるく腐れた漢説が後進少年生の脳中にわだかまっては、とても西洋の文明は国に入ることが出来ないとくまでも信じて疑わず
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
杜はその瞬間、天地の間にわだかまるあらゆるものを忘れてしまった。ただ女の手首を棟木から放すことのほか、地震のことも、火事のことも、身に迫る危険をも指の先ほども考えなかった。
棺桶の花嫁 (新字新仮名) / 海野十三(著)
船に近くあるいは遠く、わだかまり、伸び上り、寝そべり、ささやきあい、忍び笑いし、争ってうしろへ消えていく驚くべき多島——これから芬蘭土フィンランドへルシングフォウスまで海上一昼夜の旅だ。
踊る地平線:05 白夜幻想曲 (新字新仮名) / 谷譲次(著)
その相反する実にかくの如し。しこうしてその相反するは、則ち相得る所以ゆえんなるか。松陰曰く、「象山高く突兀とっこつたり、雲翳うんえい仰ぐべきこと難し。いずれの日にか天風起り、快望せん狻猊さんげいわだかまるを」
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
兄が何気なくそこへ手をやると、蜘蛛は今度はその手の甲の上にわだかまって、腹を動かした。兄はあわててもう一方の手でそれを払った。そうしてその瞬間に彼のからだは中心を失って地上に落ちた。
青草 (新字新仮名) / 十一谷義三郎(著)
されど貞之進は失望というわだかまりがあって、とかくこの座が面白くない、面白くないと思うと、一から十までことごとく面白くない、花次が上に着て居る白っぽい乱達縞らんたつじまの糸織の袷も面白くなく
油地獄 (新字新仮名) / 斎藤緑雨(著)
健康らしいいゝ血色とわだかまりのない気持のいゝお声と精力が溢れるやうなお体つきを見てゐますと私は自分の貧弱なのがいやになつて仕舞ひました。廿五から英語をおはじめになつたのださうです。
わば、こちらも先方せんぽうも何らのわだかまりを持っていないのである。
彼の吐く煙が、彼の白い髯と一緒になってわだかまる。
再度生老人 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
千代子に至っては何を云おうが笑おうが、いつでもわだかまりのない彼女の胸の中を、そのまま外に表わしたに過ぎないと考えていた。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
寿美子はそういって、わだかまりもなくにっこりするのでした。この気軽さと明るさだけは、姉の由紀子になかったことです。
その向うにある御堂みどうの屋根などは霞んで見えない筈でございますが、この雲気はただ、虚空こくうに何やら形の見えぬものがわだかまったと思うばかりで、晴れ渡った空の色さえ
邪宗門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
依然として頭山満を中心として九州の北隅にわだかまりつつ、依然として旧式の親分乾分こぶん、友情、郷党関係の下に、国体擁護、国粋保存の精神を格守しつつ、日に日に欧化し
近世快人伝 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
双方でこんなことを言い合って、疑念もわだかまりもサラリと解けて、そのまま駕籠は前へ進んで行き、こっちへ来る人影は、提灯もなにも持たないけれど、三人ほどに見えました。
大菩薩峠:14 お銀様の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
市郎はこれより他に、自分の潔白を表明すべきことばを知らなかった。わが子を信ずる安行はわずか首肯うなずいたが、疑惑うたがい嫉妬ねたみとがわだかまれる冬子の胸は、まだ容易に解けそうにも見えなかった。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
燃えていたのが澄み切っている。わだかまっていたのが晴れている。いつもは余りに悲痛だった。今夜の唄い振りは楽しそうだ。心に喜びがあればこそ、ああいう歌声が出て来るのだろう。
名人地獄 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
そんなこんなのわだかまりから、津田の意志が充分見えいて来たあとでも、彼女は容易に自分の方で積極的な好意を示す事をあえてしなかった。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
縞物しまものを短かく着て、何處か大店おほだなの小僧とも見える美少年米吉は、平次の問ふまゝに、わだかまりもなく答へます。
心にわだかまりがあるらしいの。膝とも談合ということがある。心を
三甚内 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
そうして御互に腹の中にあるわだかまりを御互の素振そぶりから能く読んだ。しかもその非難に理由のある事もまた御互に認め合わなければならなかった。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
半農半商風の頑固ぐわんこな建物で、其處から門は直ぐですが、振り返ると建物の後ろの方から、巨大な老梅の、花少なに淺黄色の春の空にわだかまる姿が見えるのでした。
第一には大道砥だいどうとのごとしと、成語にもなってるくらいで、平たい真直な道はわだかまりのないさわやかなものである。もっと分り安く云うと、眼をまごつかせない。
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
平次はさう言つて、わだかまりもなく笑ふのです。猿江町の甚三の自信が絶大であればある程、この男の見込みには、大きな盲點がありさうでならなかつたのです。
日本橋にほんばしを通る人の数は、一ぷんに何百か知らぬ。もし橋畔きょうはんに立って、行く人の心にわだかまる葛藤かっとうを一々に聞き得たならば、浮世うきよ目眩めまぐるしくて生きづらかろう。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
平次はわだかまりのない態度でヌツと入りました。それに續くガラツ八、これは少しばかり肩肘かたひじが張ります。
ぜんを引かせて、叔母の新らしくれて来た茶をがぶがぶ飲み始めた叔父は、お延の心にこんなったわだかまりが蜿蜒うねくっていようと思うはずがなかった。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
矢留瀬苗子は、何のわだかまりもなく、そのチョコレートを頬張ったりして居りました。
内におさえがたき或るものがわだかまって、じっとこたえられない活力を、自然の勢から生命の波動として描出びょうしゅつきたる方が実際ったかたと云わなければなるまい。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それは恐ろしい告白こくはくでした。お咲殺しの疑ひから免れようともがいた喜三郎は、自分の潔白を示すのに急で、胸の中にわだかまつて居た長い間の鬱屈うつくつを、一ペンに吐き出してしまつたのです。
そうして彼の神経的に緊張した眼の色と、少し冷笑をらしているようなあによめくちびるとの対照を比較して、突然彼らの間にこの間からわだかまっている妙な関係に気がついた。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
平次は微笑をさへ浮かべて、わだかまりのない調子で斯う言ひました。
六畳の中二階ちゅうにかいの、南を受けて明るきを足れりとせず、小気味よく開け放ちたる障子の外には、二尺の松が信楽しがらきはちに、わだかまる根を盛りあげて、くの字の影をえんに伏せる。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)