熟柿じゅくし)” の例文
熟柿じゅくしくさいにおいが、あぶらぎった体臭の中に溶けて、ぷうんと鼻先に流れてきた。おのぶは、わざとらしく捨鉢すてばちな笑顔を見せながら
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
家康は何事にも、気の永い熟柿じゅくし主義を奉じているが、それを、読み抜いている秀吉も、かれに負けない根気のいいところがある。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
また釣瓶落つるべおちにちるという熟柿じゅくしのように真赤な夕陽が長いまつげをもったつぶらな彼女のそうの眼を射当いあてても、呉子さんの姿は
振動魔 (新字新仮名) / 海野十三(著)
柿右衛門かきえもんという人などは、熟柿じゅくしが枝に下っているのを見て、その色を出そうとして、生涯をついやして出来ず、その子がこれをついで半ば完成し
九谷焼 (新字新仮名) / 中谷宇吉郎(著)
熱い湯に酔ふて熟柿じゅくしのやうになつて、ああ善い心持だ、などといふて居る内に日本銀行の金貨はどんどんと皆外国へ出て往てしまふ。(三月六日)
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
煎餅せんべいつぼと、駄菓子の箱と熟柿じゅくしざるを横に控え、角火鉢のおおきいのに、真鍮しんちゅう薬罐やかんから湯気を立たせたのを前に置き、すすけた棚の上に古ぼけた麦酒ビールの瓶
政談十二社 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
しばらく、手帖のその文面を見つめ、ふっと窓のほうに顔をそむけ、熟柿じゅくしのような醜い泣きべその顔になる。
犯人 (新字新仮名) / 太宰治(著)
庭に落ち残った熟柿じゅくしの二つ三ッつが梢のゆう日にうす紅く照らされているのを見るともなしに眺めていた。
小坂部姫 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
かには蟹自身の言によれば、握り飯とかきと交換した。が、猿は熟柿じゅくしを与えず、青柿あおがきばかり与えたのみか、蟹に傷害を加えるように、さんざんその柿を投げつけたと云う。
猿蟹合戦 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
してゆけば、結構熟柿じゅくし臭いいきになって三時間も飲みつづけていた酔漢のまねができますからなあ
祭の夜 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
爛酔という想像から、熟柿じゅくしのような息を吹き、同時に面ざしも酒ぶとりのした樽柿たるがきのような赤味を想い浮べてみると案外にも、これは蛍を欺かんばかりの蒼白さなのです。
大菩薩峠:40 山科の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
そのころ、与一は木綿もめんの掛蒲団一枚と熟柿じゅくしのような、蕎麦殻そばがらのはいった枕を一ツ持っていた。
清貧の書 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
カキズ 熟柿じゅくしかめの中に貯えて作る酢があって、広島県ではこれを柿酢と呼んでいる。
食料名彙 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
小八は落ちてきた熟柿じゅくしでも執るように女をじぶんの処へれて来た。小八は下谷長者町の裏長屋に住んでいる消火夫しごとしであった。女は背の高い眼の大きな何処かに男好きのする処があった。
立山の亡者宿 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
冬のきである。小春こはると云えば名前を聞いてさえ熟柿じゅくしのようないい心持になる。ことに今年ことしはいつになく暖かなので袷羽織あわせばおり綿入わたいれ一枚のちさえ軽々かろがろとした快い感じを添える。
趣味の遺伝 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
持主の頭文字イニシアルは初めから縫い付けてないらしく引き剥がした痕跡もない。外套、上衣とも襟の処には葉巻の芳香と、熟柿じゅくし臭い臭気とがみ込んでプンプンと匂っている。帯革は締めず。
暗黒公使 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
驚いて振り返ると、ふうと熟柿じゅくしくさい息が吹きかかり、やあ、衛生舎社長どの、いかがでござる、と云いながら一人の男が、ぶつかるように彼になだれかかった。衛生課長杉山氏であった。
糞尿譚 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
熟柿じゅくしを想わせる迄になって居り、そういう顔にある道具といえば、ペロリと下った太い眉、これもペロリと下ってはいるが、そうしてドロンと濁ってはいるが、油断なく四方へ視線を配る
剣侠 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
猿ははたと地に平伏ひれふして、熟柿じゅくし臭き息をき、「こは何処いずくの犬殿にて渡らせ給ふぞ。やつがれはこのあたりいやしき山猿にて候。今のたもふ黒衣とは、僕が無二の友ならねば、元より僕が事にも候はず」
こがね丸 (新字旧仮名) / 巌谷小波(著)
電灯のの下に熟柿じゅくしのように赤くなってこっちを向いて威丈高いたけだかになっていた。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
吃驚びっくりして文三がフッとかおを振揚げて見ると、手摺てずれて垢光あかびかりに光ッた洋服、しかも二三カ所手痍てきずを負うた奴を着た壮年の男が、余程酩酊めいていしていると見えて、鼻持のならぬ程の熟柿じゅくし臭いにおいをさせながら
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
顔は赤いし眼も赤いし、息は腐った熟柿じゅくしのような匂いがした。
季節のない街 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
熟柿じゅくしくさい息をして——。」
口笛を吹く武士 (新字新仮名) / 林不忘(著)
かれ烏啼天駆は、すっかり気を腐らせたと見え、髪も茫々ぼうぼう、髭も茫々、全身熟柿じゅくしの如くにして長椅子の上に寝そべって夜を徹して酒をあおっていた。
刃ものを見ると、彼の熟柿じゅくしのような顔も、一瞬に、さっと青ざめた。その筈である、どうやって斬ったものか、禿久の片腕が、ごろんと、下に落ちていた。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
横なでをしたように、妹の子は口も頬も——熟柿じゅくしと見えて、だらりと赤い。姉は大きなのを握っていた。
若菜のうち (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
何だか広い原にただ一人立って、はるかの向うから熟柿じゅくしのような色の暖かい太陽が、のっとのぼってくる心持ちがする。小供のうちはこんな感じがよくあった。今はなぜこう窮屈になったろう。
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
目白めじろかごに飼われると、熟柿じゅくしなどよりもかえっていもを好んで食う。
熟柿じゅくしの香がぷんと鼻をつく。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
駒鳥こまはね、丈の高い、籠ん中を下から上へ飛んで、すがって、ひょいとさかさに腹を見せて熟柿じゅくしおっこちるようにぼたりとおりて、をつついて、私をばかまいつけない
化鳥 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
どこから飛んできたものだろうか、熟柿じゅくしのすえたのが、顔のン中で、グシャッとつぶれた。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
頭は一番下にれ下っていますが、私の背よりもずっと高くて手がとどきません。兄の顔は、熟柿じゅくしのように真赤です。両手は自分の顔の前で、かにの足のように、開いたまま曲っています。
崩れる鬼影 (新字新仮名) / 海野十三(著)
発奮はずみをくらい、婆は尻餅をついて、熟柿じゅくしのごとくぐしゃりとなったが、むっくと起き、向をかえると人形町通のかたへ一文字に駆け出した、且つ走り、且つ声を絞って
三枚続 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
その頃、松吉は家の中で、まるで熟柿じゅくしのようにアルコール漬けになってはいたが、その本心はひどく当惑していた。その原因は、膳をへだてて、彼の前に座を占めている真々川化助ままかわばけすけに在った。
(新字新仮名) / 海野十三(著)
その張飛が、熟柿じゅくしのような顔をして、に乗って歩いていた。町中の者は、県の吏人やくにんなので、驢と行きちがうと、丁寧に礼をしたが、張飛は、驢の上から落ちそうな恰好して、居眠っていた。
三国志:02 桃園の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
咽喉のどに巻いたる古手拭ふるてぬぐいのばして、覆面す——さながら猿轡さるぐつわのごとくおのが口をばゆわう。この心は、美女に対して、熟柿じゅくし臭きをはばかるなり。人形の竹を高くひっかつぐ。山手の方へ)
山吹 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
がねごえでこう叫んだのを見ると、雲つくような大男が三人、大小ッこみ、侍すがた、へべれけにって熟柿じゅくしのようないきをはき、晃々こうこうたる大刀をぬきはらい、花や女子おなごの踊りにまじって
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
突然大音声があがったと思う途端とたん、寝台の陰からとび出して来た一個の人物! それは誰であったろうか? 警察の豚箱に監禁せられて熟柿じゅくしのような息をふいているとばかり思っていた青年探偵
蠅男 (新字新仮名) / 海野十三(著)
塩辛いきれの熟柿じゅくしの口で、「なむ、御先祖でえでえ」と茶の間で仏壇を拝むが日課だ。
開扉一妖帖 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
要こそあれ滅多あたりこぶしを廻して、砂煙のうずまくばかり、くるくる舞して働きながら、背後うしろから割って出て、柳屋の店頭みせさき突立つったった、蚰蜒眉げじげじまゆの、猿眼さるまなこの、ひょうの額の、熟柿じゅくし呼吸いきの、蛇の舌の
三枚続 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
この羽織が、黒塗の華頭窓にかかっていて、その窓際の机に向って、お米はほっそりと坐っていた。冬の日は釣瓶つるべおとしというより、こずえ熟柿じゅくしつぶてに打って、もう暮れて、客殿の広い畳が皆暗い。
縷紅新草 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)