夕靄ゆうもや)” の例文
暮方近い夕靄ゆうもやの立ちこめる道の上を年老いた郵便配達夫のパイプをくわえながら歩いて行くのが、いかにも呑気に見られたものでした。
亜米利加の思出 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
その日湯河原を発って熱海についたころには、熱海のまちは夕靄ゆうもやにつつまれ、家家の灯は、ぼっと、ともって、心もとなく思われた。
秋風記 (新字新仮名) / 太宰治(著)
もう、何と云いますか、あたりは夕靄ゆうもやに大変かすんで、花が風情ふぜいありに散り乱れている。……云うに云われぬ華やかな夕方でした。
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
黄昏たそがれ——その、ほのぼのとした夕靄ゆうもやが、地肌からわきのぼって来る時間になると、私は何かしら凝乎じっとしてはいられなくなるのであった。
腐った蜉蝣 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
そこからは、アカシアの植わった小さな広場の一ぐうが見え、なお向うには夕靄ゆうもやに浸った野が見えていた。ライン河は丘のふもとを流れていた。
夕靄ゆうもやの白く立ちこめたまちの上を、わけもなく初夏の夕を愛する若いハイカラ男やハイカラ女が雑踏にまじってあちらこちらへ歩るいている。
六月 (新字新仮名) / 相馬泰三(著)
「はい」「はい」海軍機は、すでに、魔の海——大渦巻の上空を去って、夕靄ゆうもやの深くとざした大海原おおうなばらを、西方指して飛んでいる。
怪奇人造島 (新字新仮名) / 寺島柾史(著)
すなわち、水域に游弋ゆうよくすること三日……その三日目も空しくまさに暮れなんとして、模糊たる夕靄ゆうもやの海上一面をおおわんとしている頃であった。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
日本の晩秋に立ちこめる夕靄ゆうもやに似て、街々をうすくおおう霧にきがついたとき、もうその霧は刻々に濃くなって、商店の光もボーッとくもり
道標 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
……此処で、姉の方が、隻手かたて床几しょうぎについて、少し反身そりみに、浴衣腰を長くのんびりと掛けて、ほんのり夕靄ゆうもやを視めている。
甲乙 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
筒井はたえかねて自ら裏戸に走り出て見たが、夕はもはや夜をいで道のべ裏戸近くに人かげはなく、暖かい夜の夕靄ゆうもやさえそぞろに下りていた。
津の国人 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
夕靄ゆうもやのおりる頃、彼はおりていって、大通りを注意深くあちこち見回した。だれも見えなかった。街路には全く人影が絶えてるように思われた。
そのがけ下の民家からは炊煙が夕靄ゆうもやと一緒になって海のほうにたなびいていた。波打ちぎわの砂はいいほどに湿って葉子の吾妻下駄あづまげたの歯を吸った。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
夕靄ゆうもやの奥で人の騒ぐ声が聞こえ、物打つ音が聞こえる。里も若葉もすべてがぼんやり色をぼかし、冷ややかな湖面は寂寞せきばくとして夜を待つさまである。
春の潮 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
小諸の町つづきと、かなたの山々の間にある谷には、白い夕靄ゆうもやが立ちめた。向うの岡の道を帰って行く農夫も見えた。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
白い夕靄ゆうもやがうすくぼんやりと降りて、彼方かなたの黒ずんだ杉林に、紅く夕日が落ちた時分であった。村の子供等は、いつものように古い屋敷跡に集った。
過ぎた春の記憶 (新字新仮名) / 小川未明(著)
明るくなって来る気がするが——それへ薄っすらと夕靄ゆうもやがかかって、眼をこすってもこすっても、睫毛まつげの先に、虹みたいな光がさえぎってならなかった。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
が、駕籠の側に付いていた若い男が、何やら駕籠屋に耳打ちをすると、そのまま駕籠をあげて銀鼠色ぎんねずいろ夕靄ゆうもやに包まれた暮の街を、ヒタヒタと急ぎます。
道子が堤防の上に立ったときは、輝いていた西の空は白く濁って、西の川上から川霧と一緒に夕靄ゆうもやが迫って来た。
快走 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
こんな自分勝手の理屈を考えながら、佐山君は川柳の根方ねかたに腰をおろして、鼠色の夕靄ゆうもやがだんだんに浮き出してくる川しもの方をゆっくりと眺めていた。
火薬庫 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
しき因縁いんねんまとわれた二人の師弟は夕靄ゆうもやの底に大ビルディングが数知れず屹立きつりつする東洋一の工業都市を見下しながら、永久にここにねむっているのである。
春琴抄 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
外へ出ると、そこらの庭の木立ちに、夕靄ゆうもやかかっていた。お作は新坂をトボトボと小石川の方へ降りて行った。
新世帯 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
三日月の光で、あるいは闇夜の星の光で、あるいは暁の空の輝きで、朝霧のうちに、夕靄ゆうもやのうちに、黒闇のうちに、自由にこの堂を鑑賞することができる。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
最早はっきりとは文字の見えぬ本をひざにのせて、先刻さっきから音もなく降って居たほそい雨の其まゝけたあお夕靄ゆうもやを眺めて居ると、忽ち向うの蒼い杉の森から
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
(やがて、このあたりも……)夕靄ゆうもやのなかに炎の幻が見えるようだった。それから銀座四丁目の方へ引返して行くと、魔の影は人波と夕靄のなかに揺れていた。
死のなかの風景 (新字新仮名) / 原民喜(著)
夕靄ゆうもやがおりるころになって、一行はたいへんな元気で帰って来た。スロープのずっと下からキャッキャッと笑う声がきこえ、みな、なにかひどくはしゃいでいた。
日が暮かかってきた、荒地には鼠色の夕靄ゆうもやい、沼地にはけたたましく河鵜かわうの飛立つのが見える。
蛮人 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
その煙が夕靄ゆうもやと溶け合って峰や谷をうずめ終る頃に、千光山金剛法院の暮の鐘が鳴りました。
大菩薩峠:18 安房の国の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
蒸し暑い、蚊の多い、そしてどことなく魚臭い夕靄ゆうもやの上を眠いような月が照らしていた。
田園雑感 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
今しもくわをかついて帰りかけた若い夫が鍬を肩からろして、その上に手をのせて、静かにジット首をうなだれています。画の正面は一つの地平線、もう夕靄ゆうもやがせまっています。
般若心経講義 (新字新仮名) / 高神覚昇(著)
待乳山まつちやまから、河向うの隅田の木立ちへかけて、米のぎ汁のような夕靄ゆうもやが流れている。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
と親馬もまた立ち止って長く嘶き互に嘶き合って一つ一つ夕靄ゆうもやの中に消えて行く。
木曽御嶽の両面 (新字新仮名) / 吉江喬松(著)
ここにもまた沈丁花は夕靄ゆうもやのようにただよっていた。その生垣にそって歩きながら、ミネは涙をおさめた。そして帰るなり悠吉の部屋にゆき、かかとを立てて火鉢のそばに膝をついた。
妻の座 (新字新仮名) / 壺井栄(著)
肘掛窓ひじかけまどの外の高野槙こうやまきの植えてある所に打水をして、煙草をみながら、上野の山でからすが騒ぎ出して、中島の弁天の森や、はすの花の咲いた池の上に、次第に夕靄ゆうもやが漂って来るのを見ていた。
(新字新仮名) / 森鴎外(著)
夕靄ゆうもやうちに暮れて行く外濠そとぼりの景色を見尽して、内幸町うちさいわいちょうから別の電車に乗換えたのちも絶えず窓の外に眼を注いでいた。
霊廟 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
天涯に衝立ついたてめいた医王山いおうせんいただき背負しょい、さっ一幅ひとはば、障子を立てた白い夕靄ゆうもやから半身をあらわして、にしきの帯はたしかに見た。
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
これも牛乳のような色の寒い夕靄ゆうもやに包まれた雷電峠の突角がいかつく大きく見えだすと、防波堤の突先とっさきにある灯台のが明滅して船路を照らし始める。
生まれいずる悩み (新字新仮名) / 有島武郎(著)
車をヴェステルガーデから皇帝街コングスガーデの方へと走らせていると、夕靄ゆうもやの中にまたたき出した市街の灯と同時に、いつかのビョルゲ邸の事件が、まざまざとよみがえってきた。
グリュックスブルグ王室異聞 (新字新仮名) / 橘外男(著)
夕靄ゆうもやのおりるのを待ってパン屋へ行き、一片のパンをあがなって、あたかも盗みでもしたようにそれをひそかに自分の屋根部屋へ持ち帰ることもあった。
九月十三夜の赤銅色の月が、州崎十万坪あたりの起伏の上に、夕靄ゆうもやを破ってぬッと出る風情は、まことに江戸も深川でなければみられない面白い景色でした。
と云って戸外へ出ると、いつの間にか街は青い夕靄ゆうもやめられて、河岸通かしどおりにはちら/\灯がともって居る。
少年 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
石垣の乾きにもう初冬の色を見せている堀川は黒い水の上にうそ寒い夕靄ゆうもやを立てゝいます。河岸かしにぎやかなあきない店の中に混って釣船宿が二軒、ひなびて居ります。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
月の光はこんもりとした木立の間から射し入って、林に満ちた夕靄ゆうもやけぶるようであった。細長い幹と幹との並び立つさまは、この夕靄の灰色な中にも見えた。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
黄昏たそがれちかき野山は夕靄ゆうもやにかくれて次第にほのくらく蒼黒く、何処いずくよりとも知れぬかわずの声断続きれぎれに聞えて、さびしき墓地の春のゆうぐれ、いとど静に寂しく暮れてゆく。
父の墓 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
見ると、彼方から女の影が夕靄ゆうもやにつつまれてくる。女は、羅衣うすもの被衣かつぎをかぶり、螺鈿鞍らでんぐらを置いた駒へ横乗りにって、手綱を、鞍のあたりへただ寄せあつめていた。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
日が暮れかかっていた、釜梨川の方から夕靄ゆうもやが立ち始めて、駒ヶ岳の峰だけがくっきりと斜陽を受けている——半太郎は額の汗を拭きながら黙って畷手道なわてみちにかかった。
無頼は討たず (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
夕靄ゆうもやにつつまれた、眼前の狩野川は満々と水をたたえ、岸の青葉をめてゆるゆると流れて居ました。
老ハイデルベルヒ (新字新仮名) / 太宰治(著)
そこらあたりは畑と森と林が夕靄ゆうもやに包まれて、その間に宿はずれの家の屋根だけが見え隠れして、二人の立っているところには、「袖切坂」という石の道標に朱を差したのが
大菩薩峠:14 お銀様の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
それから、また五日ほどたった夕方、遅くまで二人が帰って来ないので、河原まで迎いにゆくと、二人は鉱坑のそばの石に腰をかけて、白い夕靄ゆうもやのなかでこんな会話をしていた。
キャラコさん:04 女の手 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
その丘の雑木林の裾をめぐる長い道は東長崎の方へまでつづいているのだそうです。夕靄ゆうもやがこめている。その方をしばらく眺めました。その野原の端を道路に沿って小川が流れていた。