馥郁ふくいく)” の例文
神田お臺所町だいどころまち、これから親分の錢形平次の家へ朝詣りに行かうといふところで、八五郎は馥郁ふくいくたる年増に抱きつかれてしまひました。
銭形平次捕物控:311 鬼女 (旧字旧仮名) / 野村胡堂(著)
馥郁ふくいくとして沈香入りの練り炭が小笠原流おがさわらりゅうにほどよくいけられ、今は、ただもうそのお来客と城主伊豆守のご入来を待つばかりでした。
この部屋も、あの広間と同じように、窓という窓が一ぱい開け放してあって、ポプラや紫丁香花はしどいや薔薇の匂いが馥郁ふくいくと香っていた。
接吻 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
おのずから馥郁ふくいくたるものでありたいと思います、詩情というものが、人間の深い理性の響から輝きかえって来るものであること
それには何ともいえない明るいこぼるるばかりの色気というか、愛嬌というか、触らば落ちん風情が馥郁ふくいくと滲み溢れてきていた。
小説 円朝 (新字新仮名) / 正岡容(著)
日向ひなたの土の窪んだところに、雞が寝て砂を浴びている。あたりにある梅が馥郁ふくいくたる香を放っている、というようなところらしい。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
また菊の香という名詞の下には「の馥郁ふくいくたるがごとく」という文字とか、また温雅なる色彩とか、蒼古そうこな感じとかいうような
俳句の作りよう (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
マリヤ物言わず、イエスも無言、ナルドの香油はイエスのひげに流れ、衣の裾にまでしたたり、芳香馥郁ふくいくとしてへやに満ちました。
そして落雷の異臭では決してない、いや、馥郁ふくいくといってもよい香気が自分に近づいている思いだった。まぎれなくそれは人の気配にちがいなく
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
美しく馥郁ふくいくときらびやかに、黄の刺繍をした青い羅紗服で、赤褐の髪にパリ出来の帽を頂いて入って来た。そしてティツィアン式の眼で微笑した。
気がついたのは——此際このさい呑気のんきな話であるが——なにかしら、馥郁ふくいくたるにおいとでもいいたいかおりの辺にすることだった。
西湖の屍人 (新字新仮名) / 海野十三(著)
でも、それにレモンのしずくを絞って垂らしてやりますと、その脂は切れて、口へすくい込むなり馥郁ふくいくとした一片の脆い滋味となって舌の上でほぐれます。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
お銀様は月に乗じて、この平野の間を限りなく歩み歩んで行くと、野原の中に、一幹ひともとの花の木があって、白い花をつけて馥郁ふくいくたる香りを放っている。
大菩薩峠:36 新月の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
う習慣になってくると今度はその吸飲量を増さなければ満足しなくなる、馥郁ふくいくたる幻を追うことが出来なくなる。
息を止める男 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
馥郁ふくいくとした芳香が、部屋をふっくりと包んでいるのも、花瓶に生けられた花のためではなく、何か化学的の香料が、どこかに置かれてあるからであろう。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
深窓の美姫びき紅閨こうけい艶姐えんそ綾羅錦繍りょうらきんしゅうたもとを揃えて、一種異様の勧工場、六六館の婦人慈善会は冬枯に時ならぬ梅桜桃李ばいおうとうりの花を咲かせて、暗香あんこう堂に馥郁ふくいくたり。
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
紅葉の『色懺悔』は万朶ばんだの花が一時に咲匂うて馥郁ふくいくたる花の香に息のつまるような感があったが、露伴の『風流仏』は千里漠々ばくばくたる広野に彷徨して黄昏たそがれる時
夫人の身体全体から出る、馥郁ふくいくたる女性の香が、彼の感覚をただらし、彼の魂を溶かしたとってもよかった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
柳さくらをこきまぜて、都は花のやよい空、錦繍きんしゅうき、らんまん馥郁ふくいくとして莽蒼ぼうそう四野も香国こうこく芳塘ほうとうならずというところなし。燕子えんし風にひるがえり蜂蝶ほうちょう花にねんす。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
ルイザはナポレオンに引きられてよろめいた。二人の争いは、トルコの香料のにおいを馥郁ふくいくき散らしながら、寝台の方へ近づいて行った。緞帳がめられた。
ナポレオンと田虫 (新字新仮名) / 横光利一(著)
自然は我らに無償にて百花を爛漫らんまんたらしめ、芳香を馥郁ふくいくたらしむることを思わば、枝葉を折り採る事の出来得べきはずなし、万物の霊長たる資格を標示すべきである。
尾瀬沼の四季 (新字新仮名) / 平野長蔵(著)
われわれはいち外濠そとぼりの埋立工事を見て、いかにするとも将来の新美観を予測することの出来ない限り、愛惜あいせきじょうは自ら人をしてこの堀に藕花ぐうか馥郁ふくいくとした昔を思わしめる。
その官能は馥郁ふくいくたる熱国の香料と滑らかな玉の肌ざわりと釣り合いよき物の形とに慣れている。いかに慈悲のためとはいっても癩病人の肌に唇をつけることは堪えられない。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
やがて彼が馥郁ふくいくとかおる麦畑に通りかかり、蜂蜜はちみつの香を吸いこみながら見わたすと、うっとりするような期待が彼の心に忍びこんで、うまいホットケーキにバタをたっぷりつけ
富島さんの家へ行くと、きちんとした日本趣味に彩られた馥郁ふくいくと匂うてくる或高雅なものがあつた。栄一は富島さんに於て、初めて日本婦人の尊敬すべきものであることを知つた。
もしそれ山花野艸やそうに至りてはこれに異なり、その香馥郁ふくいくとしてその色蓊鬱おううつたり。隻弁単葉といへども皆ことごとく霊活ならざるなし。自由の人におけるその貴ぶべきことけだしかくの如し。
もいわれぬ馥郁ふくいくたる匂いが、水脈みおをひいてほんのりと座敷の中へ流れこんで来る。
顎十郎捕物帳:16 菊香水 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
とある宏壮なる邸の奥深くへとかつぎ入れられたのであったが、常春藤きづたの絡み付いた穹窿アーチ形の門、そして橄欖や糸杉のそびえた並樹、芳香馥郁ふくいくとして万花繚乱たる花園の中を通り抜けて
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
人を逸らさず、倦ましめず、談笑の間馥郁ふくいくとして梅花の匂うが如き雰囲気裡に、人をしてとこしなえに春園に遊ぶの思いあらしめる、……大袈裟なことを云うなどと笑ってはいけない。
メフィスト (新字新仮名) / 小山清(著)
白玉にもたとへたい自分の置場を、他の傷つき易い所に置きたくないからで馥郁ふくいくたる香を湛へて名利の外にある恋だけはよく自分を安らかならしめるであらうとかう定めて居ると云ふ意。
註釈与謝野寛全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
殊に梅の花は百花にさきがけてらきいわゆる氷肌の語があり、枝幹は玉骨と書かれて超俗な姿態をあらわします。時には「暗香浮動ス月黄昏」と吟ぜられてその清香の馥郁ふくいくを称えられます。
植物記 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
彼は改めてそれを手に取り、上げて見たり、下げて見たり、廻して見たり、中の重みを測って見たりしていたが、やがて恐る/\蓋をけると、丁子ちょうじの香に似た馥郁ふくいくたる匂が鼻をった。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
舌頭ぜっとうへぽたりとせて、清いものが四方へ散れば咽喉のどくだるべき液はほとんどない。ただ馥郁ふくいくたるにおいが食道から胃のなかへみ渡るのみである。歯を用いるはいやしい。水はあまりに軽い。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
得も云えぬ香気が馥郁ふくいくと立ち上った、是は宝と共に何か高貴な香料を詰めて有るのであろう、後世此の箱を開く我が子孫に厭な想いをさせまいと云う先祖の行き届いた注意らしく思われる
幽霊塔 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
今日は嬢の手料理にかんよりもむしろ嬢の温情に飽かん。未来の我が妻、外に得難き良夫人と心はあだかも春風しゅんぷうに包まれたるごとし。春風は庭にも来にけん、梅花のかおり馥郁ふくいくとしてしつる。
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
あなたの、菊の花の絵は、いよいよ心境が澄み、高潔な愛情が馥郁ふくいくにおっているとか、お客様たちから、おうわさを承りました。どうして、そういう事になるのでしょう。私は、不思議でたまりません。
きりぎりす (新字新仮名) / 太宰治(著)
彼女はあかつきのように愛らしく、夕暮れのように美しかったが、非常に他人と異っているのは、その息がペルシャの薔薇の花園よりもなおかぐわしい、一種の馥郁ふくいくたる香気を帯びていることであった。
汝の尿が水力機を動かすほどの川となり汝の糞が馥郁ふくいくと芳香を発する時節が来たら汝始めて休み得べしと言った。爾来驢つねに他の驢の尿した上へ自分の尿を垂れ加え糞するごとに必ずこれをぐと。
ああ、彼女の床には菖蒲しょうぶの香りが馥郁ふくいくと漂っていたのでありますが——。しかし、わたくしは棺を開けました。そして、火をともした提燈をそのなかにさし入れたのです。わたくしは彼女を見ました。
(新字新仮名) / ギ・ド・モーパッサン(著)
宮のお移り香は実際馥郁ふくいくたるものだね。後宮の方たちだってああも巧妙にきしめることはできないらしいがね。源中納言のはそうした人工的の香ではなくて、自身の持っている芳香が高いのですよ。
源氏物語:45 紅梅 (新字新仮名) / 紫式部(著)
馥郁ふくいくと香をくというおさまりかたなので
郷土は峡谷に馥郁ふくいくたる香の花を秘めて
天の海 (新字新仮名) / 今野大力(著)
それは宗祖紫琴女といふよりは、名ある華魁おいらんのポーズです。體温にぬくめられて、馥郁ふくいくとして匂ふのは南蠻の媚藥でもあるでせうか。
そう書かれていることが既に私にとっては、香馥郁ふくいくたる悦びの花束なのだけれど。こういうおくりものに対しては私は寡慾ではいられないわ。
三次が眼をみはると後の四人も、加留多カルタ紛紜ふんぬんを忘れて、しばらくはこの一りん馥郁ふくいくさに疲れた瞳を吸われている。
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いや、死んでお墓へ入ってのちもなおかつパサパサになった俺のお骨の中では、あのお艶ちゃんという百合の花香が、馥郁ふくいくと匂いを放っていることだろう
寄席 (新字新仮名) / 正岡容(著)
花のかおり馥郁ふくいくとして、金坊きんぼう清々せいせいして、はツと我に返つた。あゝ、姉が居なければ、少くともわずらつたらう。
蠅を憎む記 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
枯木のこずえに清香馥郁ふくいくたる白い花をつける、せて気高い聖賢に接するような様を見ると、つまらぬことに腹をたてたのが恥ずかしくなる、というのであります。
俳句とはどんなものか (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
わたしの待つた消滅の薫りが馥郁ふくいくとしてわたしの骨に匂ひ出した。わたしは生涯働かなかつたといふことを思ひ出に漂ふ空無リヤンの海に紫の海月くらげとなつて泳ぎ出るのだ。
(新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
私の周囲には四季の花が馥郁ふくいくと匂う日が続くかと思うと、真夜しんやに誰もいないホテルをうろつくこと
歪んだ夢 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)