にお)” の例文
彼等はその何処からでも、陸にある「自家うち」の匂いをかぎ取ろうとした。乳臭い子供の匂いや、妻のムッとくる膚のにおいを探がした。
蟹工船 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
「名産だって東京にもそんなのは有りそうだぜ」と主人は一番大きな奴を一本取り上げて、鼻の先へ持って行ってにおいをかいで見る。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「ははアん。じゃアいま先へ行った輿轎かごは、やはりここの奉行だったのかい。……どうもそんなにおいがと、思ってけて来たんだが」
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
壁には油絵や、金縁の写真などが懸けられ、床には家具やピヤノが置いてあって、暖炉棚の下からは、燃えかすすすにおいがぷんと来た。
空家 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
「僕はそう思わない。こんなふうの国民なら、長くはつづくまい。もう腐ったにおいがしてるから。まだ他に何かあるに違いない。」
時々板前をやると見えて、どこかなまぐさにおいのするのも胸につかえるようであった。お庄は明け方までおちおち眠ることが出来なかった。
足迹 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
どうも朝は、過ぎ去ったこと、もうせんの人たちの事が、いやに身近に、おタクワンのにおいのように味気なく思い出されて、かなわない。
女生徒 (新字新仮名) / 太宰治(著)
やはり散らばっている型紙、あい変らずの虫よけ粉のにおい、すみっこの欠けた例の肖像画。とはいえ変化は、やはりあったのだ。
嫁入り支度 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
糸蝋燭の光がとどくところだけはぼんやりと明るいが、それもせいぜい二三げん。前もうしろもまっ暗闇。埃くさいにおいがムッと鼻を衝く。
顎十郎捕物帳:24 蠑螈 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
室内の空気のにおいが、すっかりちがってきた、薬品くさい。もちろん、それは濾過層ろかそうを一杯にうずめている薬品の臭いであった。
地球要塞 (新字新仮名) / 海野十三(著)
警視庁のスパイには往々意外の人があるという話から大杉もまたスパイであったようににおわした或人の談話が某紙に載っておる。
最後の大杉 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
よく二人の仲が無事であった時分に私が手伝って西洋料理をこしらえて食べた時のパン粉やヘットのにおいがして、戸棚の中にこぼれている。
うつり香 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
でも、こうして見ていると、まるで赤ん坊みてえに思えるだろう。だがおめえは火薬のにおいを嗅いだことがあるんだ、——そうだろ、船長?
「うしろから、パッと、鼻と口をおさえられた。おそろしくいやなにおいがしたと思うと、それっきり、なにもわからなくなってしまった。」
サーカスの怪人 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
と、ふとんもつくえも、よろいびつまでもここへもちこんできて、馬糞ばふんにおいのプンプンする中に、平気で毎日毎日寝起ねおきしていた。
三両清兵衛と名馬朝月 (新字新仮名) / 安藤盛(著)
しずくを切ると、雫までぷんにおう。たとえば貴重なる香水のかおりの一滴の散るように、洗えば洗うほど流せば流すほど香が広がる。
伯爵の釵 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
車「わしだって元は百姓でがんすから、こいくさいのは知って居りやんすが、此処こゝは沼ばかりで田畑でんぱたはねえから肥のにおいはねえのだが、ひどく臭う」
わたくしも驚いて門の外まで出て見ますと、狭い横町の入口には大勢の人が集まって騒いでおりまして、石炭酸のにおいが眼にしみるようです。
青蛙堂鬼談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
わたしは、わかい牝牛めうし腎臓脂肪じんぞうしぼうへチーズを交ぜ、それを陶器皿とうきざらに入れてとろ火でた。金物かなものにおいをけるために、中のほねを小刀がわりに使った。
間もなく眼の前に屹立きったっている長崎随一の支那貿易商、福昌号ふくしょうごうの裏口に在る地下室の小窓からにおって来ることがわかった。
名娼満月 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
殆ど空無であるその心理状態をいていえば、ただ「暗い」という一言で足りよう。目に見えぬものにもにおいはあろう。
看守かんしゅさえ今日きょうは歩いていない。その中にただ薄ら寒い防虫剤ぼうちゅうざいにおいばかりただよっている。中村は室内を見渡したのち、深呼吸をするように体を伸ばした。
早春 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
気のせいか、この路地には、トロ(精液)のにおいとそれから消毒液の臭いが、むーんと立ちこめているみたいだった。
いやな感じ (新字新仮名) / 高見順(著)
そこには、獣油や、南京袋のにおいのような毛唐の体臭が残っていた。栗本は、強く、ドアを突きのけて這入って行った。
パルチザン・ウォルコフ (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
重そうに立ち昇って来るその煙は、いやな、硫黄臭い、息のつまりそうなにおいがして、ペガッサスは鼻を鳴らし、ビレラフォンはくさめをしました。
うまやにおいや牛乳の臭いや、枯れ草の臭い、及び汗の臭いが相和あいかして、百姓に特有な半人半畜の臭気を放っている。
糸くず (新字新仮名) / ギ・ド・モーパッサン(著)
僕は変に不愉快な悪寒さむけがしたので、これは空気がしめっているせいであろうと思った。諸君は海水で湿しけている船室キャビンの一種特別なにおいを知っているであろう。
邪魔の入ったのを気取けどって女はそこに隠れていたのだ。嗅ぎ慣れた女のにおいが鼻を襲ったと仁右衛門は思った。
カインの末裔 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
但しその新しき輸入当初に於ては、さすがなお西洋バタのにおいが強く、原物そのままの直訳的のものであった。
詩の原理 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
土のにおいのする洞窟の、薄暗い灯の下で、皆不機嫌の眼を光らせて、暗号を引いていた。ときどき電信室の方から、取次が眠そうな眼をして電報を持って来た。
桜島 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
振返ふりかえると熱柿じゅくしみたいなにおいをぷんぷんさせたN子です。「聞いたわよ、坂本さん、船のなかで女のひととすごかったんですッてねエ」「ああ」とぼくは素直です。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
頭のなかには奇妙なナオミの幻ばかりが浮かんで来て、それが時々おくびのように胸をむかつかせ、彼女のにおいや、汗や、あぶらが、始終むうッと鼻についている。
痴人の愛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
それと同時に房内の一隅いちぐう排泄物はいせつぶつ醗酵はっこうしきって、えたような汗のにおいにまじり合ってムッとした悪臭を放つ時など、太田は時折封筒を張る作業の手をとどめ
(新字新仮名) / 島木健作(著)
私は、見当もつかない夜更よふけの町へ出た。波と風の音がして、町中、なまぐさにおいが流れていた。小満しょうまんの季節らしく、三味線しゃみせんの音のようなものが遠くから聞えて来る。
風琴と魚の町 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
泣くのとも笑うのとも分からぬ声を振立ててわめく女の影法師が障子しょうじに映っている。外は夕闇がこめて、煙のにおいとも土の臭いともわかちがたき香りがよどんでいる。
武蔵野 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
気持のわるい黄色のにおう液体がこぼれてきて、それを避けようとしてねずみが一匹近くのみぞへ逃げこんだ。
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
異臭鼻をつ これはチベットのどこの寺に行ってもこういうにおいがするので、とても日本人が始めて入った時分には鼻持ちのならぬ臭いであろうと思われたです。
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
はちは石炭せきたんにおいをかいだり、またちいさなくちでなめてみたり、どこからきたかを自分じぶんちいさな感覚かんかくろうとしました。しかし、それはわかるはずがなかったのです。
雪くる前の高原の話 (新字新仮名) / 小川未明(著)
葡萄酒ぶどうしゅ一壜ひとびんきりで、それもあやしげな、くびのところがふくれ返ったどす黒い代物しろもので、中身はプーンと桃色ももいろのペンキのにおいがした。もっとも、誰一人それは飲まなかった。
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
そのにおいが、彼より先ににおって来る。彼の姿はまだ見えないのに、臭いはとっくに来ている。
博物誌 (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
野菜の「すえ」たにおいと、屋根の梁の鶏の巣から来る臭いが入りまじって気味悪く鼻をつく。
農村 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
それはまあいいとして、この有尾人からは、山羊やぎくさいといわれる黒人のにおいの、おそらく数倍かと思われるようなたまらない体臭が、むんむん湿熱にむれて発散されてくる。
人外魔境:01 有尾人 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
その夜、ねむろうとすると、鼻腔びこうにもののにおいがまだしつこく残っているのを彼は感じたが、たしかそれは今日の昼間、小使室で弁当を食べた時いだものにほかならなかった。
冬日記 (新字新仮名) / 原民喜(著)
いつも髪の毛を洗ったあとのような、いやなにおいをさせていた。しかしいかにも気立てのやさしい、つつましそうな様子をしていた。そして一日中、英吉利語を勉強していた。
麦藁帽子 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
「もし、皆様、火薬のにおいが致しまする、このお部屋の中に烟硝えんしょうの臭いが致しまする」
大菩薩峠:20 禹門三級の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「いや野ら番ばかりァ酒が無えじゃやりきれねえナ。あのにおいがな」と誰やらが云う。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
においの跡づけが失われた。わたしは犬どもがピーターバラ・ヒルのうしろで吠えているのが、グリーン・マウンテンズの西の斜面であえあえぎのぼっているのが、聞こえるような気がする。
期待した血なまぐさいにおひなんか、これつぱかしも残つてはゐませんでした。
死児変相 (新字旧仮名) / 神西清(著)
私は、その白い乳くさいにおいのする肌をさわって、感傷的にさえなった。
灰色の記憶 (新字新仮名) / 久坂葉子(著)
元来やせてはいるし、顔色は青白いし、冷たいし、こわばってるし、変なにおいがするし、死んだところで大した変わりはないだろう。そこで僕はこう言ってやろう。——なんじ地を裁く者よ思い知れ。