かかと)” の例文
いつもは見識みしらない場所へ来るとまっさきに立って駈け出すにもかかわらず、今夜はわたしの靴のかかとにこすりついて来るのであった。
背後うしろから、跫音あしおとを立てずしずかに来て、早や一方は窪地の蘆の、片路かたみちの山の根を摺違すれちがい、慎ましやかに前へ通る、すりきれ草履にかかとの霜。
小春の狐 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
二人はそのままいっしょに下宿へ帰った。上靴スリッパーかかとを鳴らして階段はしごだんを二つのぼり切った時、敬太郎は自分の部屋の障子を手早く開けて
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
一塊の土の乾いた頂をかかとでふみつぶして、その下の方に掘られてる谷間を埋める時には、一日を無駄むだには暮さなかったのだと考えた。
結局、犯人は霙の降りやんだ二時頃にはすでに堂内にいて、兇行を終えてから、地上にかかとを触れずのがれ去ったと観察するほかにない。
聖アレキセイ寺院の惨劇 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
うるしのような引き眉に毒々しい頬紅口紅をつけ、青地か紫色の綿紗に黒手袋、白絹模様入りの靴下に白鞣しろなめしの靴のかかとを思い切り高くして
東京人の堕落時代 (新字新仮名) / 夢野久作杉山萠円(著)
かかとをつけて爪先つまさきだけ開き、ぴったりそろえた両脚を前へ突き出しながら、黙って身動きもせずに、しゃんと椅子の上にすわっていた。
穴の外に火をいて置くと、たけ六尺ほどで髪の長さはかかとを隠すばかりなる女が沢蟹さわがにを捕へて此火にあぶつて食ひ、又両人を見て笑った
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
両前を合せて赤い腰紐をぎゆうつとしめながら、一二歩歩いてみて少し短いのを、かかとで後のすそを踏へてのばしながらにつこりした。
散歩 (新字旧仮名) / 水野仙子(著)
「大きな草鞋を突っかけて仕事をしたに違いない。足跡は大きいが、爪先とかかとが反って柔かい土へ舟形にめりこんでいるでしょう」
幾年となく散りつもった木の葉はそのまま土になってやわらかに爪先をうずめ、かかとは餌をねらう獣のそれのようにすこしの音もたてない。
島守 (新字新仮名) / 中勘助(著)
希臘の英雄アキレスはかかとだけ不死身ではなかつたさうである。——即ちアキレスを知る為にはアキレスの踵を知らなければならぬ。
侏儒の言葉 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
白いかかとにからむ部屋着の裾にも雪の日の寒さは沁みて、去年の暮れに入れ替えたばかりの新しい畳は、馴れた素足にも冷たかった。
箕輪心中 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
腕でなぐり、かかとで叩き、泡を立てる。そして、流れのまん中で、猛烈果敢もうれつかかんに、騒ぎ狂う波の群れを、岸めがけて追い散らすのである。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
と復一は呟きながら念のためプールの方へ赤土路をよろめく跣足はだしかかとに寝まきのすそを貼り付かせ、少しだらだらと踏み下ろして行った。
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
だが、その槍の穂がくるより早く、弦之丞は刀のつかをつかんだまま、かかとを蹴って左へ跳び、同時に鍔鳴つばなりさせて一刀を抜き払った。
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
岩から沁み出る清水の冷たさも加わって、かかとがいちばんさきにしびれるのが常であった。そこへは、川師仲間でも誰も潜ってゆかなかった。
(新字新仮名) / 室生犀星(著)
浴衣を貸してくれる、珍しくも裾はかかとまである、人並より背の高い私は、貸浴衣のたけは膝までにきまったものと、今まで思っていたのだ。
白峰の麓 (新字新仮名) / 大下藤次郎(著)
キャラコさんは、老人にも馬にも見えないように、後手で人参の束を地面へずりおとすと、靴のかかとでそっとどぶの中へ押し落としてやった。
キャラコさん:10 馬と老人 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
黒衣婦人の靴のかかとが調子をつけて床を蹴る。まさかありふれたモールス信号ではあるまい。だが、何かの信号には違いなかった。
黒蜥蜴 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
寝間着の上に大島の羽織をまとって、メリヤスのパッチの端を無恰好ぶかっこうに素足のかかとまで引っ張っている高夏は、庭先へ椅子を持ち出していた。
蓼喰う虫 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
ドサ貫はかかとで敷石を蹴って「もしほんとだったら、——これからでも万一あんたがミーちゃんを誘惑するようなことをしたら、僕は……」
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
所々げた蝋鞘ろざやの大小を見栄もなくグッタリと落とし差しにして、長く曳いた裾でかかとを隠し泳ぐようにスースーと歩いて来る。
日置流系図 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「こわいわねえ」と、お花は自分の足の指が、先きに立って歩いているお松のかかとに障るように、食っ附いて歩きながら云った。
心中 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
僕のなかできこえる僕の雑音……。ライターがこわれてしまった。石鹸せっけんがない。靴のかかとがとれた。時計が狂った。書物が欲しい。
鎮魂歌 (新字新仮名) / 原民喜(著)
しかし、まもなく宇乃が出て来たとき、彼はかかとが地につかぬほどふるえだし、殆んど恐怖におそわれたような眼つきになった。
恐怖のために彼女は、両ひじを腰につけ、かかと裾着すそぎの下に引っ込ませ、できるだけ小さくちぢこまり、ようやく生きるだけの息をついていた。
空はリキュール酒のようなあまさで、夜の街を覆うと、絢爛けんらんな渦巻きがとおく去って、女の靴のかかとが男の弛緩しかんした神経をこつこつとたたいた。
女百貨店 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
菊枝はすっかり沈んでしまって、細い山路をのぼる時から、父親のかかとのあたりに視線を下ろしたきり、全く黙り続けていた。
緑の芽 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
かかとあがつた靴も穿かない草履穿ざうりばき今日けふも出たなら疲れはもつとひどかつたかも知れないと、あがり切つたところで立ちどまつて息を突きながら思つた。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛与謝野晶子(著)
見るたびに葉子は生活によごれていた。風呂ふろへ入るとき化粧室で脱ぎすてるシミイズの汚れも目に立ったが、ストッキングのかかとも薄切れていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
夢中で知らずにいたが、屋根から逃げるときにでも一発うけたとみえて、左のかかとからたらたらと血を噴いていたのである。
流行暗殺節 (新字新仮名) / 佐々木味津三(著)
一足いっそく飛行靴とびぐつとあの人は言ったよ! もし彼がうっかりそんなものをこうものなら、彼のかかとがぽいと頭よりも高く飛び上ってしまうだろうに。
足のかかとを離さないようにして歩いても、すりへらした駒下駄からはたえずハネがあがった。風が出て雨も横しぶきになってそでもぬれてしまった。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
そして両かかとをつけ胸をややらし何か言おうとしたが、その前に隊長は眼をしばたたきながら重々しく、むしろいたわるような口調で彼に言った。
日の果て (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
仕事をするにも休むにも、日本人は足と脚との内側の上に坐る——というのは、脚を身体の下で曲げ、かかとを離し、足の上部が畳に接するのである。
今の社会で口のあいたくつをはいて、油だらけの菜っ葉服を着て、足のかかとのように堅い手の皮を持った、金をそのくせ持っていない、「海坊主」を
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
誰か——給仕かも知れない、甲板を行ったり、来たりしている靴のかかとのコツ、コツという音がしていた。実際、そして、騒ぎは夜明けまで続いた。
蟹工船 (新字新仮名) / 小林多喜二(著)
紅味を帯びたすべっこいかかとが二つ投げ出されたように畳にこぼれているのを、栄三郎は苦しそうに眺めて眼をそらした。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
トオンを持たない画面には、指にひっかかる真綿の糸のようなものがふけ立っていたり、又はガラスの破片を踏んだかかとのような痛さがあるのである。
触覚の世界 (新字新仮名) / 高村光太郎(著)
たちまち見る詰襟白服の一紳士ステッキをズボンのかくしにつるして濶歩す。ステッキの尖歩々ほほ靴のかかとに当り敷石を打ちて響をなす事恰も査公さこう佩剣はいけんの如し。
偏奇館漫録 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
まだ若い女が一人、ハイヒールのかかとを鳴らしながら、ホテルのほうから舗道につづくさくを抜けて、海岸公園に入った。
一人ぼっちのプレゼント (新字新仮名) / 山川方夫(著)
黒つぽいスーツに濃い茶色のオーヴァをぴつちり召して、帽子はかぶらず、かなりかかとの高い靴をはいておいでです。
死児変相 (新字旧仮名) / 神西清(著)
これでまだ私が感ぜずに同じようなことを繰り返していようものなら、その次にはたちまち蔑み笑いを口許にうかべてかかとで床をコツコツとやる番であった。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
「ここに眼隠しの布があるし、ここにはかりがある。だが、かかとに翼が生えていて、飛んでいるんじゃありませんか?」
審判 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
小犬を連れたお婆さんにも、赤い花や桜の実の飾りのついた帽子を冠り莫迦ばかかかとたかい靴を穿き人の眼につく風俗をしてその日のかてを探し顔な婦人にも。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
抱いて井戸端へ立たせると、冷たいともいわず指先を上にむけてかかとで立っていた。そんなことを考えれば、お母さんの胸には新たな思いも湧くのであった。
赤いステッキ (新字新仮名) / 壺井栄(著)
この両国の雑踏の間に、下駄脱しや、羽織脱しがあった。かかとをちょっと突くものですから、足を上げて見ている間に、下駄をカッ払ったりする奴があった。
江戸か東京か (新字新仮名) / 淡島寒月(著)
これよりくだっては、背皺せじわよると枕詞まくらことばの付く「スコッチ」の背広にゴリゴリするほどの牛の毛皮靴、そこでかかとにお飾をたやさぬところからどろに尾を亀甲洋袴かめのこズボン
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
朝から晴渡った日だったが、そん軍曹は、憂欝ゆううつな顔をして、長剣を靴のかかとりながら、鉱区を見廻っていた。
雲南守備兵 (新字新仮名) / 木村荘十(著)