かげ)” の例文
町人ながら諸大名の御用達を勤め、苗字みょうじ帯刀たいとうまで許されている玉屋金兵衛は、五十がらみの分別顔を心持かげらせてこう切出しました。
じいっとみているとこっちの眼のまえがもやもやとかげって来るようでその人の身のまわりにだけかすみがたなびいているようにおもえる
蘆刈 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
背後の空は、既に迫る夜のために豊かにされ又暗くされた青一色。その底に動く藍紫色の・なまめかしいばかりに深々とした艶とかげ
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
それが暗いかげとならず、今朝の冗談にさえなっていたのは、尊氏の心の作為か、この主君の天性か、どっちかだろうと師直は思った。
思いつめたような彼の目は真向まっこうからぼくをみつめ、りついたようなほおの青白いかげりが、唇の赤さを際立たせてふだんよりも濃かった。
煙突 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
そうして、その衝動がまったくおさまった頃には、陽がすっかりかげっていて、はや夕暮の霧が、峰から沼の面に降りはじめていた。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
彼女は、怏々おうおうとして、暗いむすぼれた心持で電車に乗った。今までは楽しく明るい世の中が、何だか急にかげって来たようにさえ思われた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
その美しい顔は一と眼で彼女が何病だかを直感させた。陶器のように白い皮膚をかげらせている多いうぶ毛。鼻孔のまわりのあか
冬の日 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
それを考える度に、言葉になった結論が胸に浮ぶ前に、自分をひっくるめた人間人間のありかたに、彼はかげりをふくんだ深い笑いを感じた。
黄色い日日 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
彼らの儕輩せいはいの中島元八がそれを裏付けていた。そして、嘘も隠しもない事実が、人々の気持ちなりに、次第にさまざまなかげをつくっていた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
それが如何にも世慣れた感じを人に与える。しかしそこには少しも不幸のかげはさしていない。兄弟の多い家庭に育って多少は苦労をなめたか。
メフィスト (新字新仮名) / 小山清(著)
向うの山の頂に美しい白雲がうかんで、しかもその白雲のかげを落としているあたり、ヒョロ高い松が二、三本そびえて、その根元に墓が二つ……。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
其れがやわらかな日光にみ、若くは面を吹いて寒からぬ程の微風びふうにソヨぐ時、或は夕雲ゆうぐもかげに青黒くもだす時、花何ものぞと云いたい程美しい。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
それはあなたの認めるのはあなたの御随意。眼にかげある者は空中に花を見、また心中に恐怖の念ある者は繩を蛇と見違い、探偵吏は多くの人を
チベット旅行記 (新字新仮名) / 河口慧海(著)
そして、二人共出來ずに、豐吉だけ誇りかに手を擧げた時は、美しい藤野さんの顏が瞬く間暗いかげおほはれるのであつた。
二筋の血 (旧字旧仮名) / 石川啄木(著)
カラスキーの頬に、ほのかな血の色がさし、その眼は、じかに何か好もしい風景にでも触れているような、一種恍惚としたかげの中に沈み込んだ。
犂氏の友情 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
道鏡の悲歎は無慙むざんであった。葛木山中の岩窟に苦業をむすんだ修錬のかげもあらばこそ。外道の如き慟哭どうこくだった。一生の希望が終ったようだった。
道鏡 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
ただ一つのかげは、さきに母の口より聞き、今来訪名刺のうちに見たる、千々岩安彦の名なり。今日武男は千々岩につきて忌まわしき事を聞きぬ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
その中に、冬木の枝が綺麗な線を描いていた。しかし妻の汚れ物洗う私には、もう先刻のような不安のかげは消えていた。
夢幻泡影 (新字新仮名) / 外村繁(著)
はっきりと、ない、と心にいって見ると、ふと、日光ひかげかげったように、そうでない、みんな親切なのだったのではないかと、はじめて気がついた。
モルガンお雪 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
だが、こういう娘たちに果してどこまでその感情が真実のものとしてわかり得るものなのであろう。重吉の眼の裡にかげがさした。やがてそれが消えた。
道づれ (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
金糸のような毳毛うぶげが生えてい、両の隆起の真ン中には、柔らかなかげを持った溝が、悪魔の巣のように走りくぼんでいるのが、これ見よがしに眺められた。
長い、体裁のいい窓のある部屋々々は明るさを一ぱいにはらんではおりながら、それは死のようなかげがこめていた。
胸の奥に軽く生暖かい疼きを感じながら、彼は繊細なもののかげや、甘美な聯想れんそうにとりすがるように、歩き廻っていた。
秋日記 (新字新仮名) / 原民喜(著)
何んと言つても妻の暗いかげを圭一郎は直感した。其後幾百回幾千回斯うした詰問を、敏雄が産まれてからも依然として繰返すことを止めはしなかつた。
業苦 (旧字旧仮名) / 嘉村礒多(著)
草には露、目には涙、すがる土にもしとしとと、もみじを映す糸のようなくれないの清水が流れた。「関ちゃん——関ちゃんや——」澄みとおった空もややかげる。
小春の狐 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
時々に過ぎる雲のかげりもなく、晴れきった空だ。高原をひらいて、間引いたまばらな木原こはらの上には、もう沢山の羽虫が出て、のぼったりさがったりして居る。
死者の書 (新字新仮名) / 折口信夫(著)
それとこれとに一味通じあった一種のかげりのようなもののあるためかともおもえるような、けさは静かな朝です。
確かに、彼の最後の幾つかの弦四重奏曲クワルテットは奇妙なかげに充ちている。とはいえ『第九交響曲』の勝利は彼のうちに、消えざる輝きの刻印を残したようである。
その作るところは節々人に入ること深からざるべからず。一節の詩には光明透徹して一點のかげあらしむべからず。
柵草紙の山房論文 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
かげったり射したりする日光。格子の間から並べた南瓜の朱に射しこむ光線。風がぴたりと停まるたびに、炉にかかった薬鑵が妙に鳴り出しては沸いてくる。
或は日明を蔽う蝕魔のかげであるかも知れない。之だけ見ても今日の啓蒙の性能と機能とにおのずから新しい従来とは異ったものがなくてはならぬ理由が判る。
ひよつと彼女の表情にも寂しいかげのさすことがある、酔つ払ひの声に女の嬌笑けうせうがいりみだれてゐ、おしげ自身もいい気になつてお銚子の代りを取りに立つと
一の酉 (新字旧仮名) / 武田麟太郎(著)
巴絵さんは、岩田君の前夫人マリイさんの血をうけた岩田家の一人娘、第二の母、静子夫人との間に、いわゆるさぬなかというようなかげはどこにもみられない。
岩田夫人の死を悼む (新字新仮名) / 岸田国士(著)
雲によって陽がかげるごとに路面に遊んでいる乳母車、乳母、子供、犬が路面ごと灰色の渋晦を浴せられた。
褐色の求道 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
一蝉まさに美蔭を得て而して其身を忘れ、蟷螂かげを執りて而して之をたんとし、得るを見て而して其形を忘れ、異鵲いじゃく従つて而して之を利し、利を得て而して其真を
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
かつて、共に分けて食った楽しかった「モイラ」これは分け前という意味だったのであるが、いつの間にか「運命」という意味の、悲しいかげを盛ってきたのである。
美学入門 (新字新仮名) / 中井正一(著)
彼等の眼底にちらちらと動く赤馬に乗った上野介の姿の中には「忠臣蔵」の師直もろなおによって象徴された奸悪かんあく無比な人間像はかすかなかげさえも残してはいないのである。
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
甲斐を見あげている眼にも、かげろうのゆれるようなその微笑にも、なんの変化もなくかげもなかった。
晩秋の黄昏たそがれがはやしのび寄ったようなかげの中を焦躁しょうそうの色を帯びた殺気がふと行き交っていた。
競馬 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
新帝の即位という華かな祝宴の中に、高倉上皇の閑院殿かんいんどのはひっそりと暗いかげを落していた。
そのことが卯女子の中に一種のかげを落し、忘れてゐるとふいに頭を横切つて来るのだつた。
鳥羽家の子供 (新字旧仮名) / 田畑修一郎(著)
彼の頭の上には高い窓があって、その窓の外には茂ったしいの葉が、わずかに空の色をかせた。空は絶えず雲のかげさえぎられて、春先のうららかな日の光も、滅多めったにさしては来なかった。
路上 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
無限な静寂のかげ、まだ精霊どもの息吹きも漂わぬ、つらぬき難く、達しがたく、測知しがたくひろがっている繁みの厚い暗がりに包まれてただ自分の霊だけがあった——あたかも
とたんに、輝く日射は薄暗くかげってしまう。同時にまた小鳥達がにぎやかに囀り始める。
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
店へ来てうるさいうわさを立てるようなのに会う心配はないだろう、そう思って、浅草をあいびきの場所に選んでいることを知ったのだが、私の存在はその安心にいやなかげを投じたのであり
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
あまりに生きのいい黒ずんだ目がかげされていることで、なおよく見れば決して黒目が黒目ではなく、むしろ茶褐な瞳孔で、その奥の方に水の上に走るまいまい虫のような瞳がすわっていることが
幻影の都市 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
と、雪之丞が顔をあげて、いくらかかげったような瞳で、相手を見上げた。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
孤独はしよつぱくて、岩塩かなんぞのやうに手荒くある。実験室の甘汞カロメルよりも、もつと白いものであるかもしれぬ。——ゆふぐれの中で、求道ぐどう者の匂ひの漂ふ、和蘭陀石竹。かげつた邈漠たる、その色。
(新字旧仮名) / 高祖保(著)
彼らはさも気易きやすそうな態度で、折鞄おりかばんに詰めて来た消毒器やメスやピンセットを縁側に敷いた防水布の上にちかちか並べた。夏もすでに末枯うらがれかけたころで、ここは取分けの光にいつもかげがあった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)