たたず)” の例文
裏藪うらやぶの中に分け入ってたたずむと、まだ、チチッとしか啼けないうぐいすの子が、自分のたもとの中からでも飛んだように、すぐ側から逃げて行く。
死んだ千鳥 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
番場の忠太郎、新しい番傘を手に新しい下駄を穿き、通りかかって土蔵の前にたたずみ見ていて、金五郎の行為に義憤を感じ後姿を睨む。
瞼の母 (新字新仮名) / 長谷川伸(著)
両国を渡り浅草へはいり、お島が薬売りの藤兵衛の剽軽ひょうきんの口上を放心的態度で、聞きながらたたずんでいるのを見ると、貝十郎は頷いた。
十二神貝十郎手柄話 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
愛之助が闇の庭にたたずんで、二階に耳をすましながら、頭ではせわしくそんなことを考えていた時、突然びっくりする様な物音が起った。
猟奇の果 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
美奈子が宮の下のにぎやかな通を出はずれて、段々さみしいがけ上の道へ来かゝったとき、丁度道の左側にある理髪店の軒端のきばたたずみながら
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
偶々たまたま道に迷うて、旅人のこのあたりまで踏み込んで、この物怖しの池のほとりに来て見ると、こは不思議なことに年若い女が悄然しょんぼりたたずんで
森の妖姫 (新字新仮名) / 小川未明(著)
彼は梯子の上にたたずんだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下みおろした。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
或阿呆の一生 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
杖笠を棄ててたたずんだ順礼、どうしゃの姿に見せる、それとても行くともかえるともなく煢然けいぜんとして独りたたずむばかりで、往来の人はほとんどない。
遺稿:02 遺稿 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そして直ぐさま身をひるがえすようにして門前につづく広い空地の片隅にたたずんで細田氏の姿の現われるのを今や遅しと待っていました。
三角形の恐怖 (新字新仮名) / 海野十三(著)
彼は、指先で、窓硝子まどガラスをコツコツ叩いた。肺臓まで凍りつきそうな寒い風が吹きぬけて行った。彼は、その軒の下で暫らくたたずんでいた。
渦巻ける烏の群 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
それは彼が少年の頃、死別れた一人の姉の写真だったが、葡萄棚ぶどうだなの下にたたずんでいる、もの柔かい少女の姿が、今もしきりになつかしかった。
永遠のみどり (新字新仮名) / 原民喜(著)
そしてたたずんでいた女たちがたまらなくなったのであろう。ワッと泣き出す声やすすり上げる声が、一時にそこここから湧き起ってきた。
生不動 (新字新仮名) / 橘外男(著)
どんなことを話しているであろう? と冷たい黒闇くらやみの夜気の中にしばらくじっとたたずんでいても、うちの中からは、ことりの音もせぬ。
霜凍る宵 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
私はまばゆい程華やかな店先にたたずんでトント夢中に見惚みとれて居たものと見え、店の主人が近よつて声をかけました時ビツクラしました。
黄金機会 (新字旧仮名) / 若松賤子(著)
そこにたたずんでいたのは紅顔十八歳、花も恥じらわしげな小姓だったのです。当然のごとく取次ぎの男は嘲笑ってあびせかけました。
ある夜、楢雄が豊中からの帰り途、阪急の梅田の改札口を出ようとすると、老眼鏡を掛けてしよんぼりたたずんでゐる寿枝の姿を見つけた。
六白金星 (新字旧仮名) / 織田作之助(著)
しばらく化銀杏ばけいちょうの下に立って、上を見たり下を見たりたたずんでいたが、ようやくの事幹のもとを離れていよいよ墓地の中へ這入はいり込んだ。
趣味の遺伝 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
二人は何十発となくちましたが、一羽も弾ち落とすことが出来ませんでした。しまいには力がぬけて、鉄砲をつえたたずみました。
狸のお祭り (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
彼の友人の一人が、死んだ父の霊を見たというのだ。夕方、その男が、死んでから二十日ばかりになる父の墓の前にたたずんでいた。
光と風と夢 (新字新仮名) / 中島敦(著)
円柱のあたりや唱歌席のそこここに、黒い人影がひっそりとたたずんでいる。「あの人たちはああして立ったまま、朝まで動かないのかしら」
道のべにたたずむとき、ふとわが身を訪れる、なごみゆく心……空の色、樹木のたたずまい、道ゆく人の顔、さてはうずくまる犬の眼差し。
わが師への書 (新字新仮名) / 小山清(著)
小さい私は池のはたたたずんで、独りっきりでこの花を見ていたものだ、或るときは泣きながら、或るときは途方にくれながら、——この花を
五瓣の椿 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
高い巌の上にたたずんで近づく凡ての者を見下ろしているのです。この霊域に不浄な何ものをも近づけない勢いを示しているのです。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
渡り終って一息ついて居ると、炭俵すみだわらを負うた若い女が山から下りて来たが、たたずむ余等に横目をくれて、飛ぶが如く彼吊橋つりばしを渡って往った。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
スワはその日もぼんやり滝壺のかたわらにたたずんでいた。曇った日で秋風が可成りいたくスワの赤い頬を吹きさらしているのだ。
魚服記 (新字新仮名) / 太宰治(著)
たたずんでただながめるだけなら、ああ美しいと思うような草でも、土地を再び曠野こうやに返すまいと思えば、精出して抜かねばならぬものが多い。
因縁がなくてわが書斎にたたずむことの出来なかった四羽の鶴は、その生きた烈しさが日がくれかけても、昼のように皓々こうこうとして眼中にあった。
陶古の女人 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
エクランでは銀色に溶け入るやうな脚をした一人の踊子が、乱れた食卓の上で前かがみにたたずんで、不思議に複雑な笑ひを漏した。
青いポアン (新字旧仮名) / 神西清(著)
桑港フリスコの日当りの好いおかの下に、ぼく達をむかえて熱狂ねっきょうする邦人ほうじんの一群があり、その中に、一人ぽつねんと、たたずんでいる男がいた。
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
蛍狩に行った者が川端へ出て、夜風の涼しい中にたたずみながら、手に持った蛍籠をちょっと橋の上に置いた、というのであろう。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
御夢の跡にたたずみつつ、天平の開眼の日と、治承の寂滅の日と、このたった二日間を、私は千二百年の歳月の上に偲ぶのである。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
それとも文吉はそういった性質の相手であるのかしらんとでも考えている様子を想像させる姿でお秀はぼんやりたたずんでいます。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
陣屋の中では、車大工とその数人の弟子たちであろうところの者が、静まり返って仕事をしている時分、門の外にたたずんでいた近隣の人たちが
大菩薩峠:28 Oceanの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
わたしは思いがけぬ「カフェーの朝の」というところを見て、劇場の舞台の準備を眺めているような気持ちでたたずんでいた。
一世お鯉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
仙果は丁度おのれたたずんだ飛石とびいしそばに置いてある松の鉢物に目をつけ、女の髪にでも触るような手付で、盆栽の葉をでながら
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
そして花の盛りが過ぎてゆくのと同じように、いつの頃からか筧にはその深祕がなくなってしまい、私ももうその傍にたたずむことをしなくなった。
筧の話 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
彼が注意してみたそこには、花売娘の支度をした少女が雨にうたれて気恥かしげにではあるが、泣きもせずにたたずんでいた。
あめんちあ (新字新仮名) / 富ノ沢麟太郎(著)
ると、水辺すいえんの、とある巨大おおきいわうえには六十前後ぜんごゆる、一人ひとり老人ろうじんが、たたずんで私達わたくしたちるのをってりました。
枝垂桜は夢のように浮かびでて現代的の照明を妖艶ようえんな全身に浴びている。美の神をまのあたり見るとでもいいたい。私は桜の周囲を歩いてはたたずむ。
祇園の枝垂桜 (新字新仮名) / 九鬼周造(著)
まったく、こうしてたたずんだ数秒間さえなければ、かの怪奇の点では奥アマゾンをしのぐといわれる、水棲人インコラ・パルストリスのすむあの秘境へはゆかなかったろうに。
人外魔境:05 水棲人 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
守衛は乗込者に「早くはいった、はいった!」と促すが、みんな総勢揃いで乗り込もうという訳らしくたたずみがちだった。
親方コブセ (新字新仮名) / 金史良(著)
彼は、門口かどぐちを出ると母屋と土蔵との間の、かびくさい路地に這入って、暫くそこにたたずんだ。それから路を更に奥にぬけて、庭の築山のかげに出た。
次郎物語:01 第一部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
一二五頁「花冠」は詩人が黄昏たそがれの途上にたたずみて、「活動」、「楽欲」、「驕慢きようまん」のくにに漂遊して、今や帰りきたれる幾多の「想」と相語るに擬したり。
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)
その声に、ぎょっとしておもてを上げた歌麿の、くぼんだ眼にうつったのは、庭先にたたずんだ、同心渡辺金兵衛の姿であった。
歌麿懺悔:江戸名人伝 (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
ふと私は木立を越した家の方で「新様新様」と呼ぶ女中の声に気がつくと始めて闇に取り巻かれうなだれてたたずむ自分を見出して夜の恐怖に襲われた。
山の手の子 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
が、戸外にたたずむ敵の一隊は、怒りと怖れのために、一語も発するものがない。完全に心臓部をつかまれているからだ。
怪奇人造島 (新字新仮名) / 寺島柾史(著)
大勢の見ている手前、明るい離屋の方へ行くこともならず、娘は母屋のひさしの下に、やるせない姿でたたずんでおります。
私は今は亡き詩友宮島貞丈と感慨深く太文字に書かれたこの明治怪盗の名をしばし相たたずんで打ち仰いだものだった。
艶色落語講談鑑賞 (新字新仮名) / 正岡容(著)
どういう武器で阪井を斬り伏せるのか、しかし、なにがなんでもやりぬくほかはないと、夕暮の窓にたたずみながら心はむらむらと燃えたつばかりでした。
ハムレット (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
そのピラミッドの外にぽつんとはじき出され、たたずんでいる男があった。安倍にはそれが自分の姿のような気がした。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)