渓川たにがわ)” の例文
旧字:溪川
下の狭い渓川たにがわのあたりである。突然歩哨ほしょうしていた兵の大きな声がしたと思うと、間もなく、そこから駈け上がって来る足音がする。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
時節が時節ですから、紅葉は無論見られませんでしたが、渓川たにがわがあって、山があって、山の行き当りに滝があって、大変好い所でした。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
そこには竹の栞戸しおりどがあった。武士は渓川たにがわへりに往くに一二度そこを出入ではいりしていたのでかっては知っていた。武士は栞戸しおりどを開けて外に出た。
山寺の怪 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
こうしてこの一群の立ち去った後は、嶮しい山と急流はや渓川たにがわとで、形成かたちづくられている十津川郷の、帯のように細い往来には、人の影さえまばらであった。
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
食は野菜やさいのみ、魚とては此辺の渓川たにがわにて捕らるるいわなというものの外、なにもなし。飯のそえものに野菜よといえば、砂糖さとうもて来たまいしかと問う。
みちの記 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
足元からくずれ落ちる真黒な山路も、物ののような岩の間をとどろき流れる渓川たにがわも、慣れない身ながら恐れもなく、このような死人の息さえきこえぬ山奥で
道成寺(一幕劇) (新字新仮名) / 郡虎彦(著)
澄んだ水の流れている岩の多い、渓川たにがわふちを通って、私達は歩いた。こんもりと繁った樹の間には、虎杖いたどり木苺きいちご山独活やまうどが今をさかりと生い立っていた。
或る日瀧道たきみちの終点で落ち合ひ、神有しんゆう電車で有馬へ行つて、御所ごしょぼうの二階座敷で半日ばかり遊んで暮らしたことがあつたが、涼しい渓川たにがわの音を聞きながら
猫と庄造と二人のをんな (新字旧仮名) / 谷崎潤一郎(著)
今山紫水明のピリポ・カイザリヤに来て、イエスのたましいは深く神に交じわり神の慰めを受けて、渇きし鹿が渓川たにがわに下り立ったような蘇生の思いがありました。
十五節—二十節においては友を沙漠の渓川たにがわたとえて、生命をうるおす水を得んとてそこに到る隊客旅くみたびびと(Caravan)を失望慚愧ざんきせしむるものであるとなしておる。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
東晋とうしん太元たいげん年中に武陵ぶりょう黄道真こうどうしんという漁人ぎょじんが魚を捕りに出て、渓川たにがわに沿うて漕いで行くうちに、どのくらい深入りをしたか知らないが、たちまち桃の林を見いだした。
今夜の貴方あなたの御声というものは、実に白蓮びゃくれんの花に露がまろぶというのか、こうその渓川たにがわの水へ月が、映ると申そうか、いかにもたとえようのない、清い、澄んだ、冴々さえざえした
湯島詣 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
少時しばらく三人が茶をきっしている際でも、別に会話をはずませる如きことはせぬので、晩成先生はただわずかに、この寺が昔時むかしは立派な寺であったこと、寺の庭のずっと先は渓川たにがわ
観画談 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
けれども何よりうれしくって今思いだしても堪りませんのは同じ年ごろの従兄弟いとこと二人で遊ぶことでした。二人はよく山の峡間はざま渓川たにがわ山鰷やまばえりに行ったものでございます。
女難 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
私は山かげの暗い洞穴のなかで、渓川たにがわの音の咽び泣くのを聞きながら、神様に祈りました。
青春の息の痕 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
最初に渓川たにがわの流に物を洗いに降りて、美しい丹塗にぬりのが川上からうかんできたのを、拾うて還って床のかたわらに立てて置いたという例があるのを見ると、また異常なる感動をもって
山の人生 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
まさに帰ろうとしたがこの奥に別の窯場があると聞いて、元気づき渓川たにがわを縫ってさかのぼる。飛石伝いを三度曲ればと草刈る村童に教えられて足を急いだ。川を離れると急に坂路にかかる。
全羅紀行 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
悲しいことに山登りの経験を持っていない頼門には、渓川たにがわに添って里に下ることも知らず、北斗星を見定めて、その逆の方に辿る智慧もなく、足に任せて、何処どこともなく、ただ歩きに歩いて居たのです。
渓川たにがわに危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、かろうじて一縷いちるの細き力にいただきへ抜ける小径こみちのなかに隠れた。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「ゆうべの大雨に、諸所、崖はくずれ、道は消え失せ、それに至るところ渓川たにがわが生じてしまったものですから、馬も渡すことができません」
三国志:08 望蜀の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
摺鉢すりばちの底のような窪地くぼちになった庭の前には薬研やげんのようにえぐれた渓川たにがわが流れて、もう七つさがりのかがやきのないが渓川の前方むこうに在る山をしずかに染めていた。
山寺の怪 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
或る日滝道たきみちの終点で落ち合い、神有しんゆう電車で有馬へ行って、御所の坊の二階座敷で半日ばかり遊んで暮らしたことがあったが、涼しい渓川たにがわの音を聞きながら
猫と庄造と二人のおんな (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
そうして、廟に近い渓川たにがわのほとりまで登って来ますと、一人のそつが出て参りました。卒は青い着物をきて、白い皮で膝を蔽っていましたが、つかつかと寄って来て、かの役人を捕えるのです。
橋流れて水流れず、橋流れて水流れず、ハテナ、橋流れて水流れず、と口の中で扱い、胸の中でんでいると、たちまち昼間渡ったかりそめの橋が洶〻きょうきょうと流れる渓川たにがわの上に架渡かけわたされていた景色が眼に浮んだ。
観画談 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
がけを降りて渓川たにがわへ水をみに行くよりも、台所へ水道を引く方が好くなった。けれども南画に似た心持は時々夢を襲った。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ついそこの、渓川たにがわに遊び跳ねている童の群れを見るにつけ、その中に、妹の幼い頃の姿もあるように……正成の瞼は、遠い過去を、描いていた。
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
路のはるかの下の方で、どう、どう、ど、ど、どうと云うような音が聞えて来た。渡って来た渓川たにがわの音であろうか。
山寺の怪 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
障子の外にはささやかな庭があって、そこからだらだらと渓川たにがわの縁へ下りられるようになっており、庭からそのがけへかけて咲いているはぎがもう散りかかってしたたか雨に打たれていた。
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
「なに、渓川たにがわがあるから、ひとりでに消える。あれで含月荘の侍たちが消しにくる頃には、死骸はみんな灰になる」
牢獄の花嫁 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
道は草の峰になり、岩のそびえた渓川たにがわの間になり、大木のい茂った真暗な林になるなど、眼まぐるしく往く道が変化した。寒い風が吹き、雲霧くもぎりが飛び、星が見えたり隠れたりした。
神仙河野久 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
丁度瀬の早い渓川たにがわのところどころに、よどんだふちが出来るように、下町の雑沓ざっとうするちまたと巷のあわいはさまりながら、極めて特殊の場合か、特殊の人でもなければめったに通行しないような閑静な一郭いっかく
秘密 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
晁蓋は、深夜、ひとりで渓川たにがわを渡って行き、西岸の供養塔をかついで帰った。そして東渓村の見晴らしのいいところへ、それをでんと据えこんで、澄ましていた。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
寿真は河野をれて岩屋を出た。そして二人で山をくだって往った。一里あまり往って、深林を出放ではなれると渓川たにがわが来た。左右には高い山が天空を支えてそびえていた。渓には夏の夕陽があった。
神仙河野久 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
京方きょうがた討手うってがこの地方へしのんだとき、どうしても自天王の御座所が分らないので、山また山をさがし求めつつ、一日偶然ぐうぜんこの峡谷へやって来て、ふと渓川たにがわを見ると、川上の方から黄金が流れて来る
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
柳生から近い月ヶ瀬に、ことしもうぐいすの声が渓川たにがわ伝いに聞えてきた。——折から、奈良の宝蔵院ほうぞういんの僧を案内として、柳生村へ入って来た一行九人づれの武士がある。
剣の四君子:02 柳生石舟斎 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ある、宿を取り損ねて日が暮れてしまった。星がまばらに光っていた。路のむこうには真黒な峰が重なり重なりしていた。路は渓川たにがわに沿うていた。遥か下の地の底のような処で水の音が聞えていた。
殺神記 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
もうその辺はかまえの外であるらしく、泉石のたゞずまいも人為的な庭園の風情ふぜいはなくて、次第に殺風景な山路になっているのであったが、ふと向うを見ると、渓川たにがわの岸の崖の上に、一本の大きな桜が
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
さしもの夏侯惇も、渓川たにがわにおちて死ぬものやら、馬に踏まれて落命するなど、おびただしい味方の死傷を見ては、ひっ返して、趙雲に出会う勇気もなかったらしい。
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
言い残すと、そこからすぐ渓川たにがわ道へ降りて、ひよのごとく、その迅い影を、沢づたいに消してしまった。
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
猿のさけびが掻消かききえると、ぐわっ——と谷底の鳴るのが逆しまに、顔をふきあげてくる。そそり立っている岩峭がんしょうつかってくる冷たい風と、渓川たにがわのうなりである。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そもそも、この山すそには、一すじの渓川たにがわを境として、西渓村せいけいそん東渓村とうけいそんとの、二聚落じゅらくがある。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
権之助がふと仰ぐと、向いの崖の上に、左の眼の上にれ上がった青痣あおあざのある山伏の顔が見えた。その痣は、ゆうべ金剛寺の渓川たにがわから、伊織の投げた石つぶてを、直ぐ二人に思い起させた。
宮本武蔵:08 円明の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「ばか、ばか、逃げる気か。——もうそこから下は、渓川たにがわ絶壁きったてだぞ」
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)