沓脱くつぬぎ)” の例文
馬耳は沓脱くつぬぎへ降り、戸にかんぬきをおろした。尨大な夜の深さが、馬耳の虚しい寂寥を漂白するために、ひえびえと身体を通過していつた。
(新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
道也先生は親指のくぼんで、前緒まえおのゆるんだ下駄を立派な沓脱くつぬぎへ残して、ひょろ長い糸瓜へちまのようなからだを下女の後ろから運んで行く。
野分 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
まだ薄暗い方丈の、朝露に濡れた沓脱くつぬぎ石までけつまろびつ走って来た一人の老婆が、まばらな歯をパクパクと噛み合わせてあえいだ。
別当は客の長靴を沓脱くつぬぎの石の上に直して置いて、主人の長靴を持つて自分の部屋に帰つたが、又すぐに出て来て、門のとびらを締めた。
金貨 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
二人は沓脱くつぬぎの上に立って、ひしと抱き合って居りました。女の涙は男の襟を濡らし、男の温い息が、女の顔と前髪を撫でて居ります。
「面倒臭いや、そこへ入り込むと、かしこまらなけりゃならないから、沢山だい。」といって、片足を沓脱くつぬぎに踏伸ばして、片膝を立てておとがいを支えた。
黒百合 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
表の戸には錠がおろしてなかったので、引くとすぐにさらりと明いた。半七は沓脱くつぬぎへはいって、揚げ板になっている踏み段を手拭で拭きながら腰をかけた。
半七捕物帳:06 半鐘の怪 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
私がはいった後の戸締りをするために、沓脱くつぬぎに降り立った嫂が、そこでだれかと話をしているらしいのであった。
逗子物語 (新字新仮名) / 橘外男(著)
多い髪の毛を忙がしい折からとて結び髪にして、少し長めな八丈の前だれ、おめしの台なしな半天を着て、急ぎ足に沓脱くつぬぎへ下りて格子戸かうしどに添ひし雨戸を明くれば
わかれ道 (新字旧仮名) / 樋口一葉(著)
最初にそこへ来合わせた人は、もしや敷居の溝から沓脱くつぬぎに血がこぼれていはしないかと怪しむでしょう。
大菩薩峠:32 弁信の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
すると十兵衛は沓脱くつぬぎから縁側へあがり、刀を右手に持って座敷へはいって来た。大股おおまたに近よって来る足つきで、彼が察したよりもひどく怒っていることを、半三郎は認めた。
あだこ (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
かどにはまくをうち、よきほどの処をしぼりあげてこゝに沓脱くつぬぎだんをおき、玄関式台げんくわんしきだいなぞらふ。
宏子は、古風な沓脱くつぬぎ石の上に立って、茶っぽい靴の踵のところを右と左とすり合わすようにして揃えてぬぎ、外套にベレーもかぶったまま、ドンドンかまわず薄暗い奥の方へ行った。
雑沓 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
格子戸作かうしどづくりになつてましてズーツと洗出あらひだしたゝきやまづらの一けんもあらうといふ沓脱くつぬぎゑてあり、正面しやうめんところ銀錆ぎんさびふすまにチヨイと永湖先生えいこせんせい光峨先生くわうがせんせい合作がつさく薄墨附立書うすずみつけたてがきふので
世辞屋 (新字旧仮名) / 三遊亭円朝(著)
「フーム、Fの字見たいな建方だな、この離れが一番上の横線に該当するね、中庭を隔てて御主人の居間と向合うて二階が弟さんの御部屋か……」こう呟いて沓脱くつぬぎの駒下駄を履くと
誘拐者 (新字新仮名) / 山下利三郎(著)
自分の家の玄關の沓脱くつぬぎのある『タタキ』を、毎朝、自分で、雜巾ざふきんがけをする、そのかはり、そこからはいかなる人でもはひりをさせない、といふやうな事を、私は、誰からとなく、聞いた。
「鱧の皮 他五篇」解説 (旧字旧仮名) / 宇野浩二(著)
それを押して、おそるおそる奥座敷の縁下、沓脱くつぬぎのまえにうずくまると
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
と腹のなかで思ひながら、せいのない顔をして玄関まで見送りに往つた。沓脱くつぬぎに立つた爺さんは一寸おとがひに手をやつたと思ふと、その儘髯を外して片手に持つた。そして素知らぬ顔をして帰つて往つた。
白いはぎもあらわに、つまを蹴りみだして、沓脱くつぬぎに跳ね下りると、庭下駄を、素あしに突っかけて、短銃を片手に、雪之丞の前に歩み寄るお初——闇太郎は、にわかに咲き出した毒の花のようなすがたを
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
しかるに清十郎が沓脱くつぬぎに腰をかけて奥のかたの嫁入支度を見て
「歌念仏」を読みて (新字旧仮名) / 北村透谷(著)
沓脱くつぬぎから草履ぞうりをはいて歩み出た。
剣の四君子:02 柳生石舟斎 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
平次は朝飯を濟ましたばかり、今日の日程を考へて、お茶を呑んでゐるところへ、八五郎は隣りの赤犬と一緒に沓脱くつぬぎあごを並べるのです。
女はいやな顔もせずに立ち上った。私はまた「夜がけたから送って行って上げましょう」と云って、女と共に沓脱くつぬぎに下りた。
硝子戸の中 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
二階の裏窓から漏れる電燈に、片頬を片袖ぐるみ笠を黒髪にかざして、隠すようにしたが、蓮葉に沓脱くつぬぎをひらりと、縁へ。
白花の朝顔 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
裏へまわって格子をあけると、狭い沓脱くつぬぎは草履や下駄で埋められていた。お竹は泣き顔をしてすぐ出て来た。
半七捕物帳:02 石灯籠 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
それ故丁度沓脱くつぬぎのあたりであらうか、殆んど枕の横手あたりに聴きとれるほど程近い階下にあたつて、与里の一家は癇高い叫喚を張り上げ乍ら口論に耽つてゐた。
竹藪の家 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
急ぎ足に沓脱くつぬぎへ下りて格子戸に添ひし雨戸を明くれば、お氣の毒さまと言ひながらずつと這入るは一寸法師いつすんぼしと仇名のある町内の暴れ者、傘屋の吉とて持て餘しの小僧なり
わかれ道 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
といったけれども、何の返答もなく、刀を提げてそろそろと縁を下りて、沓脱くつぬぎの上に並べてあった草履をつっかけると、声をしるべに徐々しずしずと弁信の方へ近寄って参ります。
大菩薩峠:21 無明の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
伊助は沓脱くつぬぎに腰をかけ、いかにも静かに茶を味わいながら、真沙の問に少しずつ答えた。
柘榴 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
その鼻の先の沓脱くつぬぎ石へ、くわを荷いだ若党の金作がポカンとした顔付で手を突いた。
斬られたさに (新字新仮名) / 夢野久作(著)
右の草履が碾磑ひきうすの飛石を一つ踏んで、左の草履が麻の葉のようなしゅんのある鞍馬の沓脱くつぬぎに上がる。お雪さんの体がしなやかに一捩ひとねじり捩られて、長い書生羽織に包まれた腰が蹂口に卸された。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
それも考えられない事はありませんが、匕首あいくちを土の中へ打ち込んだ石を、沓脱くつぬぎの側に転がしておいたのはどうしたわけでしょう。
三十分ほどって、お時の沓脱くつぬぎそろえたよそゆきの下駄げた穿いてまた表へ出る時、お延は玄関まで送って来た彼女をかえりみた。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
かどの戸引開けて、と入りざま、沓脱くつぬぎに立ちて我が名をあわただしく呼びたるは、隣家となりなる広岡の琴弾くかの美しき君なり。
照葉狂言 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
いそあし沓脱くつぬぎりて格子戸かうしどひし雨戸あまどくれば、おどくさまとひながらずつと這入はいるは一寸法師いつすんぼし仇名あだなのある町内ちやうないあばもの傘屋かさやきちとてあましの小僧こぞうなり
わかれ道 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
半七に眼配めくばせをされて、女房のお仙が出てみると、沓脱くつぬぎの土間に一通の封じ文が落ちていた。
半七捕物帳:56 河豚太鼓 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
「今夜も呑む約束なんだ」さう言ひすてて自分はさつさと沓脱くつぬぎへ降りて行つた。
小さな部屋 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
対問所の沓脱くつぬぎまでおりた平四郎は、そこにいる同心の一人に、耳うちをした。
山彦乙女 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
私どもが御機嫌伺いに参りましても根府ねぶ川の飛石とびいし伝い、三尺の沓脱くつぬぎは徳山花崗みかげ縮緬ちりめんタタキ、黒縁に綾骨あやぼね障子しょうじ。音もなく開きますれば青々とした三畳敷。五分べり南京更紗なんきんさらさ。引ずり小手ごての砂壁。
名娼満月 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
沓脱くつぬぎのところから石灯籠の側まで引摺って行き、その上へ一と思いに石灯籠を転がしてしまった——二階の人達は、その音を聞いたのだよ
銭形平次捕物控:245 春宵 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
下へりて玄関へ出た時、僕は母を送って来るべきはずの吾一の代りに、千代子が彼女のあといて沓脱くつぬぎからあがったのを見て非常に驚ろいた。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
向う歯の金歯が光って、印半纏しるしばんてんの番頭が、沓脱くつぬぎそばにたって、長靴を磨いているのが見える。いや、磨いているのではない。それに、客のではない。
貝の穴に河童の居る事 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
妻や女中に注意をあたえながら、ありあわせた下駄を突っかけて、沓脱くつぬぎから硝子戸の外へ飛び出すと、碧桐あおぎりの枯葉がばさばさと落ちて来た。門の外へ出ると、妻もつづいて出て来た。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
「今夜も呑む約束なんだ」そう言いすてて自分はさっさと沓脱くつぬぎへ降りて行った。
小さな部屋 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
ひさしの下はほんの少しばかり埋め残してありますが、物馴れたお市の眼には、そこに脱ぎ捨ててある、沓脱くつぬぎの下駄までハッキリ読めるのです。
それを受取った彼女はまた自分で玄関の格子戸こうしどを開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫のあといて沓脱くつぬぎからあがった。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ぐるりとその両側、雨戸を開けて、沓脱くつぬぎのまわり、縁の下をのぞいて、念のため引返して、また便所はばかりの中まで探したが、光るものは火屋ほやかけらも落ちてはいません。
草迷宮 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
酒屋の路地へはいって、格子の前に立つと、入口の障子は半ば開かれて、線香の匂いが狭い沓脱くつぬぎにまで溢れていた。ここはもう薬の匂いではなかったので、林之助は急に暗い心持ちになった。
両国の秋 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
出てみると、さつきの本が沓脱くつぬぎの上へ置いてあるのだ。
狼園 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
源吉は狭い庭の沓脱くつぬぎの上を指しました。一抱えほどの自然石の上は、春の陽に乾いて血潮がベットリ、もう玉虫色に光っているのも不気味です。