忽然こつねん)” の例文
その眼の前には、忽然こつねんと、隠岐の荒海が近づいていた。いちめん、白い微粒な霧の怒濤が睫毛まつげをふさぐほど押し流れて来たのであった。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
峰が一つ開けると忽然こつねんとしてとりでのような山が行手を断ち切るように眼の前に現われる。七兵衛は平らな岩の上に立って谷底を見ていたが
大菩薩峠:08 白根山の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
おもふと、忽然こつねんとして、あらはれて、むくとをどつて、卓子テエブル眞中まんなかたかつた。ゆきはらへば咽喉のどしろくして、ちやまだらなる、畑將軍はたしやうぐん宛然さながら犬獅子けんじし……
雪霊続記 (旧字旧仮名) / 泉鏡花(著)
その時、突然闇の中にほのぼのと青い円光がポツリと一点あらわれたが見ているうちに大きくなり、やがて中から手弱女たおやめ忽然こつねんとして現われた。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
櫛まきお藤が忽然こつねんと姿を見せてふところ鉄砲ひとつで左膳をかばってともに落ちのびていった、そのすこし前のことだった。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
忽然こつねんとして其初一人来りし此裟婆に、今は孑然げつぜんとして一人立つ。待つは機の熟してこのみの落つる我が命終みやうじゆうの時のみなり。
二日物語 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
思えば結婚式がすむ迄、私もやはり世の常の花嫁の抱くような楽しい夢を胸に描いてりましたが、その夢は、披露の宴の際、忽然こつねんとして消えました。
秘密の相似 (新字新仮名) / 小酒井不木(著)
その時いづくよりとも知らず、ころもをまとうた学匠がくしやうが、忽然こつねんと姿をあらはいて、やさしげに問ひかけたは
きりしとほろ上人伝 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
鶴見は部屋に引き籠っていて、その時分はよく『起信論』をひらいて読んでいた。そして論の中でのむずかしい課題である、あの忽然こつねん念起をいつまでも考えつづける。
これからこそ島村氏の学者としての復活だと予想されたおり忽然こつねんとして永眠されてしまった。
松井須磨子 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
かれは平和な田舎に忽然こつねんとして起こった事件を考えながら歩いた。一夜の不意のできごとのために、一家の運命に大きな頓座とんざを来たすべきことなどをも思いやらぬわけにはいかなかった。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
というと、金博士の姿は忽然こつねんとしてその場から消えた。
そも勇者には、忽然こつねんわざはひふくに轉ずべく
海潮音 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
「町中を出離れてから、またこんな広い馬場だの空地だのを通って、その彼方に忽然こつねんと、あんな灯の聚落しゅうらくが現れるのもおもしろいでしょう」
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と思うと、忽然こつねんとして、顕れて、むくと躍って、卓子テエブル真中まんなかへ高く乗った。雪を払えば咽喉のど白くして、茶のまだらなる、はた将軍のさながら犬獅子けんじし……
雪霊続記 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
才蔵の姿は雲か霧か朦朧もうろうとして消え失せたが忽ち猛鳥のハタハタという羽搏はばたきの音が縁から起こり、ただ見る一羽の荒鷲が忽然こつねんとして浮かび出た。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
忽然こつねんとして起った何のりどころもない暗示。こんな暗示に襲われた自分を、お雪は戦慄せんりつしました。
大菩薩峠:22 白骨の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
宗祇が『古今集』のやまとうたは人の心を種とするといっているのを釈して、それを元初一念の人の心と断じ、忽然こつねん念起、名づけて無明むみょうすというのはこれだ。無明は煩悩ぼんのうだ。
自分一個の道——こう押し詰めて来ると、そこに忽然こつねんと浮かび出るあのひとの幻。
つづれ烏羽玉 (新字新仮名) / 林不忘(著)
が、前になきしている召使を見ると、そこは女の忽然こつねんとして憤怒になって
雪たたき (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
そも勇者には、忽然こつねんわざはひふくに転ずべく
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)
果たせるかな、秀吉の大軍は、背面から、忽然こつねんと、信雄の予感を裏書してきた。かれは、急を、家康へ報じて、助けを叫ぶしか、策を知らない。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
忽然こつねん、その時どこからともなくつぶてがバラバラと降って来て、武者之助はじめ手下の者どもは、肩を打たれ背をひしがれ、手足を砕かれる者さえあった。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
が、鞦韆ぶらんこに乗って、瓢箪ぶっくりこ、なぞは何でもない。時とすると、塀の上に、いまむつまじく二羽ついばんでいたと思う。その一羽が、忽然こつねんとして姿を隠す。
二、三羽――十二、三羽 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
忽然こつねんとして中天なかぞらあか
海潮音 (旧字旧仮名) / 上田敏(著)
と見れば、蛇形の列は忽然こつねんと二つに折れ、まえとは打ってかわって一みだれず、扇形おうぎがたになってジリジリと野武士の隊伍たいごを遠巻きに抱いてきた。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
というのはさっきも申しましたとおり、巻軸のおもてへ数行の隠語が、忽然こつねんとして現われたのでございますよ。
剣侠受難 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
庭へ下りて、草茫々ぼうぼうの中へ隠れたのを、急いで障子の外へ出て見ている内に、床の間に据えて置いた、その手毬がさ。はい、忽然こつねんと消えちゅうは、……ここの事だね。
草迷宮 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
忽然こつねんとして中天なかぞら赤く
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)
堀の水が、忽然こつねんと、赤く見え出した。仰ぐと、川向うの空も赤い。一かくの町屋の上には、柏餅のような晩春の月があった。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「何、水滸伝。はてな、妙齢の姿色、忽然こつねんとして剣侠けんきょう下地だ、うっかりしちゃいられない。」
薄紅梅 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
海を行くようなあおさ暗さ、また果てない深林と沢道をたどるうちに、忽然こつねん、天空から虹の如き陽がこぼれた。ひろやかな山ふところの谷である。
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
地震が鎮まりますと忽然こつねんで、盆踊りのあとじゃござりませんから、鼻紙一枚落ちちゃいず、お祭のあとでござりませんから、竹の皮一片ひとひら見えなくなってしまったでござりますわ。
わか紫 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
ふたりは矢来やらいのきわをはなれながら、それとなく気をつけたが、いつのまにか疑問ぎもんの三名は忽然こつねんとかげをして、あたりのどこにも見えなかった。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
忽然こつねんとしててんひらけ、身は雲に包まれて、たえなるかおりそでおおい、見るとうずたかき雪の如く、真白ましろき中にくれないちらめき、みつむるひとみに緑えいじて、さっと分れて、一つ一つ、花片はなびらとなり、葉となって
薬草取 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
忽然こつねんと下界へちて来た一つの星みたいに見えた。それが、「源太ヶ産衣うぶぎ」や「髯切ひげきり」の燦爛さんらんとは知るよしもなかったが、何しろどこか粧装よそおいが違う。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
名代みょうだい部屋の天井から忽然こつねんとして剃刀が天降あまくだります、生命いのちにかかわるからの。
註文帳 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
華岳かがくの中院、雲台観うんだいかん(道教寺)の前に、忽然こつねんと、雲から降りて来たような男が立って、こう大声告げて去った。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
忽然こつねんとして消えせただ。夢に拾った金子かねのようだね。へ、へ、へ、」
草迷宮 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
それほど、主人が愛している龍胆黒であることは、召使たちも知りぬいている事なので、今忽然こつねんと厩の中にそれが見えないのは、大きな驚きと不審であった。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
地からいたように、忽然こつねんと、人無村をつきぬけて、ここへかけつけてきた軍勢は、そもいずれの国、いずれの大名だいみょうぞくすものか、あきらかな旗指物はたさしものはないし
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
折ふし、民衆の中には、合戦以後、これから自分たちの司権者として臨みかけている清盛という人が、大きく——忽然こつねんと大きく意識にのぼっていたところなので
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
そう気づいたときは、一つの兵法の図式が、いつのまにか、忽然こつねんと地にえがき出されていたのである。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、孔明は、主君を船へせきたてると、自分も忽然こつねんと、呉の陣営のうちに、姿をかくしてしまった。
三国志:07 赤壁の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
じっと、そこに、思索をあつめているうちに、彼は、忽然こつねんと、それを自己の剣にかえりみて悟った。
宮本武蔵:06 空の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
九月十四日の夜のことが、忽然こつねんと、その場へ、ふたたび身を置かれたように思い出された。
常に心のうちで渇仰かつごうし奉る聖徳太子のお救いかもわかりません——その髪一すじの危機に迫った時、忽然こつねんと、弁円のけて入った妻扉つまどから中へ躍りこんできた一頭の黒犬があったのです
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
トしきりは満座歓宴の乱れだったが、ほどなくまた新しい拍手の波に、高氏もふと舞台の方を見ると、そこには、金モミ烏帽子えぼし水干衣すいかん姿の白拍子しらびょうしが、両の手に振鈴ふりすずを持って、忽然こつねん
私本太平記:02 婆娑羅帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
千早谷の右端の、はるか上のあたりにも、一団の人旋風ひとつむじ忽然こつねんと現われて
私本太平記:07 千早帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と、態よく、女たちから身限られて、忽然こつねんと、雑鬧ざっとうの中で、独りになった。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)