咄嗟とっさ)” の例文
もしK中尉自身も砲弾のために咄嗟とっさいのちを失っていたとすれば、——それは彼にはどう云う死よりも幸福のように思われるのだった。
三つの窓 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
「やっつけたな!」咄嗟とっさに私は少年のままの君の面影を心いっぱいに描きながら下くちびるをかみしめた。そして思わずほほえんだ。
生まれいずる悩み (新字新仮名) / 有島武郎(著)
立ちすくんだ与次郎、浅黄の頬冠りこそしておりますが、苦味走った三十男、咄嗟とっさの間に、万七の手を振りもぎって逃げようとすると
咄嗟とっさのことでどうすることもできませんでした。それからあとのことは、病院へかつぎこまれるまでちっとも気がつきませんでした。
鉄の規律 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
「内惑星軌道半径⁉」このあまりに突飛とっぴな一言に眩惑されて、真斎は咄嗟とっさに答えるすべを失ってしまった。法水は厳粛な調子で続けた。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
聞いたような声で、たしかに自分を呼ぶのだとは思いましたけれども、お松はこの場合に咄嗟とっさに返事をすることができませんでした。
大菩薩峠:15 慢心和尚の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
逃れられぬと分ったので、三谷は咄嗟とっさに態度を改めて、見えすいたうそをいいながら、ふてぶてしく笑った。彼も流石さすがに兇賊である。
吸血鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
思わず二、三歩飛び退いて、笠の前縁まえぶちをグイと押えた玄蕃は、二人の虚無僧を見るや咄嗟とっさにそれと分っていたが、わざと声を作って
剣難女難 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
天丸左陣はこれを聞くと一時は少なからず吃驚びっくりしたが、咄嗟とっさに思案のほぞを決めると、部下の兵を引率して妙高山へ出張って行った。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
彼女は、部屋をけ出そうとしたとき、咄嗟とっさに兄のことを考えた。兄は、白痴の身を、監禁同様に葉山の別荘に閉じ込められている。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
誰かに似ている、と咄嗟とっさに彼は思ったが、そのまま足音を忍ばせてすばやく窓の下をはなれた。見てはならぬ光景を見た気がしたのだ。
日の果て (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
ふと首を上げた悟浄は、咄嗟とっさに、危険なものを感じて身を引いた。妖怪の刃のような鋭いつめが、恐ろしい速さで悟浄の咽喉をかすめた。
悟浄出世 (新字新仮名) / 中島敦(著)
咄嗟とっさに腹をめた私は、赤いレッテルの生長液の入った壜をとりあげて栓を抜くと、グッといきに生長液をんだのであった。
(新字新仮名) / 海野十三(著)
れいか、熱か、匕首ひしゅ、寸鉄にして、英吉のその舌の根を留めようとあせったが、咄嗟とっさに針を吐くあたわずして、主税は黙ってこぶしを握る。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
咄嗟とっさの動作だったので、貞之助は呆気あっけに取られたが、次の瞬間に、今の紳士が奥畑であったと心付くと、彼もぐあとから廊下へ出た。
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
私の不幸というものについて書くように云われると、何となし当惑したような咄嗟とっさの心持になるのは、私ひとりのことだろうか。
フェア・プレイの悲喜 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
はじめての人だが誰だろうといぶかる妹のよしには、専売局の友達が惣吉の行先を訊いてきたのだと、それでも咄嗟とっさに誤魔化すことが出来た。
和紙 (新字新仮名) / 東野辺薫(著)
咄嗟とっさに九鬼が非常に莨好きだったことを思い出しながら。そうして彼は夫人の顔が気味悪いくらいに蒼ざめているのに気づいた。
聖家族 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
人間としての偉さなんて、私には微塵みじんも無い。偉い人間は、咄嗟とっさにきっぱりと意志表示が出来て、決して負けず、しくじらぬものらしい。
鉄面皮 (新字新仮名) / 太宰治(著)
〈水ヲ下サイ〉と彼は何気なく咄嗟とっさにペンをとって書いた。それから彼はMと一緒に中央公民館の方へ、ぶらぶら歩いて行った。
永遠のみどり (新字新仮名) / 原民喜(著)
敦夫は咄嗟とっさにそう思った。彼は爪先から氷のような恐怖が這登はいのぼるのを感じて、思わず猟銃を執直とりなおした。呻声は直ぐ続いて起った。
殺生谷の鬼火 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
しかしそれから三日すると、あっと思う暇もない咄嗟とっさのうちに、老看視人の眼の前で彼はその花を摘み取った。看視人は追っかけて来た。
私は咄嗟とっさの間に身を飜して寝台の中へ飛び込んだ。ストンと音がして、身体からだが階段の上に落ちるとすぐに、跳ね起きて階段を駈け降りた。
冥土行進曲 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
もし山𤢖やまわろか。」と、市郎は咄嗟とっさに思い付いた。で、その正体を見定める為に、たもとから燐寸まっち把出とりだして、慌てて二三本った。
飛騨の怪談 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
自分はこの明瞭でかつ朦朧もうろうなる亭主の頭を居眠りの不知覚から我に返る咄嗟とっさにふと見たんである。この時はあまり好い心持ではなかった。
坑夫 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
村岡は咄嗟とっさの間に、先刻さっき丸の内を歩きながら清岡が言った事を思出し、何とも知れぬ恐怖を感じて、首と手を振って早く行けと知らせた。
つゆのあとさき (新字新仮名) / 永井荷風(著)
咄嗟とっさの謀計で久野はわざと大声に「なあに心配することはないよ。向うが五秒早くたってこっちの条件コンディションが悪るかったせいだよ」
競漕 (新字新仮名) / 久米正雄(著)
その中で甲斐々々かいがいしく立ち働らいてゐる人影が、お母さんやお祖母ばあさんや若い女中だといふことにさへ咄嗟とっさには気がつかなかつたさうです。
死児変相 (新字旧仮名) / 神西清(著)
かの女は咄嗟とっさの間に、おならの嫌疑けんぎを甲野氏にかけてしまった。そしてそのめに突き上げて来た笑いが、甲野氏への法外ほうがい愛嬌あいきょうになった。
かの女の朝 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
そのほか君の前に書画帖を置いて画をふ者あれば君は直に筆をふるふて咄嗟とっさ画を成す。為山いざん氏の深思熟考する者と全く異なり。
墨汁一滴 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
なぜ胸を小衝こづかれたような心もちになるか、そして又なぜに自分の視覚がその咄嗟とっさの間にどぎまぎして、いままで眺めていたものを打棄うっちゃって
幻影の都市 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
……で、今も、思わず歓呼の声を挙げかかったのであったが、咄嗟とっさの間にそれに気づいて、かろうじて口をかんしたわけである。
吊籠と月光と (新字新仮名) / 牧野信一(著)
咄嗟とっさの出来事にこれも面喰って足速やに駈けつけた禅僧は、蒼ざめ、つきつめた顔をかすかに痙攣けいれんさせながら旅人に言った。
禅僧 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
咄嗟とっさの場合、さすがの彼も、そうすることが彼の罪状の自白を意味するということには、まるで気がつかなかったのである。
次郎物語:01 第一部 (新字新仮名) / 下村湖人(著)
「どうしました? 何をそんなに考えていらっしゃる?」と少年は微笑み掛けたが、私は咄嗟とっさの機転で「MRミスタ・シュータン!」と呼び掛けた。
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
咄嗟とっさの事で、私はただ目をパチクリするだけであつた。その夜書斎へ入ると机の上に、佐々木邦氏主裁のユーモア・倶楽部誌が開いて載つて居る。
釣十二ヶ月 (新字旧仮名) / 正木不如丘(著)
手早く仕度をして、良子は気晴らしに表に出た。何日ぶりかすら咄嗟とっさには思い出せないほどの、久しぶりでの外出だった。
一人ぼっちのプレゼント (新字新仮名) / 山川方夫(著)
余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問われたるときは、咄嗟とっさかん、その答の範囲をよくもはからず、直ちにうべなうことあり。
舞姫 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
対馬守つしまのかみは、咄嗟とっさにキッとなって居住いを直すと、書院のうちのすみから隅へ眼を放ちながら、静かにやみの中の気配をうかがった。
老中の眼鏡 (新字新仮名) / 佐々木味津三(著)
が、そのとたんに落ちていた桃の枝に足元がひっかかったので、彼は咄嗟とっさにそれをすくい上げて抱え込みながら喘いだ。
天馬 (新字新仮名) / 金史良(著)
咄嗟とっさの間に、ちらりと見ただけで、何であったかわからなかった。ただまだらに色のついた、かたまりのようなものだった。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
キャラコさんは、あまり思い掛けないことで、呆気にとられ、しきい際に立ちすくんでしまった。咄嗟とっさに、何と声を掛けたらいいのか、わからなかった。
奴は咄嗟とっさにあるだけの力を出して、沈んだがまた浮上った夫を背にかけて、波濤はとうをきってこんかぎり岸へ岸へと泳ぎつき、不思議に危難はのがれたが
マダム貞奴 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
見たような顔! 見たような顔!——咄嗟とっさに、眼まぐるしい思案が、壁辰の頭脳あたまけめぐった。と! 思い出した! ぴイン! と来たものがある。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
抜きうちをわされたような咄嗟とっさおどろきであった。阿賀妻には茶飯事のこのことが安倍誠之助を気色けしきばましていた。
石狩川 (新字新仮名) / 本庄陸男(著)
しかし此の際咄嗟とっさに起った此の不安の感情を解釈する余裕はもとよりない。予の手足と予の体躯たいくは、訳の解らぬ意志に支配されて、格子戸の内に這入った。
浜菊 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
彼女はどちらかと云うと咄嗟とっさの思い付きを愛する女で米良は自分の桃色の革命家の恋心について悲しまなかった。
地図に出てくる男女 (新字新仮名) / 吉行エイスケ(著)
咄嗟とっさの間に為吉は呶鳴った。固く眼を押えて半病人のように這出して来たのは殺された筈の坂本新太郎であった。
上海された男 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
と、ふだんの通りの快活な口のきき方で、斬込きりこんで来た。何とかうまくひっぱずそうと思ったが、手痛い冗談だったので、澤は咄嗟とっさに返事が出来なかった。
九月一日 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
嫁が来た日から病に取りかれたのだというその意味は、登勢の胸にも冷たく落ち、この日からありきたりの嫁いじめは始まるのだと咄嗟とっさに登勢は諦めたが
(新字新仮名) / 織田作之助(著)