えくぼ)” の例文
男は怪しきえくぼのなかにき込まれたままちょっと途方に暮れている。肯定すればいつわりになる。ただ否定するのは、あまりに平凡である。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それにかかわらず安陵竜陽みな凶終するよう論ずるは、性慾顛倒の不男ぶおとこや、えくぼを売って活計する色子野郎ばかりに眼をさらした僻論へきろんじゃ。
ふと気が付いてスパセニアは、振り返ってにっこりとえくぼをうかべましたが、欄干てすりにからだをもたせて、悪戯いたずらっぽそうに、聞いてくるのです。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
「おッとッとッと、おせんちゃん。んでそんなにいそぎなさるんだ。みんながこれほどさわいでるんだぜ。えくぼの一つもせてッてくんねえな」
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
えくぼの見えている両手を重ねて、つつましやかではあるが無邪気な言葉で、こう娘はいい継いだが、嘉門の一人子お菊であった。
娘煙術師 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
それを我慢しながら、グッと押して見ると、美女の肩が、えくぼのようにくぼんで行った。柔かいのだ。ゴムのように柔かいのだ。
悪魔の紋章 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
慎しみ深い大きな眼の底にどこか不似合な大胆さも潜めていて、上唇の小さな黒子ほくろが片頬のえくぼとよく調和をとって動くのが心に残る表情だった。
旅愁 (新字新仮名) / 横光利一(著)
口には薄気味の悪い愛嬌をたたえてしわがよりえくぼができている。そして眼は、一座のすべての連中と同じく、酒気のためにとろんとかすんでいる。
年のわりに小柄で(彼はもう十歳とおになっていた)、まるまると肥って、きれいな空色の目をして、両の頬にはえくぼがあった。
可愛い女 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
その大きな目は悲しそうにまたたいていたが、すぐ私たちの方を向くと、人の善い微笑がえくぼと一しょに自然に流れるように浮んでくるのであった。
或る少女の死まで (新字新仮名) / 室生犀星(著)
メアリゴウルドの目鼻立や特徴はすべてそのままで、可愛らしい小さなえくぼさえ、その金色のあごに残っていました。
「それじゃ、たしかだ。」郵便屋は、桃の花の頬に、えくぼを浮べて笑った。「あなたは幸吉さんの兄さんです。」
新樹の言葉 (新字新仮名) / 太宰治(著)
栗梅くりうめの小さな紋附を着た太郎は、突然こう言い出した。考えようとする努力と、笑いたいのをこらえようとする努力とで、えくぼが何度も消えたり出来たりする。
戯作三昧 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
留守は七十六歳になる喜代之助の老母とおあさと云う別嬪べっぴん、年は廿六ですが一寸ちょっと見ると廿二三としか見えない、うすでのたちで色が白く、笑うとえくぼがいります。
業平文治漂流奇談 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
右の頬っぺたにえくぼの出来る、血色の美しい薄色髪の花嫁だの、ヘルソン県下の持村だの、財産だのと、いろんなくだらないことを喋りちらしていたものである。
悪戯いたずらのように、くるくる動く黒眼勝くろめがちの、まつげの長いひとみを、輝かせ、えくぼをよせて頬笑ほほえむと、たもとひるがえし
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
ほっそりした頬にえくぼを見せる、笑顔のそれさえ、おっとりして品がい。この姉さんは、渾名あだなを令夫人と云う……十六七、二十はたちの頃までは、同じ心で、令嬢と云った。
日本橋 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
だが、娘は、母親の若よかなえくぼのある頬が鳥渡の間、内気な少女のように初々しく輝くのを見た。
或る母の話 (新字新仮名) / 渡辺温(著)
直は、家庭のこまこました場合、淋しいえくぼをよせて私はどうでも構いませんというひとである。
漱石の「行人」について (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
細面ながら力身りきみをもち、鼻がすッきりと高く、きッと締ッた口尻の愛嬌あいきょうえくぼかとも見紛われる。
今戸心中 (新字新仮名) / 広津柳浪(著)
そして、彼の顔や肩へ、木の間からチラチラとすいっぱいな日光のえくぼにうっとりとした。
銀河まつり (新字新仮名) / 吉川英治(著)
片頬をもたらせるように品を作ると、ほのかなえくぼが、凝脂ぎょうしの中にトロリと渦をまきます。
十字架観音 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
上流の婦人にあっては、えくぼは美しいものとされぬ。靨は笑に伴い、笑は上品でないからである。だが下女だと、靨のある、太った、ずっしりした身体つきが、好意を以て見られる。
桜餅をふくみえくぼを頬にきざむあどけなさ。一句の中心は季題の桜餅ではなくてえくぼである。次に引眉毛の濃い粧りは夏やせの顔をややけわしく見せ、頬も色彩らぬつかね髪の年増女。
大正女流俳句の近代的特色 (新字新仮名) / 杉田久女(著)
あら大の字の方だわと正直にいふはえくぼの梅子、上の字なんぞ附けてはお万ねえさんに悪いわねえとは、ちびの文子なかなかませたり、下から来た女に堀田原ほったはらの使はと問へばまだといふに
そめちがへ (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
黒吉は、知っている限りの美文を並べると、「えくぼが指先きを吸込むように……」
夢鬼 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
彼女の涼しい目は眠られないふた晩に醜くがり、かわいいえくぼの宿った豊頬ほうきょうはげっそりとせて、耳の上から崩れ落ちたひと握りの縺毛もつれげが、そのとが頬骨ほおぼねにはらりとかかっていた。
五階の窓:04 合作の四 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
えくぼは顔面の某筋肉と某筋肉との空隙へ空気の圧力により皮膚が陥入ったもの
私の幼い記憶に残つてゐる、たあちやんは赤い、うすい髪の毛をひきつめた銀杏返しに結つた、色の黒い目の細い、両頬にえくぼのある忘れられないやうな、何処となくやさしみのある顔だつた。
日記より (新字旧仮名) / 伊藤野枝(著)
金之助きんのすけさんという名前なまえからしておとこらしく、しもぶくれのしたそのかおみのかぶときは、ちいさなえくぼがあらわれて、あいらしかった。それに、このいことには、袖子そでこうなりになった。
伸び支度 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
綺麗きれいでまぶしいようですもの。見ているだけでもい心持になりますわ。あのしっかり締った肉付き、なまでたべてもようございますわね。どうでしょう、えくぼがいっぱい、どこにもかしこにも。
わたしはだまつて美迦野みかのさんのえくぼにうつとりとみとれてゐた。
桜さく島:見知らぬ世界 (新字旧仮名) / 竹久夢二(著)
憎らしきえくぼよ頬っぺたの穴よ。
須賀爺 (新字新仮名) / 根岸正吉(著)
それから、肉眼の注意を逃れようとする微細のうずが、えくぼに寄ろうか崩れようかと迷う姿で、間断なく波を打つ彼女の頬をありありと見た。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
その指はすんなりと長くて肥って、一本一本の関節がうす紅くぼかしたようになって小さい可愛いえくぼさえ浮いていた。
性に眼覚める頃 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
そして、さもしとやかに一礼すると、愛くるしいえくぼを見せて、恰好のよいルージュの唇で、嫣然えんぜん頬笑ほほえむのであった。
猟奇の果 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
『この大きな地球全体を金のかたまりにしてしまうような力と取りかえようと言われても、わしはあの子のあごにある小さなえくぼ一つもくれるんじゃなかった!』
彼女にしてみれば赤の他人のこの少年、その両の頬にあるえくぼ、そのぶかぶかの制帽——そのためになら、彼女は自分の命を投げだしても惜しくはなかったろう。
可愛い女 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
血色けっしょくの鮮かな、眼にもまゆにも活々いきいきした力のあふれている、年よりは小柄こがら初子はつこは、俊助しゅんすけの姿を見るが早いか、遠くからえくぼを寄せて、気軽くちょいと腰をかがめた。
路上 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
そして初めて彼女は、羞ずかしそうに頬をあからめて、溶けんばかりのえくぼうかべながら私の方を見上げました。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
煙草たばこふかしてけむだして、けむなかからおせんをれば、おせん可愛かあいや二九からぬ。色気いろけほどよくえくぼかすむ。かすえくぼをちょいとつっいて、もしもしそこなおせんさま
おせん (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
緋縮緬を手にからむ、襦袢は席の乱れとて、強いて堪えた頬のえくぼに、前髪の艶しとしとと。
南地心中 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
笑うと指の先が沈むほどにも、左右にえくぼが出来るという、そういう眼に立つ女でした。
犬神娘 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
笑うとえくぼと申してちょいと頬に穴があきますが、どういう器械であくか分りませんけれども、その穴は余程深く、二分五厘有ったと云います、誰が尺を突込つッこんで見たか、髪の毛のつやが好く
ともすれば愛嬌あいきょう八重歯が漏れて、頬へえくぼの寄るのを、場所柄必死と噛み殺しているといった肌合の娘です。年は少し取って、やく——どうかしたら、二十歳はたちを越しているのかもわかりません。
「かわいそうに、こんなに、むしゃぶりついて」と、無心なえくぼを指で突いた。
雲霧閻魔帳 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
黒吉は葉子の汗ばんだ、指のつけ根がえくぼのように凹んでいる、柔らかいを、肩に感じると、胸には熱く息吹くくなくなとした乳房を受けた。それは無論、薄い肉襦袢越しではあったが……。
夢鬼 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
赤児が初めて笑い出すえくぼのような、消えやすい笑いだ。
微笑 (新字新仮名) / 横光利一(著)
姉のジーナはえくぼを刻んでパッと眼がめるように艶麗えんれいですし、スパセニアは大空の星でもながめるように、近寄り難い気品を漂わせて、ほんとうの美人というのは
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
波の様に息吐いきづいたり、えくぼのはいったたくましい二の腕が、まぶた一杯に蛇の踊りを踊ったり、それらの、おさえつける様な、凶暴な姿態に混って、大柄な和服姿の彼女が
(新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)