猪口ちょく)” の例文
肉眼で見る代わりに低度の虫めがねでのぞいて見ると、中央に褐色かっしょくを帯びた猪口ちょくのようなものが見える。それがどうもおしべらしい。
沓掛より (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
それに口取くちとり猪口ちょくもお椀も、何から何まで、貝類ばかりなのも弱った。これでは夏の江の島へ行ったようで、北の小樽とは思えない。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
「敵の間諜まわしものじゃないか。」と座の右に居て、猪口ちょくを持ちながら、膝の上で、箇条を拾っていた当家の主人が、ト俯向うつむいたままで云った。
第二菎蒻本 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
破穴やぶれあなからのぞいていますが、これを少しも知りませんで、又作はぐい飲み、猪口ちょくで五六杯あおり附け、追々えいが廻って来た様子で
と、また一本の徳利を逆さに押立てて、したみまでも、しみったれに猪口ちょくの中へたらし込みながらあごでそう言いましたから、女中も心得て
大菩薩峠:38 農奴の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「はじめてのお子さんに男が出来たんだから、あなたは鼻が高い。」と、無愛想な産婆もお愛想笑いをして猪口ちょくに口をつけた。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
私は筵会えんかいの末座に就いた。若い芸者が徳利の尻をまんで、私の膳の向うに来た。そして猪口ちょくを出した私の顔を見て云った。
余興 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
などゝ大人めいた口をきいて皆を笑わせながら、仙吉は猪口ちょくを持つような手つきで茶飲み茶碗からぐい/\と白酒をあおった。
少年 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
しずかにそのいち/\の猪口ちょくを口へ運んで行くさまをみて、いまさらのように自分の、飲みさえすればいゝといった工合の
春泥 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
相変らず、長火鉢の前、婆やに、かんをつけさせて、猪口ちょくを口にしながら、癇性かんしょうらしく、じれった巻きを、かんざしで、ぐいぐい掻きなぞして
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
「君の様に金回りが好くないから、そう豪遊も出来ないが、交際つきあいだから仕方がないよ」と云って、平岡は器用な手付をして猪口ちょくを口へ着けた。
それから (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
日本人に少しも変らず、ヘロヘロといひて、猪口ちょく直段ねだんを付け居り申し候。その所へ障子をからりと明け候て、ロシヤといひながら大男入り来る。
空罎 (新字新仮名) / 服部之総(著)
貞之進はぐっと一思いに猪口ちょくをあけて、隣の男へ返そうとしたが、生憎向うむいて一心に談話はなしを仕て居るので、何と云って呼んでいゝか分らない。
油地獄 (新字新仮名) / 斎藤緑雨(著)
私が見たんじゃ、何だか円い変なお猪口ちょくのような物で、何になるのだか見当が附かないから、分らないというと、でも、まあ、当てて見ろという。
平凡 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
そうしたら、うしろで「いやあだ。」と云う声と、猪口ちょく糸底いとぞこほどのくちびるを、らせて見せるらしいけはいがした。
田端日記 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
やがて景蔵が湯桶ゆとうの湯を猪口ちょくに移し、それを飲んで、口をふくころに、小女こおんなは店の入り口に近い台所の方から土間づたいに長い腰掛けの間を回って来て
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
三つは栗色に、一つは青くつやつやしている。とげのある猪口ちょくにはいったのと、二つの猪口なしと、まだ若い細いのと。どん栗を拾ったことがなにか嬉しい。
島守 (新字新仮名) / 中勘助(著)
と云ったその言葉は極めて簡単であったが、打水の涼しげな庭の景色けしきを見て感謝の意をふくめたような口調くちぶりであった。主人はさもさもうまそうに一口すすって猪口ちょくを下に置き
太郎坊 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
吉里が入ッて来た時、二客ふたりともその顔を見上げた。平田はすぐその眼をらし、思い出したように猪口ちょくを取ッて仰ぐがごとく口へつけた、酒がありしや否やは知らぬが。
今戸心中 (新字新仮名) / 広津柳浪(著)
「まア、一つさしましょう」と、僕は吉弥に猪口ちょくを渡して、「今お座敷は明いているだろうか?」
耽溺 (新字新仮名) / 岩野泡鳴(著)
じっと平次を見詰めた女の眼、——一と息に猪口ちょくをあけると、平次の手に持たせて銚子ちょうしを上げます。
広い意味で伊万里といえば、上は柿右衛門色鍋島かきえもんいろなべしまたぐいから下は「くらわんか」や猪口ちょくに至るまでも包含させる。古作品である場合それらのものはとりどりに美しさがある。
北九州の窯 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
行手ゆくての岸には墨絵の如くにじんだ首尾しゅびの松。国貞は猪口ちょくを手にしたまま
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
先生に話をした処が、先生の世話で残らずの蔵書を代金十五両で臼杵藩にかっもらい、一口ひとくち大金たいきん十五両が手に入り、その他有らん限り皿も茶碗も丼も猪口ちょくも一切うって、ようやく四十両の金がそろ
福翁自伝:02 福翁自伝 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
と突然猪口ちょくをさしつけた。多勢の酔った声が、呑め呑めとわめいた。
日は輝けり (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
新吉は、晩に寝るとき、滋養に濃い酒を猪口ちょくに一杯ずつ飲ませなどした。伝通院前に、灸点きゅうてんの上手があると聞いたので、それをも試みさした。
新世帯 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
兄弟はくつろいでぜんについた。御米も遠慮なく食卓の一隅ひとすみりょうした。宗助も小六も猪口ちょくを二三杯ずつ干した。飯にかかる前に、宗助は笑いながら
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
新「これは感心、何うもその猪口ちょくの中へ指を突込んで加減をはかると云うのは其処そこは盲人でも感服なもの、まア宗悦よく来たな、なんと心得て来た」
真景累ヶ淵 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
そののち安政元年に五十歳になってから、猪口ちょくに三つをえぬことにした。猪口は山内忠兵衛の贈った品で、宴に赴くにはそれをふところにして家を出た。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
さらについたのは、このあたりで佳品かひんと聞く、つぐみを、何と、かしら猪口ちょくに、またをふっくり、胸を開いて、五羽、ほとんど丸焼にしてかんばしくつけてあった。
眉かくしの霊 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「失礼も何もあるものか——いや美婦の紅唇くちびるにふれた猪口ちょくのふち——これにまさるうれしいものはござるまいて——」
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
彼の右隣の男は、今や十二分に酩酊めいていで、オイといっ猪口ちょくをその芸妓にし、お前の名は何と云う、名札を呉れ名札をと、同じことを二つ重ねて問懸けた。
油地獄 (新字新仮名) / 斎藤緑雨(著)
猪口ちょくしらあえ、わんの豆腐のあんかけ、さらの玉子焼き、いずれも吉左衛門の時代から家に残ったうつわに盛られたのが、勝手の方から順にそこへ運ばれて来た。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
そういって、その一人は、話にほぐれてしばらく閑却してあった自分のまえの猪口ちょくを気のついたように取上げた。——その一人とはいうまでもなく田代要次郎。
春泥 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
それから平貝たいらがいのフライをさかなに、ちびちび正宗まさむねを嘗め始めた。勿論下戸げこの風中や保吉は二つと猪口ちょくは重ねなかった。その代り料理を平げさすと、二人とも中々なかなか健啖けんたんだった。
魚河岸 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
男はこれに構わず、膳の上に散りしかいたる鰹節を鍋のうちつまんで猪口ちょくを手にす。ぐ、む。
貧乏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
波佐見はさみの中尾山から「くらわんか」や五郎八ごろはち茶碗の破片が沢山出る。古くそこで石焼きの雑器を大量に作ったのである。長与ながよ近在の窯跡から例の染附そめつけ猪口ちょくの断片が沢山出る。
北九州の窯 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
しずくれそうな猪口ちょくを、お楽は小さく両手で受けてニッコリしました。妙に脂の乗ったなまめかしさは、嫌な言葉ですが「ニンマリ笑った」と言うのが一番適当しているでしょう。
酒のない猪口ちょくが幾たび飲まれるものでもなく、食いたくもない下物さかなむしッたり、煮えつく楽鍋たのしみなべ杯泉はいせんの水をしたり、三つ葉をはさんで見たり、いろいろに自分を持ち扱いながら
今戸心中 (新字新仮名) / 広津柳浪(著)
考え込むと、深い吐息といきで、手に持つ猪口ちょくがフラフラと傾いて酒がこぼれそうになる。気がついてグッと呑んで、余滴よてきをたらたらと水の上に落して、それを見るともなく見つめて無言。
普通の猪口ちょくよりやや大ぶりな杯に一杯傾けたのがいて来て、少しちらちらするせいか、舞台がずっと遠いところにあるように感ぜられ、人形の顔や衣裳の柄を見定めるのに骨が折れる。
蓼喰う虫 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
僕は、また、猪口ちょくを口へ運んでいた。
耽溺 (新字新仮名) / 岩野泡鳴(著)
三四郎は「ええ、ありがとう、おかげさまで」というようなことをまじめに答えながら、下を向いて、お猪口ちょく葡萄豆ぶどうまめをしきりに突っつきだした。
三四郎 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
其の酒の中へぽっちり、たらりと落して、一合の中へ猪口ちょくに四半分もポタリと落してやるとなんとも云えんあじわいのものだ、飲む気が有るなら遣ろうか
政談月の鏡 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
同時にお作が次の間へ着換えに起って、人々の前には膳が運ばれ、陽気な笑い声や、話し声が一時に入り乱れて、猪口ちょくが盛んにそちこちへ飛んだ。
新世帯 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
と真四角に猪口ちょくをおくと、二つげの煙草たばこ入れから、吸いかけた煙管きせるを、かね火鉢ひばちだ、遠慮なくコッツンとたたいて
眉かくしの霊 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そう心に呟きながら、猪口ちょくをはこぶ、彼女のあだッぽい瞳に、ほんのりと浮んで来たのは、夜目にも、白く咲いた花のような、かの女がたの艶顔えんがんだった。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
お粂が持って来て客と父との前に置いた膳の上には、季節がらの胡瓜きゅうりもみ、青紫蘇あおじそ、枝豆、それにきざみずるめなぞを酒のさかなに、猪口ちょく割箸わりばしもそろった。
夜明け前:04 第二部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
女は最初自分の箸を割って、盃洗はいせんの中の猪口ちょくを挟んで男に遣った。箸はそのまま膳の縁に寄せ掛けてある。永遠に渇している目には、またこの箸を顧みる程の余裕がない。
牛鍋 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
ちょうど一杯始めていた牧野まきのは、この飲み仲間の顔を見ると、早速手にあった猪口ちょくをさした。田宮はその猪口を貰う前に、襯衣シャツを覗かせたふところから、赤い缶詰かんづめを一つ出した。
奇怪な再会 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)