懊悩おうのう)” の例文
旧字:懊惱
何かの場合ごとに今日の夫人の懊悩おうのうする心の端は見えても、さりげなくおさえている心持ちに院は感謝しておいでになるのであった。
源氏物語:34 若菜(上) (新字新仮名) / 紫式部(著)
お勢母子ぼしの者の出向いたのち、文三はようやすこ沈着おちついて、徒然つくねんと机のほとり蹲踞うずくまッたまま腕をあごえりに埋めて懊悩おうのうたる物思いに沈んだ。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
夜遅く栗橋に出て大越の土手を終夜歩いて帰って来たこともある。女の心のしがたいのに懊悩おうのうしたことも一度や二度ではなかった。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
すべての疑惑、煩悶はんもん懊悩おうのう、を一度に解決する最後の手段を、彼は胸のなかにたたみ込んでいるのではなかろうかとうたぐり始めたのです。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
長い懊悩おうのうも、憂鬱ゆううつも、忍耐も、寂しい寂しい異郷のひとり旅も、すべては皆この一つを感知するために有ったかのように思われて来た。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
それにしても、その典麗な顔をネジ曲げるような、不安とも懊悩おうのうとも付かぬ、不思議な表情の往来するのはうしたことでしょう。
死の予告 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
それほどに懊悩おうのうしてジリジリと興奮するまで文学を嫌い抜いていたのは、一つは「このいやという存在の声」が手伝っていたのである。
二葉亭四迷の一生 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
苛責かしゃく懊悩おうのうに、のべつ追い廻されているように、彼は、死に場所を探し歩いた。だが、死を考えているうちは、まだ死ねなかった。
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
だが、ある時、遂に主人が、この忍男しのびおとこを発見する。すさまじき憤怒ふんぬの形相。煩悶はんもん懊悩おうのうの痛ましい姿、彼は真底から女を愛していたからだ。
魔術師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
瞳の色は、飽くまで冷たかったが、かすかにせまった眉や、顎のあたり、胸底の懊悩おうのうをじっと押しこらえている感じが、歴々ありありと浮び上った。
貞操問答 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
従而したがって、やがて後年ひとたび真実の形にはいると、全身をもって物の真底にふれ懊悩おうのうしだした麒麟児きりんじの姿がハッキリ分るように思うのである。
引緊ひきしまった面に、物を探る額の曇り、キと結んだ紅いくちびる懊悩おうのうと、勇躍とを混じた表情の、ひらめきを思えば、類型の美人ということが出来よう。
樋口一葉 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
悩ましい日の色は、思い疲れた私の眼や肉体を一層懊悩おうのうせしめた。奈良ならからも吉野よしのからもいたるところから絵葉書などを書いて送っておいた。
黒髪 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
懊悩おうのうの果には、あの気品の高い正直な青年が、奴隷の微笑をさえ頬に浮べるようになったのだ。混沌の特産物である自己嫌悪。
惜別 (新字新仮名) / 太宰治(著)
そういう死の懊悩おうのうが彼の幼年時代の数年間を苦しめた。——その懊悩はただ、せい嫌悪けんおによってのみ和げられるのだった。
広い宇宙に生きて思わぬ桎梏かせにわが愛をすら縛らるるを、歯がゆしと思えど、武男はのがるるみちを知らず、やるかたなき懊悩おうのうに日また日を送りつつ
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
儂はこれを思うごとに苦悶懊悩おうのうの余り、しば数行すこう血涙けつるい滾々こんこんたるを覚え、寒からざるに、はだえ粟粒ぞくりゅうを覚ゆる事数〻しばしばなり。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
そう云う訳で、敵も味方も疑心暗鬼に囚われている最中に、法師丸はひとり昨夜の失敗を思い出しながら懊悩おうのうしていた。
それ以来、夢を見るには見るけれど、夢の後に来るものは驚愕にあらずして、多少の懊悩おうのうと懐疑とです。はなはだ稀れには歓喜であることもあります。
大菩薩峠:29 年魚市の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
懊悩おうのうとしてうきへざらんやうなる彼の容体ようたい幾許いくばくの変も見えざりけれど、その心に水と火の如きものありて相剋あひこくする苦痛は、ますます募りてやまざるなり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
軽部は懊悩おうのうした。このことはきっと出世のさまたげになるだろうと思った。ついでに、良心の方もちくちく痛んだ。
(新字新仮名) / 織田作之助(著)
そうして、懊悩おうのう嫌悪けんおの念を持って、わたしは去年のシーズンのことや、ウェッシントン夫人のことを思い出した。
故に人としてきんためには、是非とも信仰を保持せるままにて難問題の解決に当らなければならない。ここに困難があり、ここに苦悶懊悩おうのうが生れる。
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
それを見てからといふもの、僕がどんな懊悩おうのうの日夜を送つたかは、くどくどしく述べる気力がない。一口に言へば、僕は嫉妬しっとと恋の鬼になつたのである。
わが心の女 (新字旧仮名) / 神西清(著)
山中はいつものごとく御看病ととなえて。なにか浜子のへやにてしきりに咄しさい中なり。勤は帰朝以来何か感ずるところありて。懊悩おうのうとして心楽しまず。
藪の鶯 (新字新仮名) / 三宅花圃(著)
そう判ると、かすかな嫉妬を覚えたけれども、これまでの惨苦も懊悩おうのうも一時に消え失せて、残った白紙のまばゆさには、何もかも忘れ果ててしまうのだった。
人魚謎お岩殺し (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
唐突だしぬけ嫁入よめらせると、そのぞっこんであった男が、いや、失望だわ、懊悩おうのうだわ、煩悶はんもんだわ、すべった、転んだ、ととかく世の中が面倒臭くって不可いかんのです。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
自分のひそかに通っていたかるの村の愛人が急に死んだ後、或る日いたたまれないように、その軽の村に来てひとりで懊悩おうのうする、そのおりの挽歌でありますが
大和路・信濃路 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
犬吠岬いぬぼうざきの茶店の主人の話だそうである。三十年来の経験で、自殺者心中者はたいてい様子でわかる。思案にくれて懊悩おうのうしているようなのはかえって死なない。
柿の種 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
大至急の手紙には如何いかなる事を言来いいきたりけん、大原はその夜終宵よもすがら懊悩おうのうしてもやらず、翌日も心のくるしみに堪え難くてや起きも上らで昼過ぐるまで床の内にあり。
食道楽:春の巻 (新字新仮名) / 村井弦斎(著)
今までどうも作句の上に不満足な点があった、どうかしてそこを逃れ出て新しい境地に入りたいと懊悩おうのうしていたが、それがこの句を得たと同時に合点がいった。
俳句とはどんなものか (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
彼は逃げようとして絶えず隙をうかがってでもいるような、何かぴったりとしない葉子の気分に、淡い懊悩おうのうと腹立たしさを感じながら、それを追窮する勇気もなく
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
終日懊悩おうのう。夕方庭をぶら/\歩いた後、今にも降り出しそうな空の下に縁台えんだいに腰かけて、庭一ぱいに寂寥さびしさく月見草の冷たい黄色の花をやゝ久しく見入った。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
しかし帰農したらば安静を得られようと思うのが、あるいは一時の懊悩おうのうから起こるでき心かもしれない。
去年 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
精神も幸福も未来も魂もすべてが、車の歯から歯へ、苦悶くもんから苦悶へ、懊悩おうのうから懊悩へと、陥ってゆく。
其の夜、下宿にかえった僕が、悔恨かいこん魅惑みわくとの間に懊悩おうのうの一夜をあかしたことは言うまでもない。
階段 (新字新仮名) / 海野十三(著)
この娘は恋の懊悩おうのうの為、この年の翌々年、宝永二年に死んでしまうことになっているが、人間は単に恋のような精神的の苦悩の為に滅多に死ぬものではないと私は思う。
宝永噴火 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
そして彼はもだえ、一刻前のすべての輝ける希望と、喜びとはたちまち絶望と懊悩おうのうとに変わった。
わざと描かれたうす桃色のつたない色調のうちから誘われた、さまざまの記憶にうかんでくる女の肉線を、懊悩おうのうき乱された頭に、それからそれへと思い浮べるのであった
幻影の都市 (新字新仮名) / 室生犀星(著)
もうどうすることもできない。北山や綣村を相手にして気狂いの真似をしながら生涯を終ることにしよう……この諦観ていかんに達するまでにハムレットはどれほど懊悩おうのうしたことか。
ハムレット (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
彼は権力と己の芸術心との間に煩悶はんもん懊悩おうのうした上で、三上皇の御製を採ったのでないかと思う。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
しかし彼は、さびしくのけ者になって、何の望みもなく、閉ざされた鎧戸の前に立ったまま、懊悩おうのうのあまり外が見えるような風をしてはいたものの、それでもやはり幸福だった。
絶えざる不安懊悩おうのうにおびえつづけていながらも、いつもの好奇癖で、闇太郎が、何か売り込みものを持って来たと取ると、すぐに、もう内容が見たくてたまらない三斎だった。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
これだけがせいいっぱいの、私のいまの生きかたなのです、そしてこの頃の私は、火のような懊悩おうのうが、心を焼いている。さあ! もっと殴って、もっと私をぶちのめして下さい。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
そのことで彼は懊悩おうのうしていた。その過去と、彼が頭脳と、勇武とにすぐれている事実とから、彼を措いてはこの組織的な行動の統率者たり得る人物は無い、と人々は断じたのである。
霧の蕃社 (新字新仮名) / 中村地平(著)
いわゆる「死すでに名無く生またものうし、英雄恨み有り蒼天に訴う」の如き、また以て彼が懊悩おうのうの情を察するに足らん。看よ、生またものうしの三字、如何に多量の不穏ふおんなる精神を含むか。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
到頭七里ヶ浜の湘南しょうなんサナトリウムで、懊悩おうのうしながら療養の日を送ってしまいました。
墓が呼んでいる (新字新仮名) / 橘外男(著)
喘息ぜんそく病みの玄石が、肉体的に苦しむのはこうした夜だった。はげしい興奮と、懊悩おうのうとに、全精力を使い尽くしてしまった彼が、こうした寒い夜に、持病の発作を起こしたのは当然だった。
二人の盲人 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
少女を待ち兼ねて懊悩おうのうしていた源は、少女の顔を見るなり恨めしそうに言った。
緑衣人伝 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
雀右衛門は、自分の下僚を呼んで相談し、懊悩おうのうの表現、まことに哀れである。
純情狸 (新字新仮名) / 佐藤垢石(著)