幾条いくすじ)” の例文
旧字:幾條
白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段を尽くせば、むらさきひだあいの襞とをななめに畳んで、白きを不規則なる幾条いくすじに裂いて行く。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
霜枯しもがれそめたひくすすき苅萱かるかやや他の枯草の中を、人が踏みならした路が幾条いくすじふもとからいただきへと通うて居る。余等は其一を伝うて上った。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
木の葉は何時いつか知らぬ間に散ってしまって、こずえはからりとあかるく、細い黒い枝が幾条いくすじとなく空の光の中に高く突立つったっている。
監獄署の裏 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
陣々、さくという柵、門という門から、旗もけむり、馬もいななき、あたかもせきを切って出た幾条いくすじもの奔流の如く、全魏軍、先を争って、五丈原へ馳けた。
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
目の前の提灯屋の屋根瓦の隙間から、白いわらびのような煙が、幾条いくすじとなくスーッスーッと立ちのぼり始めた。手首を挟まれた女は早くも迫る運命に気がついた。
棺桶の花嫁 (新字新仮名) / 海野十三(著)
まだ世馴れざる里の子の貴人きにんの前に出でしようにはじを含みてくれないし、額の皺の幾条いくすじみぞには沁出にじみ熱汗あせたたえ、鼻のさきにもたまを湧かせばわきの下には雨なるべし。
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
こう思っていたんだが、……そう思う間もなくふすまをあけて社長がとびだして来た、額と頬ぺたにひっき傷が幾条いくすじもでき、そこから血が出ているのをおれは見た。
陽気な客 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
やがて彼は小さな身体と大きな頭を地中に棒のように立っている鋤の大きな把手ハンドルにもたれさせた。その眼はからっぽで額には幾条いくすじひだがただしくならんでおった。
はちの巣のやう穴だらけで、炉の煙は幾条いくすじにもなつて此処ここからももぐつて壁の外へにじみ出す、破屏風やれびょうぶとりのけて、さら/\と手に触れると、蓑はすつぽりとはりはなれる。
二世の契 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
立っている華奢きゃしゃな長身が、いたましくわなわなと顫えて、男泣きの涙が、幾条いくすじとなく地に落ちた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
バラバラと取巻とりまく官兵、ギラリギラリと幾条いくすじかの刃が芳年の眼に焼け付きました。
芳年写生帖 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
線は鉄の黒、葉の「ダミ」は銅の緑。幹は黄土の黄を呈する。裏も辺に近き個所は刷毛目、その上に指頭で引いた強い幾条いくすじかの線が入る。この窯では各種の器物ができたであろう。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
太陽たいようはいつかまた雲の間にはいり太い白い光のぼう幾条いくすじを山と野原とにおとします。
チュウリップの幻術 (新字新仮名) / 宮沢賢治(著)
捨吉は帳場のわきへ行って立って、皆の激しく働くさまを眺めた。とがった出刃を手にして最初の縄を切る吉どんの手つきを。皆なでってたかって幾条いくすじかの縄を解く腰つきを。開かれる薦包を。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
わたくしはじめておにかかったときのお服装なりは、上衣うわぎしろ薄物うすもので、それに幾枚いくまいかの色物いろもの下着したぎかさね、おびまえむすんでダラリとれ、そのほか幾条いくすじかの、ひらひらしたながいものをきつけてられました。
かまの周囲にはき上がって流れだした米の汁が、かさかさに幾条いくすじとなくこびりついて、あるものは吉野紙をりつけたごとくに見える。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
東京の方を見ると、臙脂色えんじいろそらに煙が幾条いくすじも真直に上って居る。一番南のが、一昨日火薬が爆発ばくはつして二十余名を殺傷さっしょうした目黒の火薬庫の煙だ。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
その炎の色を映して、幾条いくすじにも裂けている相模川の水は、あたかも坩堝るつぼの溶液が砂利の間を煮え流れているよう。
江戸三国志 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
柱から柱へ幾条いくすじともなく綱を渡して、三十人以上居る、宿の女中たちの衣類が掛けてあったんです。
菊あわせ (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
まず※は幾条いくすじにもける、それでもって打たれるのでかわの裂目のひりひりしたところがはげしくさわるから、ごくごく浅いきずではあるが松葉まつばでも散らしたように微疵かすりきずが顔へつく。
雁坂越 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
この溝渠には曾て月見橋とか雪見橋とか呼ばれた小さな橋が幾条いくすじもかけられていたのであるが、それ等旧時の光景は今はわずかに小林清親の風景板画に於てのみ之を見るものとなった。
上野 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
幾条いくすじの流れが何処いずこからきたり、如何に合さり、何処へ行くのか、地図のみが知っている。玖珠くす川、大山川、三隈みくま川、花月川、そうして筑後川、それらの凡てを一身につなぐのが水郷日田である。
日田の皿山 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
けれどもその腹は一分とたないうちに、恐るべき波を上下じょうげに描かなければやまない。そうして熱そうな汗の球が幾条いくすじとなく背中を流れ出す。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
幾条いくすじもの幕の彼方に、かなりへだててはいたが、その声は、上総介のいるあたりへも、十分に届く声量であった。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
幾条いくすじも幾条もうち中の縁の糸は両親で元緊もとじめをして、さっさらりと鵜縄うなわさばいて、娘たちに浮世の波をくぐらせて、ここを先途とあゆを呑ませて、ぐッと手許へ引手繰ひったぐっては、咽喉のどをギュウの、獲物を占め
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「長安へ出る道はほかにも幾条いくすじもあるのに、丞相には、なぜいつもきまって、祁山きざんへ進み出られるのですか」
三国志:11 五丈原の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
城太郎の元気な足の前には、河も山もあったものではないが、春の晴着をよそおっているお通には、すぐ眼のまえに現われた幾条いくすじもの加茂の水に、はたと困った。
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
幾条いくすじも持っているために、隣接の諸国、たとえば、北条、徳川、織田、斎藤などにしても、彼と外交し、彼と戦い彼と悶着もんちゃくするなど、明けても暮れても、応接にいとまがなかった。
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
つかる所でぶつかり、分れては幾条いくすじにもなり、水と石と高低の多い土地とが、噛みあい、奔激ほんげきし合って、やや落着いている所はまた、身を没しるようなかやの沼地というような原始的な姿だった。
(新字新仮名) / 吉川英治(著)