泥濘でいねい)” の例文
彼を助けて泥濘でいねいから引き出してくれる案内者はいなかった。彼は泥濘から外に出たと思ってる時に、ますますそれに落ち込んでいた。
いたずらに恋愛の泥濘でいねい悶踠もがいているにすぎない彼に絶望していたが、下手にそむけば、逗子事件の失敗を繰り返すにすぎないのであった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
雨に洗われた路面は泥濘でいねいをながして白い小石が光っていた。樹々の芽がほの紅くふくれ、町の屋根にはうすい水蒸気があがっている。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
大石橋だいせっきょうの戦争の前の晩、暗いやみ泥濘でいねいを三里もこねまわした。背の上から頭の髪まではねが上がった。あの時は砲車の援護が任務だった。
一兵卒 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
水は半ば凍り、泥濘でいねいはぎを没する深さで、行けども行けども果てしない枯葦原かれあしはらが続く。風上かざかみまわった匈奴の一隊が火を放った。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
二十七、八年ごろの銀座の大通りが馬糞と塵埃のカクテル、雨でも降ると文字どおり泥濘でいねい膝を没する有様、銀ブラどころの騒ぎでなかった。
明治世相百話 (新字新仮名) / 山本笑月(著)
芭蕉の行く旅の空には、いつも長雨が降りつづき、道は泥濘でいねいにぬかっていた。前途は遠く永遠であり、日は空に薄曇っていた。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
かかる悪霊の犠牲になった人間は、勿論もちろんただ堕落の一路を辿り、一歩一歩、ぬきさしならぬ泥濘でいねいの深みにはまり込んで行く。
我が草庵の門前はうぐいす横丁といふて名前こそやさしいが、随分嶮悪けんあくな小路で、冬から春へかけては泥濘でいねい高下駄を没するほどで
病牀六尺 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
女乞食は泥濘でいねいの上の横倒しから藻き上ろうと試みながらも立上るに使えば便利な右手を男乞食と掴り合ったまゝ離しません。
生々流転 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
谷間の向こうに現われ、常に密集して、頭上に破裂する霰弾さんだんの雲をついて、モン・サン・ジャン高地の恐ろしい泥濘でいねいの急坂を駆け上って行った。
嫌われたあげくに無理心中して、生残った男と酒が飲みたい。晴れた春の日の、日比谷公園に行くなかれ。雨の降る日に泥濘でいねい本所ほんじょを散歩しよう。
曇天 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
そしてようやくなだめられて辞去したのちも、絶望のあまり終夜、泥濘でいねいにまみれてペテルブルグの近郊をかれた者のようにさまよったのであった。
雪解の沼のような泥濘でいねいの中に寝て、戦争をしたこともあった。頭の上から、機関銃をあびせかけられたこともあった。
渦巻ける烏の群 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
斬られた者のうめき声が、泥濘でいねいにまみれてそこここに断続だんぞくする。濡れた刀が飛び違い、きらめき交わして、宛然えんぜんそれは時ならぬ蛍合戦ほたるがっせんの観があった。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
雪曇りの空が、いつの間にか、みぞれまじりの雨をふらせて、狭い往来を文字通り、はぎを没する泥濘でいねいに満そうとしている、ある寒い日の午後の事であった。
仙人 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
日本がそのあらゆる欠点を暴露した敗戦泥濘でいねいのさなかに於て、彼の人生の問題がこんなところに限定されているということが、文学の名に於てあまりにも悲惨である。
咢堂小論 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
嶺は五六年前に踰えしおりに似ず、泥濘でいねいくるぶしを没す。こは車のゆきき漸く繁くなりていたみたるならん。軌道きどうの二重になりたる処にて、向いよりの車を待合わすこと二度。
みちの記 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
九州の牟田の沮洳そじょを意味することは引証にも及ぶまいが、『成形図説』には淖田と書いてむだとませ、近くは『佐賀県方言辞典』にも「ムダ、泥濘でいねいふかき所」とある。
地名の研究 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
上野の式場に行幸みゆきある道筋は、はき清められてあったが、市中の泥濘でいねいは、田の中のようだった。
道すがら雪は容赦なく靴のやぶれから彼の足にしみていたが、泥濘でいねいの中をリヤカーで病人を運んで来る百姓の姿も——更に悲惨な日の前触のように、彼の心をくのだった。
冬日記 (新字新仮名) / 原民喜(著)
そして、彼はむちを振り振り不気味に微笑みながら、厩舎うまやの前を歩き回った。厩舎の前は泥濘でいねいの凸凹のまま、まったく凍ってしまった。コンクリートのように硬くなっていた。
恐怖城 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
姫の美しさは鳰鳥とちがい、清浄であり無垢むくであった。麗人国を泥濘でいねいとすれば、彼女はそこへ咲いた蓮の花であった。周囲まわりが余りに穢れているため、一層彼女は清浄に見えた。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
鎖の半分は頸にぶらさげて泥濘でいねいの地上にそれをきながら、夜中楽しく遊びまはつて居た。
ケルミッシュが、おそらく老年の豹でもあるいたらしい泥濘でいねいの穴に足をとられ、ぺたりと、面形を地につけ動けなくなってしまった。そこには、暖水をこのむ大ありが群れている。
人外魔境:03 天母峰 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
腹当へ、大きく「御用」と、朱書した馬に乗った侍が、雪の泥濘でいねいを蹴って走ってきた。
近藤勇と科学 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
長尾原ながおはらで夕食をなし、これから草津まで暗夜の強行軍。中途より雨さえ加わりてみちは膝を没する泥濘でいねい、とても歩けたものでない。足踏みすべらして谷底へ落ち損なったことが度々あった。
ゆうして皆曰く、たとひるるとも其小屋に到達とうたつし、酒樽しあらば之を傾け尽し、戸倉村にかへりて其代価をはらはんのみと、議たちまち一决して沼岸をわたふかももぼつ泥濘でいねいすねうづ
利根水源探検紀行 (新字旧仮名) / 渡辺千吉郎(著)
とにかく、江戸の市中を、喰うものも喰わず、喪家そうかいぬのように、雪溶けの泥濘でいねいを蹴たててうろつき廻っていた。そして、その暮方に、憔悴しょうすいしきった顔をして、ぼんやり両国の橋のたもとへ出てきた。
四十八人目 (新字新仮名) / 森田草平(著)
わたしたちの宿舎のとなりに老子ろうしの廟があって、滞留の間にあたかもその祭日に逢った。雨も幸いに小歇こやみになったので、泥濘でいねいの路を踏んで香をささげに来る者も多い。縁日商人も店をならべている。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
私は泥濘でいねいの中を拾い歩きして辛うじて佐竹の通に出たのであった。
三筋町界隈 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
神はただ一瞬のうちに、多年の勤労と努力との結果を消滅させ得る。そしてもし欲するならば、泥濘でいねいから永遠なるものを湧出ゆうしゅつさせ得る。
それかと言って器用に身をかわすだけのすべもなく、信じないながらにわざと信じているようなふうをして、苦悩の泥濘でいねいに足を取られていた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
雪にも月にも何の風情ふぜいを増しはせぬ。風が吹けば砂烟すなけむりに行手は見えず、雨が降れば泥濘でいねい人のきびすを没せんばかりとなる。
彼は泥濘でいねいの中にはいった。表面は水であり、底は泥であった。けれどもそれを通り越さなければならなかった。あとに引き返すことは不可能だった。
傷兵老兵はみな後陣へ引かせ、屈強な壮士ばかりを前に出して、附近の山林をって橋を架け、柴や草を刈って、道をひらき、また泥濘でいねいを埋めて行った。
三国志:08 望蜀の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかもその彼が且泣き且笑ひつつ、蕭雨せううを犯し泥濘でいねいを踏んで、狂せる如く帰途に就きしの時、彼のつぶやいて止めざりしものは明子の名なりしをも忘るる事勿れ。
開化の殺人 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
雪の来たあとの道路は泥濘でいねいが連日かわかず、高い足駄あしだもどうかすると埋まって取られてしまうことなどもある。乗合馬車は屋根のおおいまではねを上げて通った。
田舎教師 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
失望か、否、それ以上の喜びか、感極まった復一の体は池の畔の泥濘でいねいのなかにへたへたとへたばった。
金魚撩乱 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
一つの選択が許される場合、一つのみちが永遠の泥濘でいねいであり、他の途がけわしくはあってもあるいは救われるかもしれぬのだとすれば、誰しもあとの途を選ぶにきまっている。
悟浄出世 (新字新仮名) / 中島敦(著)
やがて水田へかかると、はじめのうちは大した泥濘でいねいでもなかつたが、中途からだんだんぬかりだして、しまひには水がかむつて道の見えぬところさへ出てきた。少年は後悔した。
少年 (新字旧仮名) / 神西清(著)
舷側の水かきは、泥濘でいねいに踏みこんで、二進にっち三進さっちも行かなくなった五光のようだった。
国境 (新字新仮名) / 黒島伝治(著)
そのなまぬるい泥濘でいねいの浴場では、人間の精力、荒々しい生活力、原始的な動物性、その信仰や意志や熱情や義務の花などは、溶解してしまっていた。
それにまた、ようやく奇跡のように脱してきたあの泥濘でいねいあなを、どうして再び通ることができよう。更にその泥濘の後には、あの警官の巡邏隊じゅんらたいがあるではないか。
長雨ながあめの続いた夜、平中は一人本院の侍従のつぼねへ忍んで行つた。雨は夜空が溶け落ちるやうに、すさまじい響を立ててゐる。路は泥濘でいねいと云ふよりも、大水が出たのと変りはない。
好色 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
既に少くも二回は喀血かっけつを経験している男が、雪どけの氾濫はんらん泥濘でいねいと闘い単身がた馬車に揺られどおしで横断して、首尾よく目的地に着いて冷静きわまる科学的データの蒐集しゅうしゅうに従い
休息の地のないままに一夜泥濘でいねいの中を歩き通したのち、翌朝ようやく丘陵地に辿たどりついたとたんに、先廻さきまわりして待伏せていた敵の主力の襲撃にった。人馬入乱れての搏兵はくへい戦である。
李陵 (新字新仮名) / 中島敦(著)
雨の日には泥濘でいねいの深い田畝道たんぼみちに古い長靴ながぐつを引きずっていくし、風の吹く朝には帽子を阿弥陀あみだにかぶって塵埃じんあいを避けるようにして通るし、沿道の家々の人は、遠くからその姿を見知って
少女病 (新字新仮名) / 田山花袋(著)
十里泥濘深海 十里 泥濘でいねい 海よりも深けれども
礫川徜徉記 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
が、ひどい泥濘でいねいだ。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)