正面まとも)” の例文
兩手を上げて後頭部をさゝへた脇の下から兩乳りやうちゝのふくらみが、ともしびの光を正面まともに受けて、柔い線をば浮立つばかり鮮かにさせて居る。
新帰朝者日記 (旧字旧仮名) / 永井荷風(著)
広栄は左右にけた障子の一方の陰にいたので正面まともに客と顔をあわせなくてもよかった。客はあの匪徒ひとの中の松山と半ちゃんであった。
春心 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
しかし斯うした商売の人間に特有——かのような、陰険な、他人の顔を正面まともに視れないような変にしょぼ/\した眼附していた。
子をつれて (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
呼吸いきを吹いて正面まともに門の処に並んでいるので、お夏は日傘をたてにしてあなたこなた隙間すきま差覗さしのぞくがごとくにしたが進みかねた。
三枚続 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
正面まともに見れば、その表情は少し曖昧あいまいで不定で複雑だった。眼と顔とが不いだった。彼女のうちには、強健な民族の面影が感ぜられた。
貴様にはそれでたくさんだと答えられた。彼はしつこく言い張った。主人は彼を正面まともにじっと見つめて、そして言った。監獄に気をつけろ!
へ、へ、へ、その中には、お前さんのように、結構で、立派で、何とも見ッともなくって、正面まともに見られねえ馬づらもまじってはいるが——
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
見ていても顔から火が出るよう……笑止といっていか、馬鹿々々しいといって好いか、とても顔を上げて正面まともに見られた図ではありません。
黒吉は、彼女の顔を正面まともに見る事が、出来なかった。そして、足の先きを、ごそごそ動かしながら、打切棒ぶっきらぼうに、こういった。
夢鬼 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
その時、年長としうえの岡見が正面まともに捨吉を見た眼には心の顔を合せたようなマブしさがあった。捨吉は何とも答えようが無かった。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
私もここに野暮にして重厚な真心をもって、×××氏がカレントに、小粒ながら真実深き評言を正面まともに人生に向って投げられるように希望する。
是は現実的な感想 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
朝陽を正面まともに浴びたところを見ると、染色も褪せ、地も摺り切れて、見るかげも無い振袖ですが、昔はどんなに美しかったろうと思われる品です。
早速の機転で小僧がけて出す裸か蝋燭、その光りを正面まともに食って、勘次に押えられた因業家主の大家久兵衛、眼をぱちくりさせて我鳴り出した。
自分は胸きりの水中容易に進めないから、しぶきを全身に浴びつつ水にせて顔を正面まともに向けて進むことはできない。
水害雑録 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
その哀れな姿を一目見るとフランソアズはたまらなくなって、いきなりち上って、正面まともに裁判官の方へ向き直った。
情状酌量 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
私は先方むこうかくしている年を正面まともから訊いてかゝるくらいだから、遠慮がない。その結果、この年長者連中に馴染んで、殊に長谷川さんと仲好しだった。
凡人伝 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
転がったのが天佑てんゆうであった。戸が開くと同時に恐ろしい物が、彼を目掛けて襲いかかって来た。それを正面まともに受けたが最後、彼は微塵みじんにされただろう。
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
頭巾を取らないで八幡様のお宮の正面まともを避けるようにして、水屋みずやの方へ漫歩そぞろあるきをしているのに、お君はそれと違って、お宮の前へ出てうやうやしく拝礼しました。
其でも先方さきが愚図〻〻いへば正面まともに源太が喧嘩を買つて破裂ばれの始末をつければ可いさ、薄〻聴いた噂では十兵衞も耳朶の一ツや半分り奪られても恨まれぬ筈
五重塔 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
正面まともに私の顔も見ないで、先生に折入ってお願いしたい事がありまして夜中伺いましたって、この御紹介状を差出したんですが、その手がまたぶるぶると震るえて
あの顔 (新字新仮名) / 大倉燁子(著)
彼女かのぢよいままでのくゐは、ともすればわけたてかくれて、正面まとも非難ひなんふせいでゐたのをつた。彼女かのぢよいま自分じぶん假面かめん引剥ひきはぎ、そのみにくさにおどろかなければならなかつた。
(旧字旧仮名) / 水野仙子(著)
柔らかい春の陽を正面まともに、陽炎かげろうも立ちそうな崖の山芝を背に、官兵衛は、木の切株に腰かけていた。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
風が正面まともから吹きつけ始めると、はやくも後悔の色を浮かべて、帽子の鍔をぐつとまぶかに引きさげながら、ぶつぶつと自身や、悪魔や、教父に向つて小言を浴びせかけた。
尤も形の徐々そろそろ壊出くずれだした死骸を六歩と離れぬ所で新鮮の空気の沙汰も可笑おかしいかも知れぬが——束の間で、風が変って今度は正面まとも此方こっちへ吹付ける、その臭さに胸がむかつく。
女は敬太郎の視線を正面まともに受けた時、心持身体からだむきを変えた。それでもなお落ちつかない様子をして、右の手を耳の所まで上げて、びんかられた毛をうしろへ掻きやる風をした。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
正面まともに見てまぶしくない大きな黄銅色しんちゅういろ日輪にちりんが、今しも橋場はしば杉木立すぎこだちに沈みかけた所である。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
流の彼方あツち此方こツちで、うかすると燦爛たる光を放つ……霧は淡い雲のやうになツて川面を這ふ……向ふの岸に若いをんなが水際に下り立ツて洗濯をしてゐたが、正面まともに日光を受けて、着物をしぼしづく
解剖室 (旧字旧仮名) / 三島霜川(著)
ところが、神様を正面まともに見ることの出来ぬ人が最近次第に増してきました。悪思想が青年諸君を目指してやってくるのです。みなさアん、これは悪霊です。尤もらしい衣をまとったサタンなのです。
反逆 (新字新仮名) / 矢田津世子(著)
氏の詩を正面まともに理解して居なかつたものである。一体今でも然うであるがジヨーナリスチツクな観方はごく悪い。わけても或運動を起して浅薄な考で他人を批議するやうなことは避けなければならぬ。
明治詩壇の回顧 (新字旧仮名) / 三木露風(著)
正面まともにその女の顔をみた者もないが、どうも若い女であるらしい。
半七捕物帳:43 柳原堤の女 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
冬の日を正面まともに受けてやや寒くまかがやく赤き鳥居小さしも
雲母集 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
往来へ出て月の光を正面まともけた顔は確かにおしょうである。
恋を恋する人 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
それを周平は正面まともにじっと見返した。
反抗 (新字新仮名) / 豊島与志雄(著)
暫らくすると廊下に足音がして、ドアは静かに外から開けられました。窓から入る朝の光線を正面まともに浴びて、入口に立ったのは、高雅な若い紳士——。
ちこちに夜番よばん拍子木ひょうしぎ聞えて空には銀河のながれ漸くあざやかならんとするになほもあつしあつしと打叫うちさけびて電気扇でんきせん正面まともに置据ゑ貸浴衣かしゆかたえりひきはだけて胸毛を
矢はずぐさ (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
縺毛もつれげ一条ひとすじもない黒髪は、取ってさばいたかと思うばかり、やせぎすな、透通るような頬を包んで、正面まともに顔を合せた、襟はさぞ、雪なす咽喉のどが細かった。
南地心中 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
具合の悪いことに、佳子さんの弟のたすく君がノコッと出て来た。正面まともに顔を合せてしまったから退っ引きならない。
求婚三銃士 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
それは数月前すうげつぜんに自動車にかれて惨死ざんしした山脇やまわきと云う書生の顔であった。書生の顔は正面まともに主翁の眼に映った。
黄灯 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
しかし、おおやけの席で、こんなふうに正面まともにぶつかりそうになる形勢は初めて見ることであります。
大菩薩峠:15 慢心和尚の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「この点あなたが考えなおさないと、対人関係も仕事も正面まともには行かないと思う。生意気のようだが、何か肝心のものが欠けている。そう云う外側からだけの考えでは——」
沈丁花 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
その感情を彼女は正面まともにながめることを避けたが、しかしそれはいかなる考えにも打ち消されずに、ちょうど顳顬こめかみの重苦しい脈搏みゃくはくのように、いつまでも頭から去らなかった。
幾重いくえにも勘弁して下されと三ツ四ツ頭を下げれば済んでしまうことだわ、案じ過しはいらぬもの、それでも先方さきがぐずぐずいえば正面まともに源太が喧嘩を買って破裂ばれの始末をつければよいさ
五重塔 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
お吉は大鎌を振り冠り、嬉しさに声をふるわせながら正面まともに島君に立ち向かった。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
警部の鈍栗眼どんぐりまなこが、喰入るように彼の額に正面まともに向けられた。彼はたじろいだ。
子をつれて (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
薄陽うすびと河風を顔の正面まともにうけて源三郎は、駒の足掻あがきを早めた。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
赤松の直立すぐたつ見ればあきらけく正面まともの西日木膚こはだ照らせり
白南風 (旧字旧仮名) / 北原白秋(著)
前後の事情から考へ合せて見ると、家光の手に持つて居る茶碗の中に、正面まともな藥湯が入つて居るわけはありません。
旅をする人が、飛騨ひだの山では蛭が降るというのはあすこでござんす。貴僧あなたは抜道をご存じないから正面まともに蛭の巣をお通りなさいましたのでございますよ。
高野聖 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
人通りはほとんどない、もう四時過ぎたかも知れない。傾いた日輪をばまぶしくもなく正面まともに見詰める事が出来る。
深川の唄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「さあ、そうですね」女は黒い眼でじっと正面まともに省三の顔を見つめたが、「三十二三でいらっしゃいますか」
水郷異聞 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)