慄然ぞっ)” の例文
熱い日に照されて土弄つちいじりをしていたが、無智な顔をして畑から出て来る汚いその姿を見たときには、お島は慄然ぞっとするほど厭であった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
やがては肉も骨も溶け去ってしまうだろうと——まったく聴いてさえも慄然ぞっとするような、ある悪疫のおそれを抱くようになってしまった。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
極めて無邪気な、人形のような美しい微笑を浮かべていたので、こんな事に慣れ切っていた草川巡査が、何故ともなく慄然ぞっとさせられた。
巡査辞職 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
「よしてくれ。聞いただけでも慄然ぞっとする。そりゃあ私だってこうなったら仕方がない。そうして、これからどこへ行く積りだ」
半七捕物帳:31 張子の虎 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
そして、そのわずかばかり口元を歪めて笑った顔は、あの最初の邂逅かいこうの夜に、私を慄然ぞっとさせたのと同じ、鬼気を含んだ微笑ほほえみであった——。
腐った蜉蝣 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
庭の松が、ただ慄然ぞっとするほど、その人待石の松と枝振は同じらしい。が、どの枝にも首をくく扱帯しごきは燃えてはおりません。
河伯令嬢 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
それは人間の声ともつかず獣の声ともつかず、或時あるときかすかに或時は鋭く、高く……聞いていると骨の髄から慄然ぞっとするような恐ろしい声だった。
殺生谷の鬼火 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
そして、物凄い、慄然ぞっとするような物音を立てて、その鎖を揺振ゆすぶったので、スクルージは気絶してはならないと、しっかりと椅子に獅噛み着いた。
と思うと、慄然ぞっとして、頭髪かみのけ弥竪よだったよ。しかし待てよ、はたられたのにしては、この灌木の中に居るのがおかしい。
思いだしてさえ慄然ぞっとしてうなされるくらいです。余計なおせっかいをするようだが、あの列車だけはお止めなさい。
「それではお前まだ聞かぬか? その美しい鳰鳥には、聞いただけでも慄然ぞっとする咒咀のろいまつわっておるそうじゃ」
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
東洋趣味のボー……ンと鳴り渡るというような鐘の声とは違って、また格別な、あのカン……と響くかん音色ねいろを聴くと、慄然ぞっ身慄みぶるいせずにいられなかった。
不吉の音と学士会院の鐘 (新字新仮名) / 岩村透(著)
自分じぶんもかくかせめられて、おな姿すがた泥濘ぬかるみなかかれて、ごくいれられはせぬかと、にわかおもわれて慄然ぞっとした。
六号室 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
すると、やが慄然ぞっとしてねむたいやうな氣持きもち血管中けっくわんぢゅう行渡ゆきわたり、脈搏みゃくはくいつものやうではなうて、まったみ、きてをるとはおもはれぬほど呼吸こきふとまり、體温ぬくみする。
私は、慄然ぞっとするような気がして、これはなるたけ障らぬようにして置くが好いと思って、後を黙っていると、先は、反対あべこべに、何処までも、それを追掛おっかけるように
別れたる妻に送る手紙 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
子供——というのが、場合が場合だけに、深更ひとしおの妖異じみた恐怖を呼んで、化物屋敷の連中われにもなく思わず慄然ぞっと身の毛をよだたせたその刹那であった。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
二筋三筋扇頭せんとうの微風にそよいでほおあたりを往来するところは、慄然ぞっとするほど凄味すごみが有る。
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
例の腫物しゅもつが見えたので、さすがの高麗蔵さんも、一寸ちょっと慄然ぞっとしたという事です。
薄どろどろ (新字新仮名) / 尾上梅幸(著)
箱のような寝台パアスの中で毛布にくるまって眼を閉じた時、自分に掛かっている嫌疑を思って森為吉は始めて慄然ぞっとした。隠しの中で坂本の小刀ナイフを握ってみた。冷い触感が彼の神経を脅した。
上海された男 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
顔のあたりに垂れているのであった、私はそれを見ると、突然何かに襲われた様に、慄然ぞっとして、五六けん大跨おおまた足取あしどりすこぶたしかに歩いたが、何か後方うしろから引付ひきつけられるような気がしたので
青銅鬼 (新字新仮名) / 柳川春葉(著)
しかし慄然ぞっとさせるような身ぶりで、拳を固めて心臟のうえを叩いた
表面は何食わぬ顔をして万籟ばんらい声なき最中なるに、おそらくは電信機の火花を散らして世界にめぐらした秘密触手を動かしているであろう英国大使館の姿が思わず慄然ぞっと想像されてきたのであった。
ナリン殿下への回想 (新字新仮名) / 橘外男(著)
急いですぐに裏の縁側の処へ行くと、何んだかねばねばしたものを踏みつけて滑り、そして慄然ぞっとして声をあげた——それは提灯の光りで、そのねばねばしたものの血であった事を見たからである。
耳無芳一の話 (新字新仮名) / 小泉八雲(著)
其処そこに誰も居ないものが、スーウと格子戸が開いた時は、彼も流石さすが慄然ぞっとしたそうだが、さいわいに女房はそれを気が付かなかったらしいので、無理に平気を装って、内に入ってその晩は、事なく寝たが
因果 (新字新仮名) / 小山内薫(著)
私が進もうかそうかと考えて、ともかくも翌日あくるひまで待とうと決心したのは土曜の晩でした。ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。私は今でもその光景を思い出すと慄然ぞっとします。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
慄然ぞっとして震えるような気がするであろう。
雪の白峰 (新字新仮名) / 小島烏水(著)
マドレーヌは慄然ぞっとした。
ああほんとうに、あの鬼猪殃々おにやえもぐらの原から、生温なまぬるい風が裾に入りますと、それが憶い出されて、慄然ぞっとするようなふるえを覚えるのでございます。
白蟻 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
お島はあとから附絡つきまとって来る川西の兇暴な力に反抗しつつ、工場のすみに、慄然ぞっとするような体を縮めながらそう言って拒んだ。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
と酒井は笑みを含んだが、この際、天窓あたまから塩で食うと、大口を開けられたように感じたそうで、襖の蔭で慄然ぞっすくんで壁の暗さに消えて行く。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
彼女は不断ごく慎ましくて、幸いに只の一度もそんな浮き名を立てられたことがなかったけれど、今度はけちがつくだろうと思って、慄然ぞっとしました。
麻酔剤 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
たしかに塔の上からである。桂子は慄然ぞっとしながら寝台ベッドをとび下りると、父の部屋へ馳せつけて力任せにドアを叩いた。
廃灯台の怪鳥 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
まさしく人も居ない死体室からなので、慄然ぞっとしたが、無稽無稽ばかばかしいと思って、恐々こわごわとこへ入るとまたしきりそれが鳴り出して、パタリと死体室の札が返るのだ。
死体室 (新字新仮名) / 岩村透(著)
「おふくろさんが猫になったんです」と、お初は思い出しても慄然ぞっとするというように肩をすくめた。
半七捕物帳:12 猫騒動 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
仮面のようなお藤の顔が、こわばった笑いにゆがんだのを見て、与吉は慄然ぞっとしたのだった。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
此日隣のは弥々いよいよ浅ましい姿になって其惨状は筆にも紙にも尽されぬ。一度光景ようすうかがおうとして、ヒョッと眼をいて視て、慄然ぞっとした。もう顔の痕迹あとかたもない。骨を離れて流れて了ったのだ。
『これが現実げんじつうものか。』アンドレイ、エヒミチはおもわず慄然ぞっとした。
六号室 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
張教仁は慄然ぞっとした。そして思わず声をあげた。
沙漠の古都 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
慄然ぞっとした事がありました。
薄どろどろ (新字新仮名) / 尾上梅幸(著)
帰りがけにそっと通ると、何事もない。ふすまの奥に雛はなくて、前の壇のも、烏帽子えぼし一つ位置のかわったのは見えなかった。——この時に慄然ぞっとした。
雛がたり (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
女は慄然ぞっとしたようであった。その落ちくぼんだ胸部や、細々と痩せた手首などが一そう惨々いたいたしく見えた。そして彼女は半ば眼をつぶり、くちをふるわせながら
碧眼 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
その顔に覗き込まれたように慄然ぞっとなって、もう矢も楯もなく、私はハッと眼をじてしまいました。
オフェリヤ殺し (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
お島はその八畳を通るたんびに、そこに財布を懐ろにしたまま死んでいる六部の蒼白あおじろい顔や姿が、まざまざ見えるような気がして、身うちが慄然ぞっとするような事があった。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
それは悲しげな、息詰まるような、聞く者を慄然ぞっとさせる、死に瀕した者の呻きであった。
亡霊ホテル (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
同時にかれは、寒さ以外のものを襟頸えりくびに感じて慄然ぞっとした——物凄いとも言いようのない左膳の剣筋を、そして、狂蛇のようなその一眼を、源十郎は歴然れきぜんと思いうかべたのだ。
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
その時はなんにも気がつきませんでしたが、あとで聞きますと長作はその晩に掛地と泥だらけの双子の羽織とを持ち帰りましたそうで、それを聞いたわたくしは慄然ぞっとしました。
半七捕物帳:27 化け銀杏 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
婦人おんなひややかなる眼をぱっちり、綾子は射られて慄然ぞっとせり。微笑を含みて、「はい、お薬も存じております。」
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
やがてもう一つの駅を通過したが、そのときこそ慄然ぞっとしました。そこに停車信号がかかっているのが見えて、しかも私の列車がその故障線へ飛込んでしまったのです。
「どうして、あんな淫魔インキブス僧正どころの話じゃない」と検事は熊城をたしなめるような軽い警句を吐いたが、かえって、それが慄然ぞっとするような結論を引き出してしまった。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
銃声は柏の林に木魂こだました、そしてぎゃぎゃぎゃん‼ という、慄然ぞっとするような咆哮が聞えたと見る間に、今まで恐ろしい早さで廻っていた鬼火が、ぴたりと地上へ動かなくなった。
殺生谷の鬼火 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)