駿府すんぷ)” の例文
どうせこゝまで来たことだからと、筮竹ぜいちくと天眼鏡を荷厄介にしながら、駿府すんぷまでして見たのだったが、これが少しも商売にならず。
曲亭馬琴 (新字新仮名) / 邦枝完二(著)
「江戸にだけでも二、三百、駿府すんぷ、甲府、上州と、仲間の眼だけが集まりゃ、旗本の一軒や二軒、屋台骨を揺りつぶすぐれいなことは朝飯前だ」
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
駿府すんぷへずらかってる喜三きさの奴が、江戸の真中へ面あ出すわけもあるめえ。待てよ、こりゃあしょっとすると解らねえぞ。
三州の藤太とうたというのが駿府すんぷでお手当になりましたが、激しい捕物で、役人に斬られて間もなく落命、息を引取るとき、宇津谷峠で奪い取った五千両は
枕山はこの年甲寅の夏駿府すんぷに遊び秋に入って北総に赴いた。中秋墨水の観月は嘉永五年以後遂に廃せられたものと見えて、この年も観月の作を見ない。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
いや一橋中納言の家中には、駿府すんぷから江戸へ来て、吉原で遊び、その足で駿府に帰る奴がある、という者がある。
大菩薩峠:25 みちりやの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
先発の藩隊長富永孫太夫とみながまごだゆうをはじめ総軍勢およそ七百八十余人の尾州兵と駿府すんぷで一緒になったことなぞを知った。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
瓦解ぐわかいさい駿府すんぷげなかつたんだとか、あるひげてまたたんだとかことみゝにしたやうであるが、それは判然はつきり宗助そうすけあたまのこつてゐなかつた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
聞て九郎兵衞に取拵とりこしらへごとを云はせんとする心底しんてい不屆きなり安五郎と云は是に居る松平玄蕃頭家來石川安五郎なるぞかれ駿府すんぷ二丁目小松屋のかゝへ遊女いうぢよ白妙しろたへと申を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
鉄砲の射撃にかけては、精妙、ならぶものなしといわれた喜太夫の父、一夢斎稲富直家が慶長十六年に駿府すんぷで死んでから、外記が天下一の名人の座についた。
ひどい煙 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
そして兄妹は師走の寒さにむかって東海道を西へとまた旅を進めた。……正月を迎えたのは駿府すんぷだった。
足軽奉公 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
慶長四年(一五九九)の『孔子家語こうしけご』、『六韜三略りくとうさんりゃく』の印行を初めとして、その後連年、『貞観政要』の刊行、古書の蒐集、駿府すんぷの文庫創設、江戸城内の文庫創設
駿府すんぷざいにちっとばかり識っている人があるから、ともかくもそこへ頼って行って、ほとぼりの冷めるまで麦飯で我慢しているのさ。お前さん、どうしてもいやかえ」
半七捕物帳:31 張子の虎 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
駿府すんぷで徳川家康の亡くなつた元和二年に、黒田家では長政の三女かめが生れた。八年に將軍秀忠が久松甲斐守忠良の娘の十七歳になるのを、養女にして忠之のもととつがせた。
栗山大膳 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
此の頃では深川六間堀ふかがわろっけんぼり蟄息ちっそく致して居ましたが、駿府すんぷから親族の者が出て来まして、金策が出来、商法の目的を附け、んな所へでも開店ようという事に成りましたので
松と藤芸妓の替紋 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
ビベロは駿府すんぷに於て家康に謁見したが、家康は二段から成る台の上に坐り、その四歩前に金張の衝立ついたてがあつて、ビベロはその陰に坐つた。家康は六十ぐらゐで、中背でふとつてゐた。
手越の宿しゅくは、駿府すんぷ(現・静岡)の西で、直義たちは、渡河を敵にさまたげられ、数日の苦戦になやんでいたところだった。
六千兩の御用金は、その日の朝、關所で駿府すんぷの使に引渡し、平次とガラツ八はホツとして江戸へ歸りました。
よくぞんをりさきにも申上候通りかれは一たい實體じつていなる者にて平常へいぜい慈悲じひふかく又女房と申候は駿府すんぷ二丁町の遊女いうぢよなりしを
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
興津おきつの題目堂で変な男と別れてから、東海道を少し南へ廻って、清水港しみずみなとへ立寄り、そこで小半時こはんときも暇をつぶしたが、今度は久能山道くのうざんみち駿府すんぷへ出て、駿府から一里半
大菩薩峠:07 東海道の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
瓦解がかいの際、駿府すんぷへ引き上げなかったんだとか、あるいは引き上げてまた出て来たんだとか云う事も耳にしたようであるが、それは判然はっきり宗助の頭に残っていなかった。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
もう家康は駿府すんぷ隠居いんきょしていたので、京都きょうとに着いた使は、最初に江戸えどへ往けという指図さしずを受けた。使はうるう四月二十四日に江戸の本誓寺ほんせいじに着いた。五月六日に将軍に謁見えっけんした。
佐橋甚五郎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
お俊という奴は江戸を食いつめて駿府すんぷへ流れ込んで、そこでお仕置になったとか聞いています
半七捕物帳:07 奥女中 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
元和げんな二年、家康が駿府すんぷに死ぬと、はじめ久能山くのうざんに葬ったが、のちに移霊の議が起こって、この年の秋から翌年の春にわたって現在の地に建立されたのが、大猷廟だいゆうびょうをはじめ日光の古建築である。
丹下左膳:03 日光の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
東海道回りの大総督の宮もすでに駿府すんぷに到着しているはずだと言わるる。
夜明け前:03 第二部上 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
梅雨つゆの不順な気候にあてられてか、伊藤一刀斎は、旅籠はたごで病みついてしまった。そこへ駿府すんぷから徳川家の重臣が、彼の足跡そくせきをたずねて追って来た。
剣の四君子:05 小野忠明 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
しかるべく御披露を願い度い、五貫目玉、五十丁撃の大筒は間違いもなく作り上げ、駿府すんぷへ二門、江戸へ五門、京都へ二門、船積にて送り届けることと致そう」
江戸の火術 (新字新仮名) / 野村胡堂(著)
説諭ときさとして文藏にみぎの段はなしければ文藏は天へも上る心地こゝちしていとうれしく忠兵衞を神か佛の樣に伏拜ふしをがみ夫より文藏は忠兵衞を同道どうだうして駿府すんぷへ赴き彼常盤屋かのときわやゆきて身請の事を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
また御老中の名代みょうだいに、駿府すんぷの御城代が立寄るといううわさもあるし、それらの接待の準備や、また先日の流鏑馬やぶさめの催しについての跡始末やなにかの相談もあるのであります。
大菩薩峠:15 慢心和尚の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
多吉の話によると、裏二階に泊った駿府すんぷ(静岡)の商人あきんどの二人づれが何者にか殺されて、胴巻の金を盗まれたというのであった。一人は寝ているところを一と突きに喉を刺されたのである。
半七捕物帳:14 山祝いの夜 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
もう大じょうぶです。これからこの野馬のうまにのって、明方までに富士川ふじがわの下までお送りしてあげますから、あれから駿府すんぷへでて、いずこへなり、身を
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「生憎ね、急の御用で駿府すんぷへ行つたの、月末でなきや戻りませんよ——八五郎さんぢやどう?」
日数ひかずいくつか重ねて駿府すんぷの町へ入りました。お君は駿府の二丁目を流して歩くと案外にも多くの収入みいりがありましたから、これから二三日はかせがなくてもよいと思いました。
大菩薩峠:07 東海道の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
幕府が瓦解がかいの後、久住は無禄移住を願い出て、旧主君にしたがって駿府すんぷ(静岡)へ行ったので、陪臣の箕部もまたその主君にしたがって駿府へ移ったが、もとより無禄というのであるから
有喜世新聞の話 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
駿府すんぷの今川家の使者がここや岡崎や、小田原おだわら甲府こうふなどへ頻繁に往来しているのでも、或る筋が読めた。
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
生憎あいにくね、急の御用で駿府すんぷへ行ったの、月末でなきゃ戻りませんよ——八五郎さんじゃどう?」
十九歳までは乞食同様の願人坊主であった、それが、正銘の松平の曹司竹千代が駿府すんぷに人質となっているのを盗み出し、それを信長に売り込んで、出世のいとぐちを開いたのだという説です……
大菩薩峠:38 農奴の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
旧主君にしたがって駿府すんぷ(静岡)へ行ったので、陪臣の箕部もまたその主君にしたがって駿府へ移ったが、もとより無禄というのであるから、どの人もなにかの職業を求めなければならない。
探偵夜話 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
わしがまだ今川家へ質子ちしとして、駿府すんぷに、幼少を送っていた時分——おまえらもまだ鼻たれで、おまえらの父や祖父じいが、織田、今川などの強国の間にはさまって、からくも
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
間もなくやつて來たのは井上玄蕃げんばと、御用金六千兩を積んだ馬と、馬子と、青侍が二人、——凾嶺の關所さへ越せば、あとは駿府すんぷから數十人の警護の者が來てゐると聞いて
駿府すんぷで捕まって、三宅島へ流されたのは四年前、そこで端なくも、五年前に贋金使いで島へ流された、元の升屋の番頭、与市と懇意になったのが、そもそもこの事件の発端でした。
太田三楽の戦評のほかに、徳川家康が後年駿府すんぷにいたとき、元、甲州の士だった横田甚右衛門とか、広瀬美濃などという老兵を集めて川中島の評判をなしたことも伝えられている。
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
さかいを出発した穴山あなやまの一族郎党ろうどうは、伊那丸いなまるをげんじゅうな鎖駕籠くさりかごにいれ、威風堂々いふうどうどうと、東海道をくだり、駿府すんぷから西にまがって、一路甲州の山関さんかんへつづく、身延みのぶの街道へさしかかった。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
二年前に亡くなられて、當代は安倍丹之丞樣、お若いが、先代にまさるとも劣らぬ智惠者で喃、早くも御役附、御小姓組御番頭ごばんがしらに御取立、御上の御用で半歳ほど前から駿府すんぷへ行つて居られる。
東福寺を出て諸国を巡錫じゅんしゃくし、乞われて、しばらく駿府すんぷの家人の第宅ていたくにいたが、義元の死後、内政ぶりもおもしろくないし、禅語に耳をかす者などは稀れなので、いつの頃か、そこを去り
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
二年前に亡くなられて、当代は安倍丹之丞たんのじょう様、お若いが、先代に優るとも劣らぬ智恵者でのう、早くも御役付、御小姓組御番頭に御取立、御上の御用で半歳ほど前から駿府すんぷへ行っておられる。
何の用事で函嶺はこねへ来たか、それはよく解っていますよ、——大公儀から、駿府すんぷへ送る御用金が六千両、二千両の箱が三つ、馬に積んで、井上玄蕃いのうえげんば様が宰領をして、わざと大袈裟おおげさな守護はつけず
駿河衆は、この地を駿府すんぷとはばない。府中ふちゅうと称んでいる。
新書太閤記:02 第二分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
何の用事で凾嶺はこねへ來たか、それはよく解つて居ますよ、——大公儀から、駿府すんぷへ送る御用金が六千兩、二千兩の箱が三つ、馬に積んで、井上玄蕃樣が宰領さいりやうをして、わざと大袈裟おほげさな守護はつけず
清洲きよす那古屋なごや駿府すんぷ小田原おだわら——と歩く先ざきで
新書太閤記:01 第一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)