薄靄うすもや)” の例文
秋の夕暮の水色に煙る薄靄うすもやは、そのまま私たちをも彼らの仲間のひとりと化して、風もながれぬ自然のなかに凝立させるためであろう。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
甲府を過ぎて、わがし方の東の空うすく禿げゆき、薄靄うすもや、紫に、くれないにただようかたえに、富士はおぐらく、柔かく浮いていた。
雪の武石峠 (新字新仮名) / 別所梅之助(著)
戸外そと朧夜おぼろよであった。月は薄絹におおわれたように、ものうく空を渡りつつあった。村々は薄靄うすもやかされ夢のように浮いていた。
土竜 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
忽然こつぜん薄靄うすもやを排して一大銀輪のヌッとずるを望むが如く、また千山万岳の重畳たる中に光明赫灼たる弥陀みだの山越を迎うる如き感を抱かしめた。
この時、幹の黒い松の葉も、薄靄うすもや睫毛まつげを描いた風情して、遠目の森、近い樹立こだち、枝も葉も、桜のほかは、皆柳に見えた。
白花の朝顔 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
音楽はすべてのものを薄靄うすもやの大気に包み込んで、すべてを美しく気高く快くなした。人の心に激しい愛の欲求を伝えた。
通りに朝霧のような薄靄うすもやがこもっていた。滞在中梶はヨハンに支払うべき案内料を一度もたださずにしまったが、五日間の料金は意外に少額ですんだ。
罌粟の中 (新字新仮名) / 横光利一(著)
花は散つたが、まだ申分なく春らしい薄靄うすもやのかゝつた或朝、ガラツ八の八五郎は、これも存分に機嫌の良い顏を、明神下の平次の家へ持込んで來ました。
ことにうらさびしいゆうぐれは遠くから手まねきしているようなあの川上の薄靄うすもやの中へ吸い込まれてゆきたくなる。
蘆刈 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
「金華山も見えない」と甲斐は云った、「九月だというのに、こんなに薄靄うすもやの日がつづくのは珍らしいことだ」
山脈の方の空に薄靄うすもやが立ちこめ、空は曇って来た。すぐ近くで、雲雀ひばりさえずりがきこえた。見ると、薄く曇った中空に、一羽の雲雀は静かに翼をふるわせていた。
永遠のみどり (新字新仮名) / 原民喜(著)
薄靄うすもや生海苔なまのりのように町の空に引き伸して高い星を明滅させている暖かい東南風が一吹き強くほおに感ずると、かの女は、新橋際まで行ってそこから車に乗り
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
夕暮が近いのであろう、蒼茫そうぼうたる薄靄うすもやが、ほのかに山や森をおおうている。その寂寞せきばくわずかに破るものは、牧童の吹き鳴らす哀切なる牧笛の音であるのだろう。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
十三夜の月が薄靄うすもやめた野面を隈なく照らして、様ざまの声をした虫の音が、明け放した窓からはやてのように耳を掠めて過ぎ去るのをうつつともなく聞きながら
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
今日の日曜を野径のみち逍遙しょうようして春を探り歩きたり。藍色あいいろを漂わす大空にはまだ消えやらぬ薄靄うすもやのちぎれちぎれにたなびきて、晴れやかなる朝の光はあらゆるものに流るるなり。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
心身ともに生気に充ちていたのであったから、毎日〻〻の朝を、まだ薄靄うすもやが村の田のくろこずえめているほどのはやさに起出おきでて、そして九時か九時半かという頃までには
蘆声 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
秋が近くなつて、薄靄うすもやの掛かつてゐる松林の中の、清い砂を踏んで、主人はそこらを一廻ひとめぐりして来て、八十八やそはちという老僕のこしらへた朝餉あさげをしまつて、今自分の居間に据わつた処である。
妄想 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
戸に倚りて菖蒲あやめる子がひたひ髪にかかる薄靄うすもやにほひある朝
みだれ髪 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
あゝ、あのやなぎに、うつくしにじわたる、とると、薄靄うすもやに、なかわかれて、みつつにれて、友染いうぜんに、鹿しぼり菖蒲あやめけた、派手はですゞしいよそほひをんなが三にん
人魚の祠 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
彼らと同じように逃げ出してる太陽、それから、乳のような白い息吹いぶきの薄靄うすもやに包まれてそよいでる牧場、また、村の小さな鐘楼や、ちらちら見える小川や
二度目に起き上った時は、竜王続きの山が薄靄うすもやめた湯川の谷へみどりの影を投げて、拭われたような紺碧の空には、二十日あまりの月がうっすりと刷かれていた。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
この季節特有の薄靄うすもやにかげろわれて、れたトマトのように赤かった。そして、彼方此方かなたこなたに散在する雑木の森は、夕靄の中にくろずんでいた。萌黄もえぎおどしのもみ嫩葉ふたばが殊に目立った。
土竜 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
此の病院のうしろの方は田圃つゞきで、ずうと向うに阪急沿線の山々が、ついさつきまでは澄み切つた空気の底にくつきりとひだを重ねてゐたのが、もう黄昏たそがれの蒼い薄靄うすもやに包まれかけてゐるのである。
猫と庄造と二人のをんな (新字旧仮名) / 谷崎潤一郎(著)
それとも渚の砂に立って、巌の上に、春秋はるあきの美しい雲を見るような、三人の婦人のきぬを見たのが夢か。海も空も澄み過ぎて、薄靄うすもやの風情もたえに余る。
悪獣篇 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
薄靄うすもやめた甲府平原には、まだ夜の色が低くさ迷うているが、雪に降り埋められた西山一帯の高い峰は、北は駒ヶ岳から南は聖、上河内、笊ヶ岳に至るまで、早くも曙の色に染まって
奥秩父の山旅日記 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
此の病院のうしろの方は田圃つゞきで、ずうと向うに阪急沿線の山々が、ついさつきまでは澄み切つた空気の底にくつきりとひだを重ねてゐたのが、もう黄昏たそがれの蒼い薄靄うすもやに包まれかけてゐるのである。
猫と庄造と二人のをんな (新字旧仮名) / 谷崎潤一郎(著)
作者が——いたくないことだけれど、その……年暮くれの稼ぎに、ここに働いている時も、昼すぎ三時頃——、ちょうど、小雨の晴れた薄靄うすもやに包まれて、向うやしきあかい山茶花がのぞかれる
薄紅梅 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
谷間の空気は立ちむる薄靄うすもやみどりが濃い。白くうねり走る久慈の流れ、沿岸に点在する村々の黒木立、山地を彩る闊葉樹の樹林などが皆一様にぼかされて、波立たぬ深い水底の植物叢に似ている。
四十年前の袋田の瀑 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
この病院のうしろの方は田圃たんぼつづきで、ずうと向うに阪急沿線の山々が、ついさっきまでは澄み切った空気の底にくっきりとひだを重ねていたのが、もう黄昏たそがれあお薄靄うすもやに包まれかけているのである。
猫と庄造と二人のおんな (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
桑の芽の萌黄もえぎに萌えつつも、北国の事なれば、薄靄うすもやある空に桃の影のくれないみ、晴れたる水にすももの色あおく澄みて、の時、月の影も添う、御堂みどうのあたり凡ならず、はた打つものの、近く二人、遠く一人
一景話題 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
その時緑青色のその切立きったてのいわの、なぎさで見たとは趣がまた違って、亀の背にでも乗りそうな、中ごろへ、早薄靄うすもやかかった上から、白衣びゃくえのが桃色の、水色のが白の手巾ハンケチを、二人で、小さく振ったのを
悪獣篇 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
しっとりと濡れて薄靄うすもやまとっている。
朱日記 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)