狭霧さぎり)” の例文
旧字:狹霧
志保は庭へおりて菊をっていた。いつまでも狭霧さぎりれぬ朝で、道をゆく馬のひづめの音は聞えながら、人も馬もおぼろにしか見えない。
菊屋敷 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
荷馬橇の馬は、狭霧さぎりの様な呼気いきを被つて氷の玉を聯ねたたてがみを、寒い光に波打たせながら、風に鳴る鞭をくらつて勢ひよく駈けて居た。
菊池君 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
山の朝まだきは、狭霧さぎりが多いので、敵はワラ人形と知らず、射浴びせてくる。——これでどれほど矢ダネを稼いだかしれないのである。
私本太平記:07 千早帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
花嫁の心もまず少しは落ちつきて、初々ういういしさ恥ずかしさの狭霧さぎり朦朧ぼいやりとせしあたりのようすもようよう目にわかたるるようになりぬ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
細かな、柔かな無数の起伏を広々とはてしもなく押し拡げて、彼方には箱根山が、今日もまた狭霧さぎりにすっぽりと包まれて、深々と眠っていた。
闖入者 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
供の持つぶら提灯、その灯が小さくぼやけて行くのは、さては狭霧さぎりが降りたと見える。左手に聳える大屋根を望んで、藤吉は肩越しに囁いた。
いよいよ淵に入る段になると、狭霧さぎりが水面を立ちめて、少しも様子が見られなかったという。娘は屡々しばしば里へお客に来た。
黒部川を遡る (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
谷間から立ち上るもやのように、それらの考えは心の底からき上がっていた。彼はその恋愛の狭霧さぎりの中を、めくら滅法にあちらこちら彷徨さまよった。
ちょうど天然の変色が、荒れびれたまだらを作りながら石面をむしばんでゆくように、いつとはなく、この館を包みはじめた狭霧さぎりのようなものがあった。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
溜池橋の上に立て見ると、葉桜の黒い影、夜露にきらめく月影、溜池の上に立籠めた狭霧さぎり、見上ぐれば真黒に繁つた山王台、皆な佳い眺めでした。
夜の赤坂 (新字旧仮名) / 国木田独歩(著)
ああそれさえまたたきをする間,娘の姿も、娘の影も、それを乗せて往く大きな船も櫓拍子ろびょうしのするたびに狭霧さぎりの中におおわれてしまう,ああ船は遠ざかるか
初恋 (新字新仮名) / 矢崎嵯峨の舎(著)
南水域に鬼哭啾々きこくしゅうしゅうとして跡絶えず、妖気狭霧さぎりのごとくに立ちめて、大英帝国の憤激その極に達したのであった。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
「浮世が幻であるとしたら、女人もきっと美しい幻なのだ。幻なればこそ、凡夫は其れに迷わされるのだ。ちょうど深山みやまを行く旅人が、狭霧さぎりの中に迷うように。」
二人の稚児 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
最早、天地、ところへだつたやうだから、其のまゝ、銃孔じゅうこうを高くキラリとり上げた、星ひとツ寒く輝く下に、みちも迷はず、よるになり行く狭霧さぎりの中を、台場だいばに抜けると点燈頃ひともしごろ
二世の契 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
はるかにおおかみが凄味の遠吠とおぼえを打ち込むと谷間の山彦がすかさずそれを送り返し,望むかぎりは狭霧さぎり朦朧もうろうと立ち込めてほんの特許に木下闇こしたやみから照射ともしの影を惜しそうにらし
武蔵野 (新字新仮名) / 山田美妙(著)
多摩川の川づらには狭霧さぎりが立ちめ生あたたかくたそがれて来た。ほろほろと散る墓畔の桜。
雛妓 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
言う言葉と共に海老蔵を載せた屋根船はおのずと岸を離れ、見る見る狭霧さぎりの中に隠れて行く。
散柳窓夕栄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
重い冷たい潮霧ガス野火のびの煙のように濛々もうもうと南に走って、それが秋らしい狭霧さぎりとなって、船体を包むかと思うと、たちまちからっと晴れた青空を船に残して消えて行ったりした。
或る女:1(前編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
牧場や稲田から静かに狭霧さぎりが立ちのぼり、暗色の葺屋根が白い霧に影絵のように浮び、その向うには黒い山脈が聳えるという、驚く可き空気的の効果の中で、我々は我々の顕著な経験を
広場には、冬の夜の白く透いた狭霧さぎりの中に、辻馬車がずらりと並んでいた。
餓えた人々 (新字新仮名) / パウル・トーマス・マン(著)
または全く忘却の狭霧さぎりおおわれてしまっている面影を、見出すのであった。
まちには電燈がついた。四辻よつつじはひとしきり工場から吐き出される職工等の足埃あしぼこり狭霧さぎりに襲はれたやうにけむつた。彼は波止場から宿の方へ急いだ。さつさと町の片側を脇目わきめもふらず歩いて行つた。
煤煙の匂ひ (新字旧仮名) / 宮地嘉六(著)
養狐場を出たところで、私はまた牛舎の白い狭霧さぎりを、厩舎や豚舎の小雨を見た。しずくを含んだ鮮緑の広々とした牧草の平面を、また散在した収穫舎、堆肥たいひ舎、衝舎、農具舎、その急勾配のかく屋根を。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
ひとり死ぬるさびしさなどをおもひつつ狭霧さぎりの丘にたちつくすなり
小熊秀雄全集-01:短歌集 (新字旧仮名) / 小熊秀雄(著)
咲く花のごとき命を包む想像の狭霧さぎりなれ。
晶子詩篇全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
おもわに狭霧さぎり
海潮音 (新字旧仮名) / 上田敏(著)
狭霧さぎり
おさんだいしよさま (新字旧仮名) / 野口雨情(著)
その硝煙が、うすい狭霧さぎりのようになって、低地の池、田の面、あし湿しめなどへ降りてゆく下に——早くも、井伊の赤武者が、走っていた。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
昼ながら、秋の狭霧さぎりが静かにめわたって、まるで水面から、かすかに湯気があがっているように見えるのだった。
丹下左膳:02 こけ猿の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
そこへ足音もたてずにまるで陽炎かげろう狭霧さぎりのようにしのびやかにはいってきたものがありました。
亡霊怪猫屋敷 (新字新仮名) / 橘外男(著)
朝なお早ければちまたはまだ往来ゆきき少なく、朝餉あさげの煙重く軒より軒へとたなびき、小川の末は狭霧さぎり立ちこめて紗絹うすぎぬのかなたより上り来る荷車にぐるまの音はさびたるちまたに重々しき反響を起こせり。
わかれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
まだ晴れきらない狭霧さぎりをこめた空気を通して、杉の葉越しにさしこむ朝の日の光が、雨にしっとりと潤った庭の黒土の上に、まっすぐな杉の幹を棒縞ぼうじまのような影にして落としていた。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
「お柳、」と思わず抱占だきしめた時は、浅黄あさぎ手絡てがらと、雪なす頸が、鮮やかに、狭霧さぎりの中にえがかれたが、見る見る、色があせて、薄くなって、ぼんやりして、一体いったいすみのようになって、やがて
木精(三尺角拾遺) (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
まだ、戸の閉っている二軒のあべ川餅屋もちやの前を通ると直ぐ川瀬の音に狭霧さぎりを立てて安倍川が流れている。わだちに踏まれて躍る橋板の上を曳かれて行くと、夜行で寝不足のまぶたが涼しく拭われる気持がする。
東海道五十三次 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
三年の幻影はかわるがわる涙の狭霧さぎりのうちに浮かみつ。新婚の日、伊香保の遊、不動祠畔ふどうしはんの誓い、逗子ずし別墅べっしょに別れし夕べ、最後に山科やましなに相見しその日、これらは電光いなずまのごとくしだいに心に現われぬ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
月の夜はいとどかぐろきの森を田には狭霧さぎりの引きわたるめり
白南風 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
うらゝかに澄渡すみわたりて狭霧さぎりなき空気に
重い狭霧さぎりがしつとりと
晶子詩篇全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
やがて夜は白み、水のおもての狭霧さぎりには、まだ黄いろい余煙が低く這い、異様な鳥声が、今朝はつんざくようにき響く。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
向うの三人からはほの暗い森の木立の陰になって私の姿は見えなかったであろうが、私の方からはまぶしい黄金色の光芒の中に狭霧さぎりのように朦朧もうろうとこの三人の姿は映っているのであった。
逗子物語 (新字新仮名) / 橘外男(著)
夜は森沈しんちんとして闇黒の色を深めてゆくだけで、樹々の影もこんもりと黒く狭霧さぎりがおりているのか、あんどんの余映を受けてぼやけた空気が、こめるともなく漂っているきり——いつも見慣れた
丹下左膳:01 乾雲坤竜の巻 (新字新仮名) / 林不忘(著)
空は雨雲ひくく漂い、木の葉半ば落ちせし林は狭霧さぎりをこめたり。
わかれ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
狭霧さぎり立つ月の夜さりは村方むらかたの野よかうばしく麦こがし
白南風 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
狭霧さぎり将起たゝん
富士 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
四、五段の船そこ梯子ばしごから上に上半身を出す。とたんに、眼もとをしかめた。まだ海上はいちめんな狭霧さぎりだが、大きな旭日と、波映はえいの揺れに、物みな虹色にじいろに燃えていたのである。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
先なる一壮漢は、狭霧さぎり薄戦衣うすごろもに、虎頭ことうを打ち出した金唐革きんからかわの腹巻に、髪止めには銀のはちまきを締め、おぼろめく縒絨よりいと剣帯けんたいへ利刀を横たえ、騎馬戛々かつかつ、ふと耳をそばだてた。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
冬の狭霧さぎりがまだ深くて頂上からの眺望も模糊もことしてただ寒さにふるえ上がるばかりだったが、雲間のこぼれ陽がすと関門の海峡一帯から、母島の彦島、そのすぐ東岸を少し距てて巌流島が見られ
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
茫然と、武蔵の眼が、夜の狭霧さぎりを見ていると
宮本武蔵:02 地の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
狭霧さぎりれてきた。箭四やし老人は、幾たびも
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)