愛撫あいぶ)” の例文
この愛すべくむじゃきな部下をしみじみと愛撫あいぶするようにながめていましたが、いつにもなく右門に似合わない述懐をもらしました。
お豊は彼の手を片方で握ったまま、片方の手でやさしく愛撫あいぶした。お豊の手は熱くて、握り合わせたほうは、じっとり汗ばんでいた。
花も刀も (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
無性格のように弱い姉よりもずっと頼母たのもしく自分を愛して呉れる叔母の愛撫あいぶのなかで今一度少女の幸福を味わってから死んで行き度い。
勝ずば (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
かつては美しく蠱惑こわくにみちて、恋いわたり、男の愛撫あいぶに打ちまかせて夜ごとに情炎を燃やした身を、ひっそりと埋めていることだろう。
イオーヌィチ (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
ほんに、どのような宿世すくせであったか、その晩以来、雪太郎は、菊之丞の手に引き取られて、やさしい愛撫あいぶを受ける身となったのだ。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
時々源氏の不純な愛撫あいぶの手が伸ばされようとして困った話などは、だれにも言ってないことであったが、右近は怪しく思っていた。
源氏物語:31 真木柱 (新字新仮名) / 紫式部(著)
「侘び」の心境するものは、悲哀や寂寥せきりょうを体感しながら、実はまたその生活を懐かしく、肌身に抱いて沁々と愛撫あいぶしている心境である。
郷愁の詩人 与謝蕪村 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
そこにある者は幸福の気を呼吸し、生命はよきかおりを発し、自然はすべて純潔と救助と保護と親愛と愛撫あいぶあけぼのとを発散していた。
私はたいていそれらの生きものを相手にして時を過し、それらに食物をやったり、それらを愛撫あいぶしたりするときほど楽しいことはなかった。
黒猫 (新字新仮名) / エドガー・アラン・ポー(著)
彼はそれを愛撫あいぶするというよりも、何か器具の光沢をみがいているような錯覚に陥りながら、やがて摩擦は上半身へ移って行く。
冬日記 (新字新仮名) / 原民喜(著)
赤馬は上野介の愛撫あいぶした彼の乗馬である。江戸から、毎年のように領地へ帰ってくるごとに、彼は一人の従者もつれず領内の巡視に出かける。
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
おそらく彼は母親の眼の中に、苦情を言うがいいと勧めるような愛撫あいぶを、本能的に感じたのであろう。彼女は彼の方へ両腕を差出して言った。
強者は道徳を蹂躙じゅうりんするであろう。弱者は又道徳に愛撫あいぶされるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。
侏儒の言葉 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
おお、あそこの岩窟がんくつのなかに据えたならば、等身の、マリア観音そのままだと、モルガンがお雪を愛撫あいぶする心は、尊敬をすらともなって来た。
モルガンお雪 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
そして、両親の愛撫あいぶを、二人っきりで半分ずつとってしまう。にんじんがやって来た時には、もうほとんど、彼の分は残っていないのである。
にんじん (新字新仮名) / ジュール・ルナール(著)
又彼女はそれを全幅的に受け入れ、理解し、熱愛した。私の作つた木彫小品を彼女は懐に入れて街を歩いてまで愛撫あいぶした。
智恵子抄 (新字旧仮名) / 高村光太郎(著)
ふと、砂浜での少年との愛撫あいぶの記憶がよみがえって、あの夜も砂をたたきつけ怒ったような顔で、逃げるように夜の海に走りこんだ少年をおもっていた。
朝のヨット (新字新仮名) / 山川方夫(著)
子供のないさびしい人や自分の思うままになる愛撫あいぶの対象を人間界に見失った老人などがひたすらにねこをかわいがり
ねずみと猫 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
私は彼の方へ接近して行って、この当座の主人である彼に会釈するために、敬意を表するために彼の頭を愛撫あいぶした。
愛撫あいぶするだけではあきたらず、それを愛するの余りに、彼は、ギルガメシュ伝説の最古版の粘土板を噛砕かみくだき、水にかして飲んでしまったことがある。
文字禍 (新字新仮名) / 中島敦(著)
私は夫のあの執拗しつような、あの変態的な愛撫あいぶの仕方にはホトホト当惑するけれども、そういっても彼が熱狂的に私を愛していてくれることは明らかなので
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
太陽の第一せんが雲間を破って空を走った。このとき、次郎の愛撫あいぶに身をまかせていたフハンが、両耳をキッと立てて鼻を鳴らすと、河岸かし上手かみてへ走った。
少年連盟 (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
かつは自分が倉地から同様な狂暴な愛撫あいぶを受けたい欲念から、先の事もあとの事も考えずに、現在の可能のすべてを尽くして倉地の要求に応じて行った。
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
夫人は久し振にった弟をでも、愛撫あいぶするように、耳近く口を寄せてささやいたり、軽くしっするように言ったりした。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
沢山の麻油や孤踏夫人や又その愛撫あいぶを思い出しもしたのであるが、親愛なるものに訣別けつべつしたがるかたくなな寂寥せきりょうは、やはりその時も有るには有ったらしい。
小さな部屋 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
長男のゆえにめったにうけることのない母の愛撫あいぶは、満六歳の男の子を勝利感にわせた。にこっと笑って何かいおうとすると、並木と八津に見つかった。
二十四の瞳 (新字新仮名) / 壺井栄(著)
看護婦の目を盗んで、ささやきと愛撫あいぶだけで我慢しながら、その我慢のつらさゆえにこそ、ついにこの完全犯罪ともいうべき殺人を計画するにいたったのです。
妻に失恋した男 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
それは『玉葉』『風雅』の歌のように自然の愛撫あいぶから感じられる、静寂な生活のほの温かさでもない。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
すぐ二人の女は彼のいうことを聞き、彼のところへもどって、彼を愛撫あいぶし、急いで欠勤届を書いた。
変身 (新字新仮名) / フランツ・カフカ(著)
が、それよりももっとはげしく彼女の心臓が鼓動こどうしているのを、その瞬間、私は耳にした。そしてそれが私に、そういう愛撫あいぶを、ほんのそのデッサンだけで終らせた。
美しい村 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
そうして冷たい飛沫が顔にかかるたびに、半睡の彼には、それが愛撫あいぶのように思われるのだった。
しかりしこうして、同人に一女あり登美という(この年十一歳九カ月)。愛撫あいぶ至らざることなし。
迷信と宗教 (新字新仮名) / 井上円了(著)
するとみのりは不意に立ち上がって、泳ぐような手付きをしながらひつぎそばへ進み寄った。そして、死骸しがいの上へ最後の愛撫あいぶをしていたが、経帷子きょうかたびらに包まれた腕に触れたとき
宝石の序曲 (新字新仮名) / 松本泰(著)
僕をそとに置くこと三年、その実子なる秀輔ひですけのみをかたわら愛撫あいぶすること三年、人間が其天真に帰るべき門、墳墓にちかづくこと三年、この三年の月日は彼をして自然に返らしたのです。
運命論者 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
結婚の指環ゆびわを受け取り、愛のすべての形式(きつと彼が注意深く守るであらうが)を忍び、魂はまつたく拔けがらであることを、知ることが出來ようか、彼が與へる愛撫あいぶ
愛撫あいぶ——これが私の愛の特質らしくも思われる。私は何人なんぴとに対してもそうした愛をもつ。
母の死 (新字新仮名) / 中勘助(著)
これに反して抽斎は陸を愛撫あいぶして、身辺におらせて使役しつつ、或時五百にこういった。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
それは、今までわしには見せたことのない恍惚こうこつが一ぱいに浮いているのだ。どの様にわしが燃え立ち、必死に愛撫あいぶしても、ついぞ、見せなかった恍惚の表情がくっきりと残っている。
(新字新仮名) / 富田常雄(著)
彼の愛のたわむれは、どう見てもくまがやさしく愛撫あいぶするようなものだったが、ひそひそ声のうわさ話によれば、彼女はまんざら彼の望みをうちくだきもしなかったということだった。
能面のごとき端正の顔は、月の光の愛撫あいぶり金属のようにつるつるしていました。
虚構の春 (新字新仮名) / 太宰治(著)
さう言ふうちにもお樂は、お菊の死骸をかき上げかき上げ、赤ん坊でもあやすやうに、血潮に濡れた肩から、頸筋へ、額にかゝる黒髮のあたりへと、際限もない愛撫あいぶを續けるのでした。
実になんとも言えず魅惑的みわくてきな、高飛車たかびしゃな、愛撫あいぶするような、あざ笑うような、しかも可愛かわいらしい様子があったので、わたしはおどろきと嬉しさのあまり、あやうく声を立てんばかりになって
はつ恋 (新字新仮名) / イワン・ツルゲーネフ(著)
敵城を前にして、すッかり野風呂のぶろであたたまった秀吉は、こうつぶやきつつ、まッになった下ッ腹へ、ウン、と、一つ力をいれて、いかにも愛撫あいぶするごとくへそのまわりをなではじめた。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼女はもう一ぺん村瀬の肉体を桃色のラムプのやうに燃え立たせようと試みた。静かな桃色の炎のなかにこの青年を眠り込ませようとこいねがつた。彼女は以前にもまして熱い愛撫あいぶを村瀬に与へた。
青いポアン (新字旧仮名) / 神西清(著)
たゞ一人心細き旅路にのぼりけるに、車中しやちゆう片岡直温かたをかちよくをんあによめ某女ぼうぢよ同行どうかうせられしに逢ひ、同女が嬰児えいじふところに抱きて愛撫あいぶ一方ひとかたならざる有様を目撃するにつけても、他人の手に愛児を残す母親の浅ましさ
母となる (新字旧仮名) / 福田英子(著)
こうして、このさかずきを愛撫あいぶするわたしどもも、いつまでもこのなかきてはいられるのでない。さかずきも大事だいじだが、だれのちからでもそれより大事だいじ自分じぶんいのちをどうすることもできないのだ。
さかずきの輪廻 (新字新仮名) / 小川未明(著)
鳴咽おえつする柿丘の声と、みだらがましい愛撫あいぶの言葉をもってなぐさめはじめた雪子夫人の艶語えんごとをまま、あとに残して、僕はその場をソッと滑るように逃げだすと、跣足はだしで往来へ飛びだしたのだった。
振動魔 (新字新仮名) / 海野十三(著)
この二疋だけは殺し度くないものだと留守の間はよく青年に云いつけ、帰って来れば弥之助手ずから食物を当てがって愛撫あいぶをこころみて居ると、さすがによくなずいて弥之助の書斎を離れない。
二人の生活の交渉点こうしょうてんへ触れてゆく日になれば、語りたいことや訊きたいことがたくさんあった。三十年以前に死んだ父の末子であった私は、大阪にいる長兄の愛撫あいぶで人となったようなものであった。
蒼白い月 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
太祖これを見たまいて、なんじまことに純孝なり、たゞ子をうしないて孫を頼む老いたる我をもおもわぬことあらじ、とのたまいて、過哀に身をやぶらぬよう愛撫あいぶせられたりという。其の性質の美、推して知るべし。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)