彼方むこう)” の例文
わきの袋戸棚と板床の隅に附着くッつけて、桐の中古ちゅうぶるの本箱が三箇みっつ、どれも揃って、彼方むこう向きに、ふたの方をぴたりと壁に押着おッつけたんです。……
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
『まだ酔っていらっしゃる。そんな説教を長々としているものだから、彼方むこうから何か参りました。はやくがっておしまいなさい』
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
赤々として熱そうな、日入いりひの影が彼方むこうの松林に照りつけると、蜩の声は深山の渓間たにまで鳴くのである。もはや帰るべき時はきたった。
森の妖姫 (新字新仮名) / 小川未明(著)
だが、何と猿廻しの素早いことか、こんもり盛り上っている山査子さんざしむらの、丘のように高い裾を巡って、もう彼方むこうへ走っていた。
仇討姉妹笠 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
彼方むこうにある渡船場の人を呼ぶには、よほど大きな声を出さなければならなかった、それに手塩川はこの辺に来てかなり河幅を増していた。
惨事のあと (新字新仮名) / 素木しづ(著)
若「彼方むこうも面目なくって間が悪いから、あわてゝお飾松のかげへ隠れたのだが、しお前の方が板で彼方が腮ならばお前が謝らなければなるまい」
なかで一ばんおおきな彼方むこう巌山いわやますそに、ひとつの洞窟ほらあならしいものがあり、これにあたらしい注連縄しめなわりめぐらしてあるのでした。
お父さんに至っては子供の時の修学旅行以外一切東京を離れたことがないから箱根から彼方むこうには生蕃せいばんがいると心得ている。
ぐうたら道中記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
小諸は降らない日でも、越後の方から上って来る汽車の屋根の白いのを見ると、ア彼方むこうは降ってるナと思うこともある。
千曲川のスケッチ (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「国乱れて乱臣出ず、なかと言うてな」と老人は妙な古言を一つ引いてから、「箱根はこねから彼方むこうの化物が、大かたこっちへみかえたものじゃろうて」
助五郎余罪 (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
「では、わしは彼方むこうのお座敷でまだお相手をせねばなりませぬゆえ、ゆかせて頂きます。雪之丞どの、御息女さまは、ようくおたのみいたしましたぞ」
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
私は「うう」と、ただ答えたが、その人形や塗り物の菓子器の彼方むこうにいろいろな男の影が見えるような気がした。
黒髪 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
彼方むこうでも僕等の様な怠け者の連中は駄目な奴等だと軽蔑けいべつして居たろうと思うが、此方こちらでもまた試験の点ばかり取りたがって居る様な連中は共に談ずるに足らずと観じて
落第 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
彼方むこう側を向いて、吊革につかまって立っている女の後姿に、私の眼は釘付けにされてしまった。
秘密 (新字新仮名) / 平林初之輔(著)
そして彼方むこうの林檎の樹のところで全く見えなくなったとき、ジャンは再び刈り方をつづけた。
麦畑 (新字新仮名) / モーリス・ルヴェル(著)
前の庭の彼方むこうを区切って居る低い堤には外側の方がひどく白くなり立木の皆がそうである。
農村 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
薄闇い狭いぬけろじの車止くるまどめの横木をくゞって、彼方むこうへ出ると、琴平社の中門の通りである。
二少女 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
図の上半部を成している彼方むこうには翠色すいしょく悦ぶべき遠山が見えている、その手前には丘陵が起伏している、その間に層塔そうとうもあれば高閤こうこうもあり、黒ずんだ欝樹うつじゅおおうたそばもあれば
観画談 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
振り向くと、めくらじま長袢纒ながばんてんくびに豆絞りを結んだ男が、とっとと彼方むこうへ駈けて行く。
つづれ烏羽玉 (新字新仮名) / 林不忘(著)
突然、硝子窓の彼方むこうに固い兵隊靴の足音がした。藤沢は算盤に手を置いたまま足音の方へ視線をむけた。半分ほど開いている硝子窓の彼方むこうを、誰かが此方こちらへむけて活溌に歩いて来た。
熊の出る開墾地 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
盲目が提灯を持っては物笑いと思召おぼしめすでございましょうが、何の意味もあるのじゃございません、わたくしどものために提灯をつけて歩くのではございません、彼方むこうからいらっしゃる方が
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「昨日、来たのは、彼方むこうだね。」と自分は今見ていた方を指して聞いた。
土淵村にての日記 (新字新仮名) / 水野葉舟(著)
「なにをいうかと思えば、愚にもつかぬざきごと。だが、少しおもしろい、その独りよがりをましてやろう。来いっ。彼方むこうへ立とう」
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
人に怨まれる覚えはないが、はて何者とすかして見たら、藪の彼方むこうにも人影が、十人ほどごそごそ動いている。私はそこで考えた。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
わたくしがある海岸かいがんあそんでりますと、指導役しどうやくのおじいさんがれいながつえきながら彼方むこうからトボトボとあるいてられました。
……坊ちゃん、今橋を渡ったでしょう? あれが黄瀬川きせがわで、頼朝と義経が対面したところがこのすぐ彼方むこうに残っています。
ぐうたら道中記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
本箱は、やや意を強うするに足ると思うと、その彼方むこう向けの不開あかずの蓋で、またしても眉をひそめずにはいられませんのに、押並べて小机があった。
星女郎 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
前後十二年というものは、海の彼方むこうで送った。御承知の通り、外国へ行って来るとか、戦地でも踏んで来るとかすれば、大概な人は放縦な生活に慣れて来る。
(新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「いま、彼方むこう田圃道たんぼみちあるいてくると、ひきがえるが、かまきりをのもうとしていた。」と、はなされました。
宿題 (新字新仮名) / 小川未明(著)
けれ共、驚きのために低い叫びをあげて私の居た裏口の方へかけて来、少しの間うじうじした後、すぐ間近に居た私の足に、土を飛ばせながら畑地を彼方むこうにこいで行って仕舞った。
農村 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
それでも黙って上がって行くのは厚かましいようで、二、三度大きな声をかけると、やがて階段を下りて来る足音がして、外からかぬように、ぴたりとめた奥の潜戸くぐり彼方むこう
狂乱 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
煙りのような真っ直ぐな白い火の棒が五本、続けざまに彼方むこうの船に立つのを見た。
運命のSOS (新字新仮名) / 牧逸馬(著)
何うかしてだまおおせて遁れようと言いくるめて居りますうちに、度々たび/\参ると、彼方むこうでも親切に致しますも惚れて居りますから、何事もお梅の云う通りに行届ゆきとゞき、亭主は窮して居りますから
敵討札所の霊験 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
その彼方むこうに古ぼけた勾配の急な茅屋かややが二軒三軒と飛び飛びに物悲しく見えた。
観画談 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
『違いない! ——。この辺はもう永代橋に近いな、本所迄はずいぶんある。——彼方むこうのぽっと明るく見える空は、堺町の芝居小屋か』
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その堂々たる武者押しを討手の勢はあっけに取られてただ呆然ぼうぜんと見ていたが、急に伝騎を走らせて彼方むこうの様子をうかがわせた。
蔦葛木曽棧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「女学校でもなんてひどいわね。けれども箱根から彼方むこうは知らないんですから楽みですわ。早く沼津に着きたいものね」
ぐうたら道中記 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
「そんなことうそよ、だましたってっているわ。」と、くるりと彼方むこういて、していきました。げたについているすずおとが、リンリンと幸吉こうきちみみにきこえました。
花の咲く前 (新字新仮名) / 小川未明(著)
すると背後で、扉をたたく音がした。とっさに、佃が来た知らせかと思い、彼女は困却した。十一時頃から彼らは、ハドソン河を彼方むこうに渡って、ながい散歩をしようと約束していた。
伸子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
彼方むこうから、誰方どなたかおいでなさりゃしませんか。貴女がお帰りだ、と知れましたら。」
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
鷲峰山下の村に通う街道は、そこに架した長い板橋を彼方むこうに渡ってゆくのである。
狂乱 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
その涙のうずきが、唐突に、伊織の手や足を動かし始めた。伊織の耳には、ゆうべの岩戸神楽かぐらが、雲の彼方むこうで聞えているのである。
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あの場所の景色とちがうところは、あそこでは、塚と林との彼方むこうが、広々と展開ひらけた野原だったのに、ここでは、土塀が、灰白はいじろく横に延びているだけであった。
血曼陀羅紙帳武士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
そのために、湖の様に、澄んで広々と、彼方むこうの青や紫の山々の裾までひろがって居る様にはてしなかった池も、にわかに取り澄まして、近づき難い、可愛げのない様子になって仕舞った。
農村 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
彼方むこうの新粉屋が、ものの遠いように霞むにつけても、家路はるかな思いがある。
陽炎座 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
やはり彼方むこう向きになって黙って坐っていた。
老婆 (新字新仮名) / 小川未明(著)
市の山は百間松の直ぐ彼方むこうだ。
村の成功者 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
「じゃあ、この野郎を、彼方むこうへしょッ引いて行こう。こいつに水垢離みずごりとらせて、踏まれた曲尺まがりがねに手をつかせて謝らせなくっちゃならねえ」
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その桜並木の遙か彼方むこうの、斜面をなしている丘の上の、諏訪神社の辺りでは、火祭りの松明たいまつの火が、数百も列をなし、うねり、渦巻き、揉みに揉んでいるのが
血曼陀羅紙帳武士 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
砂丘つづきの草を踏んでと、学生が見ていると、たちどまっていた二女ふたりが、ホホホと笑うと思うと、船の胴をふなべりから真二つに切って、市松の帯も消えず、浪模様のもすそをそのままに彼方むこうへ抜けた。
露萩 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)