醍醐だいご)” の例文
醍醐だいごの花見や、加茂の葵祭、観学院かんがくいんの曲水の宴、さては仙院の五節舞ごせつのまいなどというありきたりな風流ごとにはどうしてもなじめない。
無月物語 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
天皇様が史記を左中弁藤原在衡ありひら侍読じどくとして始めて読まれ、前帝醍醐だいご天皇様は三善清行みよしきよつらを御相手に史記を読まれた事などがある。
平将門 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
丹生川平という別天地に、宮川茅野雄と醍醐だいご弦四郎とが、一緒に住居をしているとは、ちょっと不思議と云わなければならない。
生死卍巴 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
醍醐だいご阿闍梨あじゃりさんの世話に手がかかりましてね、仕立て物が間に合いませんでした上に、毛皮なども借りられてしまいまして寒いのですよ」
源氏物語:23 初音 (新字新仮名) / 紫式部(著)
今日の小春日和、山科の光仙林から、ぎゃく三位一体さんみいったいが宇治醍醐だいごの方に向って、わたましがありました。逆三位一体とは何ぞ。
大菩薩峠:41 椰子林の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
旅から帰ったのは翌文治三年七十歳のときで、しばらく京の近くにいて、それから河内かわち弘川寺ひろかわでらに入った。醍醐だいごの末寺で古義真言宗の寺である。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
平安時代の御世に於て、第六十代醍醐だいご天皇第六十二代村上むらかみ天皇は、英明の質を以て、親しくまつりごとを聞し召され、御世は泰平で文化はいよ/\栄えた。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
醍醐だいご天皇時代くらいには大抵混同したのではないかと思います。村上天皇の頃には完全に混同してしまっております。
古代国語の音韻に就いて (新字新仮名) / 橋本進吉(著)
上野かんづけの国五八迦葉山かせうざん下野しもづけの国五九二荒ふたら山、山城の六〇醍醐だいごみね、河内の六一杵長しなが山、就中なかんづく此の山にすむ事、大師の六二詩偈しげありて世の人よくしれり。
まだ太閤殿下在世のさかりだった。茶会が流行はやごとで、大坂城でも、醍醐だいごでも、度々秀吉の催しがあり、諸侯も側衆も、それにはよく同席したものである。
大谷刑部 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
○そも/\ 醍醐だいご天皇は(在位卅二年)百廿代の御皇統くわうとうの中にも殊に御徳達とくたつたりしゆゑ、延喜の聖代せいだいと称し、御在位の久かりしゆゑ 延喜帝とも申奉る。
都へ入ることは許されなかったので、大津から山科やましな醍醐だいごを通ることとなった。この道筋からは、重衡の北の方、大納言佐殿が忍び住む日野は程近かった。
空を踏むがごとく、雲を行くがごとく、水中にけいを打つがごとく、洞裏とうりしつするがごとく、醍醐だいごの妙味をめて言詮ごんせんのほかに冷暖れいだん自知じちするがごとし。
吾輩は猫である (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
笑うこともまれに、こぐにも酒の勢いならでは歌わず、醍醐だいごの入江を夕月の光くだきつつほがらかに歌う声さえ哀れをそめたり、こは聞くものの心にや、あらず
源おじ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
初めてのときには両界曼陀羅りょうかいまんだら醍醐だいごの五大尊などと比べて見たが、この日は弥陀三尊と比べて見たというようなことも、その原因になっているかも知れない。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
老大納言卒去そっきょの翌年に左大臣時平が死に、それから約四十年の間に時平の一族が次々に滅んだことは既に記した通りであるが、天子は醍醐だいご朱雀すざくを経て村上むらかみとなり
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
深草から醍醐だいごへ通う谷あいのみちを歩いていると、にわかに鳴神がとどろきはじめた。
紫大納言 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
醍醐だいごを捜したかな、那処あそこに居るかも知れんぞ。」
醍醐だいごの醍の字を忘れて、まごまごして居た佑筆ゆうひつに、大の字で宜いではないかと云った秀吉は、実に混乱から整理へと急いで
蒲生氏郷 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
醍醐だいごの三宝院を写した、床脇とこわきの棚を壊して、不潔極まる婦人の洗滌器を据えつけたのは、君がやらせたことなんだね?」
我が家の楽園 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
醍醐だいご弦四郎と彼の部下の、半田伊十郎と他五人とが、茅野雄の周囲に集まっているのを、順々に見廻したこととであった。
生死卍巴 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
○そも/\ 醍醐だいご天皇は(在位卅二年)百廿代の御皇統くわうとうの中にも殊に御徳達とくたつたりしゆゑ、延喜の聖代せいだいと称し、御在位の久かりしゆゑ 延喜帝とも申奉る。
かくて、この三位一体は、山科から醍醐だいごへの道を、小春日をいっぱいに浴びて、悠々閑々ゆうゆうかんかんと下るのであります。
大菩薩峠:41 椰子林の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
醍醐だいごを越え、山科やましなへ出て、駕屋は夜をとおして駈けた。夜が明けてから安宿で四時間ほど眠る。駕の中の客はうつつである。飯時に、かゆを与えたが食わない。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
人足等の総数は二十五萬人に達し、醍醐だいご山科やましな、比叡山雲母坂きらゝざかより大石を引き出すことおびたゞしく、堀普請などは、幾つにも区分けをして奉行衆が代る/″\人夫を督励し
聞書抄:第二盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
上野の国の迦葉山かしょうざん、下野の国の二荒山ふたらさん、山城の醍醐だいごみね、河内の杵長しなが山、そして、なかでもこの高野山にすんでいるということは、大師のお詠みになった詩偈しげにもあって
帰舟かえりは客なかりき。醍醐だいごの入江の口をいずる時彦岳嵐ひこだけあらしみ、かえりみれば大白たいはくの光さざなみくだけ、こなたには大入島おおにゅうじまの火影はやきらめきそめぬ。静かに櫓こぐ翁の影黒く水に映れり。
源おじ (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
そうしてこれを歴史的に見ますと、平安朝に入るとその例外がますます多くなって来て、そうして醍醐だいご村上むらかみ御代みよになりますと、かような区別のあった痕迹も見えないのであります。
古代国語の音韻に就いて (新字新仮名) / 橋本進吉(著)
昔、醍醐だいご帝の御代、御夢に弘法大師が現われ、檜皮色ひはだいろの御衣を着せるようにというお告げがあった。勅使中納言資澄すけすみ般若寺はんにゃじの僧観賢かんけんを連れて、高野山に上り、御廟ごびょうとびらを押し開いた。
深草から醍醐だいご、小野の里、山科やましなへ通う峠の路も歩いたし、市街ときては、何処を歩いても迷う心配のない街だから、伏見から歩きはじめて、夕方、北野の天神様にぶつかって慌てたことがあった。
日本文化私観 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
こんな話をして酒を飲み合い、微醺びくんを帯びてこの茶屋を出ると、醍醐だいごから宇治の方面へ夕暮のからすが飛んで行く。
宮川茅野雄殿と仰せられるか、はじめてお名前をうけたまわってござる。拙者は醍醐だいご弦四郎と申して、身の上の儀はまずまず浪人、ただしいくらかは違いますがな。
生死卍巴 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
多少の泰平はうたわれたろうが、なかなか中央における醍醐だいごの茶会とか、桃山文化の、あの爛漫らんまんな盛時や豪華ぶりは、夢想もできないものだったろうと思われる。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
宇多天皇の女御にょうごに上って京極御息所きょうごくみやすどころと云われた女子があったが、これも短命を以て終り、他の一人の女子仁善子と醍醐だいご天皇の皇太子保明親王との間に生れた康頼王は、時平の外孫に当り
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
なし或はし山にし修行をする故に山伏やまぶしとは申なりさてまた山伏の宗派しうはといツパ則ち三わかれたり三派と云は天台宗てんだいしうにて聖護院宮しやうごゐんみやを以て本寺となしたう眞言宗しんごんしうにて醍醐だいご寶院はうゐんの宮を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
 敦仁あつひと親王を 醍醐だいご天皇とものちよりは延喜帝とも申奉る。(御年十三)年号を昌泰しやうたいと改元す。同二年時平公左□臣、 菅神右□臣相倶あひともに みかど補佐ほさし奉らる、時に時平公二十七、 菅神五十四。
三位一体を醍醐だいごへ向けて送り出して後の不破の関守が、がんりきの百蔵を端近く呼んで、こう言いました
大菩薩峠:41 椰子林の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
そのほか、昨夜以来の配置によって、醍醐だいご山科やましな逢坂おうさか、吉田、白河、二条、七条、らくの内外いたるところも、秀吉指揮下の隊が部署についていない方面はない。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
中御門なかみかどの北、堀川の東一丁の所にあった時平の居館の名で、当時時平は故関白かんぱく太政だじょう大臣基経もとつね、———昭宣公しょうせんこう嫡男ちゃくなんとして、時のみかど醍醐だいご帝の皇后穏子おんしの兄として、権威並びない地位にあった。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
 敦仁あつひと親王を 醍醐だいご天皇とものちよりは延喜帝とも申奉る。(御年十三)年号を昌泰しやうたいと改元す。同二年時平公左□臣、 菅神右□臣相倶あひともに みかど補佐ほさし奉らる、時に時平公二十七、 菅神五十四。
祐筆ゆうひつの大村由己は、今、秀吉の口述をうけて、一書を代筆していたが、ふと、醍醐だいごという文字をどわすれして、頻りと、筆の穂を噛みつつ思い出そうとしていた。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
なにしろ、人皇にんのう第六十代醍醐だいご天皇様の御世みよの出来事だから、人別にんべつのところに少しの狂いはあるかも知れないけれども、どっちにしても綺麗な女の方に間違いはない。
大菩薩峠:05 龍神の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
事実、この長兵衛という男は、醍醐だいご辺の百姓とも、小栗栖の庄屋の息子だとも、諸書に種々伝えられているが、いずれにしても真面目な農でないことは確からしい。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
醍醐だいごに三論宗の先達で権律師ごんりっし寛雅という人があった。
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
後の、醍醐だいご、桃山、慶長けいちょうにわたる一世代のらんまんたる文化の興隆に、これら五奉行の文官的な功績が、他の武将の武勲に劣るものでなかったことはいうまでもない。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
道は醍醐だいごの下りになって、六地蔵の四つ街道の追分が、もう眼の下に見えて来た。
宮本武蔵:03 水の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
蜂須賀の侍たちは、世間の目を避けるためにも、必ず裏街道うらかいどうをとって大阪へ戻るであろうと察したので、彼は、迷うことなく道をとって、夜の暁方あけがたに、醍醐だいごの山寺で一ときばかり休んでいた。
鳴門秘帖:01 上方の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いちばん上で、当時七歳ななつであった今若は、その後、醍醐だいご寺に入って、これも出家し、禅師全成と名のっていたが、気が荒いので、悪禅師といわれ、今は醍醐にもいず、消息もよくわからない。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
三万の兵も、信長とひとつに、粛として、叡慮えいりょにこたえまつらんと無言のうちに誓った。——醍醐だいご山科やましな、宇治方面から伏見にいたるまで、半日のうちに、尾濃びのうの兵馬を見ない所はなくなった。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
まず醍醐だいごの三宝院へ行ってみます。あそこの僧正も日野家から出たお方です。それでも分らなければ日野ノ荘の萱尾かやお明神や、法界寺や、日野ノ里をくまなく訊けば、わからぬはずはございませぬ。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)