にじ)” の例文
そこでクリシマ博士は、再び顕微鏡めがねの方に向いた。そしてプレパラートをすこし横へにじらせると、また接眼せつがんレンズに一眼を当てた。
(新字新仮名) / 海野十三(著)
自宅うちへも寄らずにその足で海老床へ駈けつけた勘次は、案の定暢気そうな藤吉を見出してそのままにじり寄ると何事か耳許へ囁いた。
そう法水に宣告されてしまうと、つい今しがた此奴こやつとばかりに肩口を踏みにじった熊城でさえ、そろそろ自分の軽挙が悔まれてきた。
黒死館殺人事件 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
いな、彼女は初恋の人に対する心と肉体との操を守りながら、初恋をにじられた恨を、多くの男性に報いていたとってもよかった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
しかし、直覚があるからと言つて、常識を踏みにじつて了ふ人達には私は左袒さたんしない。常識は、少くとも自然の外面的『あらはれ』である。
エンジンの響 (新字旧仮名) / 田山花袋田山録弥(著)
にじりつけたようなぐあいになってこびりついている……湖や沼の岸にある淡水藻はアオミドロかカワノリ……エビ藻やフサ藻は
肌色の月 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
一生懸命に夫を押えている手も女の悲しさ、次第に力が弱って、今にも子供諸共踏みにじられそうになった。彼女は身を悶えながら只微に
支倉事件 (新字新仮名) / 甲賀三郎(著)
支配者達は、青年の生を踏みにじったと同じように死をも侮辱した。それは極端な表現のように思われるかも知れない。果してそうだろうか。
青年の生きる道 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
あまり爪尖つまさきに響いたので、はっと思って浮足で飛び退すさった。その時は、ひなうぐいすにじったようにも思った、傷々いたいたしいばかり可憐かれんな声かな。
海の使者 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そして国民軍の出動によつて散々ににじられた労働者の様子に心の底まで動かされたアレキサンダア・ベルクマンは彼れの生命を賭して
乞食の名誉 (新字旧仮名) / 伊藤野枝(著)
そして、跫音のしないやうに、舞ひ落ちた秘密な粉を踏みにじることのないやうに、女に残された空虚な部屋へ這入つてみた。
(新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
貫一は寄付よせつけじとやうに彼方あなたを向きて、覚めながら目をふさぎていと静にしたり。附添婆つきそひばばの折から出行いでゆきしをうかがひて、満枝は椅子をにじり寄せつつ
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
と赤羽君は忽ちマンドリンを踏みにじった。乱暴極まる。理も非もない。佐伯君は呆気に取られて手出しをしなかった。
凡人伝 (新字新仮名) / 佐々木邦(著)
みのるが自分の腕に纒繞まつはつてゐる爲に、大膽に世間を踏みにじれないといふ事が自分に禍ひをしてゐるのだと思ふと
木乃伊の口紅 (旧字旧仮名) / 田村俊子(著)
人間には、弱い者を踏みにじるという、醜い本能があります。私は子供の時分から、敏感にそのことを感じました。
自分を鞭打つ感激より (新字新仮名) / 小川未明(著)
わツと彼の膝へ泣き伏したい衝動にかられながら、それをぢつとこらへ、一歩、一歩、初代のそばへにじり寄つた。
すべてを得るは難し (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
上から上から這いかかり乗りかかる。怪我けがをする。血を流す。嘔吐く。気絶する。その上から踏みにじる。警官も役人も有志も芸妓げいしゃも有ったもんじゃない。
爆弾太平記 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
彼は常々「貧乏である」というだけのことで、世間が一切の自然な対等的な要求を踏みにじることを当然にしているような事実に反抗せずにはいられなかった。
地上:地に潜むもの (新字新仮名) / 島田清次郎(著)
「それは私の被衣かつぎをその痩せ衰へた頭からとると、二つに引裂いて、床に投げつけて踏みにじつたのです。」
それを、あなたは、そのわずかな誇りを踏みにじって、無理矢理、口を引き裂いても愛の大声を叫ばせようとしているのです。愛しているのは、恥ずかしい事です。
新ハムレット (新字新仮名) / 太宰治(著)
「先には、十禅師じゅうぜんじ神輿しんよをさえ、にじった、あの羅刹らせつどもが、祈願をしたとて、何のかいがあるものか」
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「白法師の所業しわざに相違ない。我々の部落、我々の信仰を日頃から彼奴きゃつそしっていた。我々の神聖な神をけがし、我々の霊場を踏みにじった者は彼奴きゃつ以外にあるはずがない!」
八ヶ嶽の魔神 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
しかも、その近辺の勁草はいずれも踏みにじられ、柔らかい地膚の中へめり込ませられて、何さまここでよほどの強力なものが大格闘を演じたと見らるべきものであった。
令嬢エミーラの日記 (新字新仮名) / 橘外男(著)
草は踏みにじられていた。所々に、醤油のような色をして、血が淀んでいた。その中に一つの、首の無い、醜くて、滑稽な感じのする死体と、首のあるのとが転がっていた。
南国太平記 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
ほとほと疲弊困憊ひへいこんぱいした慧鶴青年は、何等か心を転ずるものを求めようとすればそこに、土足で乳のみ児の上をにじって来るような無残な情緒がひらめいて橘屋の娘の顔が浮ぶ。
宝永噴火 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
祖母たちには、どんな「高尚な掟」でも、自分達の利益の前には平気でにじっていいのだ。
末の妹に踏みにじられるやうな兄達を生みの親であれば作り上げやうとは思ひませんけれど。
遺書 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
岩間に根を下ろした米躑躅が旨く手掛りや足掛りを造ってれるが、其度毎そのたびごとに枝間に咲きこぼれたつつましやかな白い花をむしり取ったり、薄桃色の花を蹈みにじったりするのは
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
然し遂に最後の安心は来た「父よ(父よは愛よである)我れわが身を汝にゆだぬ」。そして本当に神々こうごうしく、その辛酸にせた肉体を、最上の満足の為めにあしの下に踏みにじった。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
我々は先ず床の間(部屋の壁龕)へにじり寄って、極めてさっぱりした懸け物を眺め、次に落ち込んだ炉へと躙って行ったが、これは三角形の場所で、その中に若干の石があり
左大臣のやり方は、他人の面目や世間のおきてを蹈みにじった傍若無人ぼうじゃくぶじんな行為であるのみか、色道の方でも仲間の仁義を無視した仕方で、あれでは色事師の資格はないと云うべきである。
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
そこの隅々に置かれた共同ベンチには、いつものように浮浪人らが寝支度ねじたくをしていた。ベンチのそばにはどれもこれもおびただしいバナナの皮が踏みにじられていた。浮浪人達の夕食なのだ。
一寸法師 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
らった上は決してがさぬ。光代との関係は確かに見た。わが物顔のそのつらにじるのは朝飯前だ。おれを知らんか。おれを知らんか。はははははさすがは学者の迂濶うかつだ。馬鹿な奴。
書記官 (新字新仮名) / 川上眉山(著)
女は、「へえ」と腰をこごめながら、それでやっと、「ほんならここからどうぞごめんやす」と沈み沈み言って、上り框ににじり上がって、茶の間の板の間のところに小さくなって坐った。
霜凍る宵 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
然るに今や老年と疾病とはあらゆる希望と気魄とをにじろうとしている。此の時に当って、かつて夜々紐育ニューヨーク巴里パリにまた里昂リヨンの劇場に聞き馴れた音楽を、偶然二十年の後、本国の都に聴く。
帝国劇場のオペラ (新字新仮名) / 永井荷風(著)
自分の職務というよりも、私があの紳士を制止したのは紳士の生命をあやぶんでのことではないか、私は弱き者の理由がかくして無下ににじられて行くのを思うて思わず小さい拳を握った。
駅夫日記 (新字新仮名) / 白柳秀湖(著)
ジェーンは義父ぎふ所天おっとの野心のために十八年の春秋しゅんじゅうを罪なくして惜気おしげもなく刑場に売った。にじられたる薔薇ばらしべより消え難きの遠く立ちて、今に至るまで史をひもとく者をゆかしがらせる。
倫敦塔 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
その顔には、少しずつにじられて行くような気の衰えが見えた。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
にじり寄るように、圓生はしてきた。
小説 円朝 (新字新仮名) / 正岡容(著)
女ににじらる6・10(夕)
薄く地面を覆った雪のためと、それをあわてて踏みにじった諸人の足跡のために、置場の入口からもなんの目星い手掛りも得られなかった。
踏みにじられた号外で足元も見えないステイションの鉄階子てつばしごを降りて街上に出ると、伸子は混乱に圧倒され、しっかり平野の腕につかまった。
伸子 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
やうやく作業が終りをつげたと思つたら今度は急にヂリヂリとにじり寄つて一尺あまりの近さに寄り、妙に真面目な顔付をして紙の面を眺めてゐる。
竹藪の家 (新字旧仮名) / 坂口安吾(著)
お前が、勝平の告白に感激して、お前の手を与えて御覧! 彼は、その手をいただくような風をしながら、何時の間にかお前をにじってしまうのだ。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
じただらを踏むばかりに蹴はづして、一段膝をついてにじあがると、くだんの障子をそっと開けたが、早や次の間は真暗まっくらがり。
註文帳 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
「するとこれが、踏みにじった婚礼の象徴シンボルなんですね。」法水はポケットから泥塗れにつぶれた白薔薇しろばらを取り出して
聖アレキセイ寺院の惨劇 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
警部は左手をあげて合図あいずをすると、みずから先頭に立ってソロソロとい出しました。ゆっくりゆっくり戸口の方へにじり出てゆきます。息づまるような緊張です。
崩れる鬼影 (新字新仮名) / 海野十三(著)
名宣なのられし女は、消えもらでゐたりし人陰のくらきよりわづかにじり出でて、面伏おもぶせにも貫一が前に会釈しつ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
それよりも、二人の幸福を、平気でにじつてゐるんですもの……。二人の生活を楽しいものにするつていふ希望が、あの人のどこにも現れてゐないんですもの……。
驟雨(一幕) (新字旧仮名) / 岸田国士(著)
つかつかと、大股おおまたに歩いてきた。いきなり土足を庄次郎の背へかけると、ぐいぐいとにじって
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)