おのの)” の例文
旧字:
儀右衛門はそこでハッとなり、鋭い苦痛を思って、ふるおののいた。彼は夜具に触れる衣擦きぬずれにも、けだものめいた熱っぽさを覚えるのだった。
人魚謎お岩殺し (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
その刹那、ふるおののく二つの魂と魂は、しっかと相抱いて声高く叫んだ。その二つの声は幽谷にむせび泣く木精こだまと木精とのごとく響いた。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
聖書を隅から隅にまですがりついて凡ての誘惑に対する唯一の武器とも鞭撻とも頼んだその頃を思いやると立脚の危さに肉がおののきます。
『聖書』の権威 (新字新仮名) / 有島武郎(著)
正吉の手頸を掴んだお美津の手がわなわなとおののいていた。然しその眸子は、急に大胆に輝き、あかくしめった唇は物言いたげに痙攣ひきつった。
お美津簪 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
だが夫人の明徹な脳髄は、一方に於て恐れおののき、そしてまた一方に於てその意味なき幻影を意味づけようとして鋭き分析の爪をたてた。
ヒルミ夫人の冷蔵鞄 (新字新仮名) / 海野十三丘丘十郎(著)
「アッ」という叫び声、見る見る青ざめる顔、恐怖におののく唇、箱の中の一物を見ると、川村は思わずタジタジとあとじさりをした。
白髪鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
いま熱情に燃えさかっている青年が、もし自分の老いさらぼうた後の姿を見せつけられたなら、恐れおののいて飛びすさることだろう。
何が生じて来るであろうか? 魂は姙婦のように、自分のうちに眼を向けて口をつぐみ、胎内のおののきに気づかわしげに耳傾ける。
かよわい婦女子でなくとも、俯して五丈に余る水面を見、仰いで頭を圧する十丈に近い絶壁を見る時は、魂消え、心おののくもことわりであった。
恩讐の彼方に (新字新仮名) / 菊池寛(著)
そして疲れはてては咽喉のどや胸腹に刃物を当てる発作的ほっさてきな恐怖におののきながら、夜明けごろから気色の悪い次ぎの睡りに落ちこんだ。
贋物 (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
伝統や権威やに屈従する心が無意識的にもしくは恐れおののきつつ建ててそれに自らを支配させようとするような種類のものでなく
語られざる哲学 (新字新仮名) / 三木清(著)
早瀬より、忍び足する夫人の駒下駄が、かえっておののきに音高く、辿々たどたどしく四辺あたりに響いて、やがて真暗まっくらな軒下に導かれて、そこで留まった。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
風が来て、葉がおののくたびに固まった。一団は、まりのようにあちらへ転じ、一団はこちらへと転って来る。そして彼等は歌った。
森の暗き夜 (新字新仮名) / 小川未明(著)
しかもその美的方則の構成には、非常に複雑な微分数的計算を要するので、あらゆる町の神経が、異常に緊張しておののいていた。
猫町:散文詩風な小説 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
彼等は、いま立去った旅人を人間とは見なかったように、いま捲き起った霧を、単純な天変とは見ることができないで、おののきはじめました。
大菩薩峠:21 無明の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
重たい画帳を載せると同時に両方の膝頭がガクガクとおののいているのに気が付いた。画帳を開こうとすると指がわなないて自由にならなかった。
けむりを吐かぬ煙突 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
その最もおののかれている正体不明の魔海の中へ、しかも最難個所の東経百五度以東において捲き込まれてしまったのであった。
ウニデス潮流の彼方 (新字新仮名) / 橘外男(著)
私たちはおののきを身に覚えました。もはや今の画家には近づくことさえ出来ぬ画境なのを感じます。墳墓の霊の住所なのです。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
相互の約束を取り決めると、小次郎はそこの木挽小屋こびきごやの戸をたたき、中へはいって行って、おののいている二人の木挽に命じた。
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
葉子は途切れ途切れに言って、激情に体をおののかせていた。庸三は驚きそばへ寄って、なだめの言葉をかけたが、かいがなかった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
譲治は段々気が落ちついて来ると、余りにも恐しい罪におののきました。咄嗟の間に人間を二人も殺し、しかも、一人は命にも代え難い愛妻なのです。
深夜の客 (新字新仮名) / 大倉燁子(著)
気味の悪いお米の笑い声が、すぐその後から追っかけて、こう座敷へ響き渡った時には、豪雄の勾坂甚内さえ何がなしにゾッとおののかれたのである。
三甚内 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
主馬頭モンテイロの旧屋敷へ馬の脚が通ってくるなんて、私もこの恐ろしい偶一致コインシデンスにはひそかにおののいていたんだが、通うと言えば
動揺する瀑の水よりも、其下に湛えた藍色の水に恐るき秘密の力が籠っている。私達は底光りのする青黒い淵を覗いて今更のように怖れおののいた。
黒部川奥の山旅 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
彼は喜びにおののいた。戦きながらその言葉の威力の前に圧倒された。彼はしまいには砂に伏して、必死に耳をふさごうとした。が、自然は語り続けた。
素戔嗚尊 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
板壁は断末魔の胸のように震えおののいた。その間にも私は、寸刻も早く看守が来て、——なぜ乱暴するか——ととがめるのを待った。が、誰も来なかった。
牢獄の半日 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
破戒の罪におののきながらも煩悩の火の燃えさかるまま、終いには毒食わば皿までもと住職の眼を掠めては己が部屋へ引き入れ、女犯にょぼん地獄の恐しい快楽けらく
避け難い危急が切迫しているかのように心をおののかせながら、珈琲コーヒーを注いでまわる。小さい丸い水溜りが光を反射し、そして、茶碗の中で湯気を立てる。
幸いにして明るくなかったからよかったものの、もし電燈の下にでも立ったなら、いかに顔が青ざめていたであろう。とにかくも、おののきをおさえられぬ。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
わけて明暦の大火は江戸未曽有の大火であったから、市民は由比丸橋の残当の放火であろうと言って恐れおののいた。
日本天変地異記 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
さう思つて彼が或る部屋へ這入つて行くと疲れ衰へた胡乱なその姿があまりに甚しく心のおののきがあまりに外にあらはに見えてゐるので、妹などもしまひには
殊勝のえんつらなれる月卿雲客、貴嬪采女きひんさいじょ、僧徒等をして、身おののき色失い、慙汗憤涙ざんかんふんるい、身をおくところ無からしめたのも、うそでは無かったろうと思われる。
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
このあたりは一面の荒涼たる枯葦原。遠くには夕陽に燃えあがるペエ・ドオトの山の斜面、風におののくものは枯草と野薔薇の枝、鳴くものはくちばしの赤いからすばかり。
ああ、一たび怒れば海神かいじんおののく『富士』よ。ただこの一回の砲撃で、敵の四機は影もなし。見えるものはただ白い波頭なみがしら、聞えるものはただ黒潮の高鳴たかなりである。
昭和遊撃隊 (新字新仮名) / 平田晋策(著)
私は爆弾や焼夷弾しょういだんおののきながら、狂暴な破壊にはげしく亢奮こうふんしていたが、それにも拘らず、このときほど人間を愛しなつかしんでいた時はないような思いがする。
堕落論 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
昨日は親しき者の健康についておののき、今日はおのれの健康について気づかっている。明日は金銭上の心配、明後日は誹謗者ひぼうしゃの陰口、次の日は友人の不幸が来る。
避妊に至っては己の島の絶滅を予感してその前におののいているものが、そんな事をする訳が無いのである。
そうかとおもえば、ぎの瞬間しゅんかんには、わたくしはこれからきの未知みち世界せかい心細こころぼそさにふるおののいているのでした。
見物席は自分の場合のこととしての実感でうけ入れ、批判し、緊張している精神のおののきが感じられた。
広場 (新字新仮名) / 宮本百合子(著)
そして全世界はおののき震え、着古した衣をかなぐり棄てて、新しい驚くべき美しさを以て立ち現われる。
しかし広大無辺の曠野にはげきとして声なく、岩上の文字は『沈黙』というのであった。彼はおののき震え、おもてをそむけ、愴惶そうこうとして遠く逃げ去って、再び帰って来なかった
ジャン・クリストフは、そういう国家的利己主義の前におののいた。彼にいわすれば、ドイツとフランスとは、たがいに相補って欧州文明の双翼となるべきものであった。
あの夜、火の手はすぐ近くまで襲って来るので、病気の義兄は動かせなかったが、姉たちはごうの中でおののきつづけた。それからまた、先日の颱風たいふうもここでは大変だった。
廃墟から (新字新仮名) / 原民喜(著)
そして、紀久子は泥沼の底のような不気味な沈黙の中に、歯の根も合わないまでにふるおののいていた。
恐怖城 (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
すると毛並は荒々しくさか毛立って、強い潮風におののいた。私の胸は取り返しのつかない間違いをしてしまった後悔の心で重たく沈んで、そして俄に泪がこみ上げて来た。
シルクハット (新字新仮名) / 渡辺温(著)
さて、このふぐという奴、猛毒魚だというので、人を撃ち、人を恐れおののかしめているが、それがためにふぐの存在は、古来広く鳴り響き、人の好奇心も動かされている。
河豚のこと (新字新仮名) / 北大路魯山人(著)
少しおののく様な語調で「実は貴方が御存じの様に聞きます松谷秀子の件も大場氏から聞きましたが」
幽霊塔 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
あとからあとからとこみあげてくる昂奮のために心の平衡をうしなった彼の眼がどうにも収拾のつかないほど湧きかえる空想の焦点を定めかねておののくように顫えているのを
菎蒻 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
圓太郎夫婦の、玄正の、期せずして六つの目が、桐庵先生の無精鬚だらけの塩鰤しおぶりをおもわせる顔の上へと集まった、紅か白粉かと胸おののかして最後の宣告を待つもののように。
小説 円朝 (新字新仮名) / 正岡容(著)
思い出にわなわなとおののくと、彼は女の髪を撫でてじっとその顔に見入りながら、この不幸な罪の女こそ自分の唯一の隣人、親身の、かけがえのない人間であることを覚った。
決闘 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)