妄想もうそう)” の例文
康頼 (船より目を放たず)わしのおろかな妄想もうそうだろうか。いや、どうもいつもとは違うようだ。わしに与える気もちがちがっている。
俊寛 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
昨夜ゆうべ一晩中思い続けていたお増は、朝になると、いくらか気が晴れて、頭脳あたまのなかのもやもやした妄想もうそうが、拭うように消えて行った。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
ただ妄想もうそうという怪獣の餌食えじきとなりたくないためばかりに、私はここへ逃げ出して来て、少々身体には毒な夜露に打たれるのである。
交尾 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)
それからまた私は、もの思いに沈んでいるとき自分に群がりよってくる影のようないろいろの妄想もうそうにうち勝つこともできなかった。
読書や会話は、彼女のうちに恋愛の妄想もうそうを作り出して、それが無為閑散な生活のうちでは、しばしば恋愛狂に似寄ってくることが多い。
知識と経験とが相敵視し、妄想もうそうと実想とが相争闘する少年の頃に、浮世を怪訝かいが厭嫌えんけんするの情起りやすきは至当の者なりと言うべし。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
なさけない……なになにやら自分じぶんにもけじめのない、さまざまの妄念もうねん妄想もうそうが、暴風雨あらしのようにわたくしおとろえたからだうちをかけめぐってるのです。
われわれの自由と幸福をさまたげている、あのけちくさい妄想もうそうを追っぱらうこと、これが僕らの生活の目的であり意義なんです。
桜の園 (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
妄想もうそうで源氏の恋人気どりになって待っていることは自分にできないと女は決めて、小君が源氏の座敷のほうへ出て行くとすぐに
源氏物語:02 帚木 (新字新仮名) / 紫式部(著)
彼は、そうした妄想もうそうを去って、うかして、眠りを得ようとした。が、彼が努力すれば努力するほど、眼も耳もえてしまった。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
「探偵小説家は実際の犯罪をしない。それは、いつもペンを走らせて犯罪を妄想もうそうしているから、犯罪興奮力がにぶっているのだ」
省線電車の射撃手 (新字新仮名) / 海野十三(著)
モノヲ思考スル能力ガ全ク衰エテ一ツヿヲ五分ト考エツヅケル根気ガナイ。頭ニ浮カブノハ妻ト寝ルヿニ関シテノ妄想もうそうノ数々バカリデアル。
(新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
そいで、チャンとして生きて行く資格は自分にゃないように思った。……妄想もうそうだ。強迫観念だ。クソインテリの観念過剰だ。
胎内 (新字新仮名) / 三好十郎(著)
私はそこにしゃがんで、メリーの頸を抱きよせ、その眼差しに見入りながら、自分の頭が妄想もうそうから洗われていくのを感じた。
犬の生活 (新字新仮名) / 小山清(著)
下級船員たちが、「人間」らしくあるということが、今では、彼らの権威を傷つけるという、その妄想もうそうから彼らは、解放されたように見えた。
海に生くる人々 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
しかもそれを実行した迷信とも妄想もうそうともたとえようのない、狂気じみた結願けちがんがなんの苦もなくばらばらにくずれてしまって
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
いっさいの近代的傾向を自然主義という名によって呼ぼうとする笑うべき「ローマ帝国」的妄想もうそうから来ているのである。
「でたらめだ、気ちがいの妄想もうそうだ。それとも、しょうこがあるか。何をしょうこに、そんないいがかりをつけるのだ。」
妖怪博士 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
だから、かの女は自分の妄想もうそうまでが、領土を広く持っている気がするのである。自分の妄想までをそばで逸作の機敏な部分が、咀嚼そしゃくしていてれる。
かの女の朝 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
妄想もうそうのはなはなだしきものにして、その妄漫もうまんなるは、空気・太陽・土壌の如何を問わず、ただ肥料の一品に依頼して草木の長茂を期するに等しきのみ。
徳育如何 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
四月も暮れ、五月もって行った。彼は相変らず薄暗い書斎に閉籠って亡霊の妄想もうそうふけっていたが、いつまでしてもその亡霊は紙に現れてこなかった。
贋物 (新字新仮名) / 葛西善蔵(著)
それも一瞬間の妄想もうそうに止まって、旅費なしには一日か二日も他郷へ出かける無謀な勇気を彼れは持っていなかった。
入江のほとり (新字新仮名) / 正宗白鳥(著)
主人が妄想もうそうちて、いたずらに立てるあいだに、花前は二とう三頭とちゃくちゃくしぼりすすむ。かれは毅然きぜんたる態度たいどでそのなすべきことをなしつつある。
(新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
「これは、わたしののせいであろう。」とおもって、あねひめは、いってみるなどという妄想もうそうたれました。
黒い塔 (新字新仮名) / 小川未明(著)
罪深い妄想もうそうや思考や誘惑、さてはめいめいのあいだに起こった争いなどを、声高らかに懺悔ざんげするのであった。
彼はついにすべての妄想もうそうを断ち切って、しだいに地上を離れ、他の所に慰安と力とを求めた。彼は自ら言った。自分は自己の義務を果たさなければならない。
あの鳩のような小さな胸に浮かみ現われた根も葉もない妄想もうそうによって、貴下と小生の家庭は申すに及ばず、満都の新聞紙、警視庁、神奈川県の司法当局までも
少女地獄 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
人々役々で、退どきはちがうが、清盛はこのところ、帰宅は毎日、夜おそくなった。疲れる、腹がすく、妄想もうそうのいとまもない。結局、かれは救われた気がした。
今日の事態に於けるものは、すべて島国鎖国の迷夢であり、空の空たるでたらめの妄想もうそうにすぎないのだ。
詩の原理 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
自分がきめてもいいから楽ができなかった時にすぐ機鋒きほうを転じて過去の妄想もうそうを忘却し得ればいいが
倫敦消息 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
……だが、この街が最後のたてになるなぞ、なんという狂気以上の妄想もうそうだろう。仮りにこれを叙事詩にするとしたら、最も矮小わいしょうで陰惨かぎりないものになるに相違ない。
壊滅の序曲 (新字新仮名) / 原民喜(著)
例へば北斎が描ける幽霊の図を批評するに当り、日本人の妄想もうそうが幽霊を作出つくりいだせし心理作用にまでさかのぼりて論究せんとするが如きは画論の以外にせたるものといふべし。
江戸芸術論 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
それからは例の妄想もうそう勃然ぼつぜんと首をもたげて抑えても抑え切れぬようになり、種々さまざま取留とりとめも無い事が続々胸に浮んで、遂にはすべてこの頃の事は皆文三の疑心から出た暗鬼で
浮雲 (新字新仮名) / 二葉亭四迷(著)
我々が物の真相を知るというのは、自己の妄想もうそう臆断おくだん即ちいわゆる主観的の者を消磨し尽して物の真相に一致した時、即ち純客観に一致した時始めてこれをくするのである。
善の研究 (新字新仮名) / 西田幾多郎(著)
空想の翼はさらに自分を駆って人間に共通な舞踊のインスティンクトの起原という事までもこのねこの足踏みによって与えられたヒントの光で解釈されそうな妄想もうそうに導くのであった。
備忘録 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
恋の曲者くせもの、代言人、物事に熱くなるさが乳母うば、それに猥褻わいせつな馬鹿話、くだらぬ妄想もうそうは、すべて運星のめぐりに邪魔をいたします……さあ、いらっしゃい、わたしたちの力を頼めば
大菩薩峠:28 Oceanの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
太田はかの癩病人が、自分の同志の一人であろう、という考えを幾度か抛棄ほうきしようとした。すべての否定的な材料をいろいろと頭の中にあげてみて、自分の妄想もうそうを打ち破ろうと試みた。
(新字新仮名) / 島木健作(著)
千両の鶯、などという妄想もうそうがそれをあらわしているように思う、と登は云った。
赤ひげ診療譚:06 鶯ばか (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
過ぎ去った過去のことを思い出してくよくよするのは、遠い先の未来のことを妄想もうそうして思い上るのと同じくらい愚劣な空事そらごとだからな。一番大切なのは現在だ。現在の中に存在する可能性だ。
なよたけ (新字新仮名) / 加藤道夫(著)
よいか? 金銭の取りあつかいには気をつけるのですよ。借りても駄目。貸しても駄目。つぎに飲酒。適度に行え。けれども必ず、ひとりで飲むな。ひとりの飲酒は妄想もうそうの発端、気鬱きうつの拍車。
新ハムレット (新字新仮名) / 太宰治(著)
純一はたちまち肌の粟立あわだつのを感じた。そしてひどく刹那せつな妄想もうそうじた。
青年 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
それからの享楽きょうらく妄想もうそうして、夢中むちゅうで、合宿を引き上げる荷物も、いい加減にしばりおわると、清さんが、「坂本さん、今夜は、家だろうね」とからかうのに、「勿論もちろんですよ」こう照れた返事をしたまま
オリンポスの果実 (新字新仮名) / 田中英光(著)
下 堅く妄想もうそうでつして自覚妙諦みょうたい
風流仏 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
妄想もうそうであることを一言したい。
自警録 (新字新仮名) / 新渡戸稲造(著)
横になりはしたがいつまでも寝つかれないで二時近くまで言葉どおりに輾転てんてん反側しつつ、繰り返し繰り返し倉地の夫婦関係を種々に妄想もうそうしたり
或る女:2(後編) (新字新仮名) / 有島武郎(著)
音楽的妄想もうそうが、しつこく頭につきまとって来た。昼は、心の中にある人々や愛する人々、遠く離れてる人々や死んだ人々と、たえず話をかわした。
半分は自分の恐怖からそんな妄想もうそうを描いたのだと思ったのであるが、事実、風がごうッと吹き付ける度に、この家の柱と壁の隙間が一二寸離れるのを
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
N女史の前に坐った作者の心中しんちゅうにかくされていた妄想もうそうが反映したのに過ぎないとも云えないこともないのである。
国際殺人団の崩壊 (新字新仮名) / 海野十三(著)
すなわち今の事態を維持いじして、門閥の妄想もうそうを払い、上士は下士に対してあたかも格式りきみの長座ちょうざさず、昔年のりきみは家を護り面目めんもくを保つのたてとなり
旧藩情 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
それが妄想もうそうというものでしょうね。僕にはその忍び寄った人間が僕の秘密を知っているように思えてならない。
ある崖上の感情 (新字新仮名) / 梶井基次郎(著)