あえ)” の例文
だが、いたわる方の側の息が苦しそうにあえいでいるのに対し、いたわられている方のカズ子は岩の上を伝う小鳥のように身軽だった。
千早館の迷路 (新字新仮名) / 海野十三(著)
六兵衛はわれ知らず逃げ腰になり、口をあいてあえいだ。口をあかなければのどが詰まって、呼吸ができなくなりそうだったからである。
ひとごろし (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
彼の頭には願仁坊主がんにんぼうずに似た比田の毬栗頭いがぐりあたまが浮いたり沈んだりした。猫のようにあごの詰った姉の息苦しくあえいでいる姿が薄暗く見えた。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
まだ薄暗い方丈の、朝露に濡れた沓脱くつぬぎ石までけつまろびつ走って来た一人の老婆が、まばらな歯をパクパクと噛み合わせてあえいだ。
大きな砂利が靴の裏ですべって、やっと両側のくさむらが尽きかけるあたりまできたとき、慣れない男は、やはり少しあえぎはじめていた。
箱の中のあなた (新字新仮名) / 山川方夫(著)
バスは大変な満員で、僕ですらあえぐような始末であったが、僕の隣りに学習院の制服を着用した十歳ぐらいの小学生男子が立っていた。
青春論 (新字新仮名) / 坂口安吾(著)
それらは幾十人となく強くどっしりと眼にうけとられる物ばかりであって、私は一種のにわかに生ずるあえぎさえおぼえたくらいだ。
細い喉で、尖った喉仏のどぼとけの動いているのが見える。その時、その喉から、からすの啼くような声が、あえぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。
羅生門 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
見ると熱があるのか、赤くむくんだ顔を茫然とさせ、私が声をかけても、ただ「つらい、つらい」と義兄はあえいでいるのであった。
廃墟から (新字新仮名) / 原民喜(著)
彼女には、血みどろのシグマが、むごたらしくあえいでいるのが、いつまでたっても茂少年の、のたうち廻る姿に見えて仕方がなかった。
吸血鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
物凄ものすごい生の渦巻の中であえいでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではない(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせだ)
悟浄出世 (新字新仮名) / 中島敦(著)
涙はこぼれて、はがねまし、冷めた鋼は又、火土ほどの中へ投げ込まれて、彼の苦しい胸のあえぎを吐くように、鞴の呼吸いきにかけられた。
山浦清麿 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
あえぎ/\車のきわまで辿たどり着くと、雑色ぞうしき舎人とねりたちが手に/\かざす松明たいまつの火のゆらめく中で定国や菅根やその他の人々が力を添え
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
あえぎ喘ぎ炎天下の道を行く。現代のような広い道路はないから、厭でも向うからのろのろ歩いて来る牛とすれ違わなければならぬ。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
ああ神よ、鹿の渓水たにみずを慕いあえぐがごとく、わが霊魂も汝を慕い喘ぐなり。わが霊魂は渇けるごとくに神を慕う、活ける神をぞ慕う。
取縋とりすがる松の枝の、海を分けて、種々いろいろの波の調べのかかるのも、人が縋れば根が揺れて、攀上よじのぼったあえぎもまぬに、汗をつめとうする風が絶えぬ。
草迷宮 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
目科はあたかも足を渡世とせい資本もとでにせる人なると怪しまるゝほど達者に走り余はかろうじて其後に続くのみにてあえぎ/\ロデオンまちに達せし頃
血の文字 (新字新仮名) / 黒岩涙香(著)
もう分り切ってるじゃないか、それによし分らないことがあったにした所で、苦しくあえぐ彼女の声を聞いて、それでどうなると云うんだ。
淫売婦 (新字新仮名) / 葉山嘉樹(著)
切迫した、あえぐような、内心でなにかと闘っているような表情をしていたが、やがて、笑いの消えた顔を、だるそうに縦に振った。
地虫 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
道の千里も歩いて来たように胸があえいで、抱えて来た書物をドタリと机の上に投げ出すと、椅子にヘナヘナと崩おれてしまった。
陰獣トリステサ (新字新仮名) / 橘外男(著)
紺サージの布地を通して何ものかを尋ね迫りつつ尋ねあぐんでいる心臓の無駄なあえぎを感ずると、何か優しい嫋やかなものに覆い包んで
母子叙情 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
それはその時故郷の声が、ひときわ高く聞こえて来るからであった。しかしすぐに歩みをゆるめ、さも苦しそうにあえぎ声をあげた。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
のきの傾いた荒寺が草の中に立っていた。夜叉のあえ呼吸いきづかいがすぐ背後うしろで聞えた。大異はそのまま荒寺の中へ入って往った。
太虚司法伝 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
熊丸虎市も、ぐったりと、運び出された荷物のうえにへたばりこみ、阿呆のように、ぽかんと口を開いて、ただ、あえいでいた。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
吸い込むたびに痛むので息が半分しかできない。歯車の歯が折れてしまいそうだ。そのままぐたりとしてあがりかけた魚みたいにあえいでいる。
胆石 (新字新仮名) / 中勘助(著)
「お話をこしらえるんですって?」とあえぐようにいいました。「そんなこと、あなたに出来るの?——フランス語みたいに? ほんとに出来て?」
生活と四つに組んで、創作慾に引きずられて、弱いマラソン選手のように、あえぎ喘ぎ駆け続けているのが本当の姿である。
空虚な倉庫のうす闇、あちらの隅に終日すすり泣く人影と、この柱のかげに石のように黙って、ときどき胸を弓なりにあえがせる最後の負傷者と。
原爆詩集 (新字新仮名) / 峠三吉(著)
東支那海はかなり荒れているらしく、時々見かける、真黒な煙の尾を引いている汽船があえぎ喘ぎようやく進んでいるようにしか思われなかった。
秘境の日輪旗 (新字新仮名) / 蘭郁二郎(著)
自分らは汗をふきながら、大空を仰いだり、林の奥をのぞいたり、天ぎわの空、林に接するあたりを眺めたりして堤の上をあえぎ喘ぎ辿たどってゆく。
武蔵野 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
諸君のある者は——われわれはよく知っている——貧乏であり、生活になやみ、時としてはいわばふうふうあえいでいる。
湯にむせ返って、看視人たちにしっかり抑えつけられた手足を痙攣的けいれんてきにもがきながら、あえぎ喘ぎ、何やら取留めのないことをわめき立てるのだった。
井伏鱒二ますじ、中谷孝雄、いまさら出家遁世とんせいもかなわず、なお都の塵中にもがきあえいでいる姿を思うと、——いやこれは対岸の火事どころの話でない。
他の生命に触れ、揺すり、うごかし、抱き、一つに融けようとしてあえいだ。そしてその結果は自他ともに傷ついたのである。
愛と認識との出発 (新字新仮名) / 倉田百三(著)
M君はささえている両膝りょうひざの上に、せた二本の手をダラリとさげ、あえぐように口を開けて、足下ばかり凝視していた。
冬枯れ (新字新仮名) / 徳永直(著)
松風の音の寂しい山門を出てからも、お島はまだ墓の下にあるものの執着のあえぎが、耳につくような無気味さを感じた。彼女は急いで道をあるいた。
あらくれ (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
さてうして家庭が貧困のうちあえいで居乍らも、金さえ這入れば私は酒と女に耽溺する事を忘れませんでした。
陳情書 (新字新仮名) / 西尾正(著)
何も大路であるから不思議なことは無い。たまたま又非常に重げな嵩高かさだかの荷を負うてあえぎ喘ぎ大車のくびきにつながれてよだれを垂れ脚を踏張ふんばって行く牛もあった。
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
ここにいるひとたちが、みな幸福しあわせそうな顔をしているのに、茜さんだけが、ひとりでなにか苦痛にあえいでいる。
叫び声のようでもあったし、ぜいぜいいう瀕死のあえぎのようでもあった。われわれ三人が同時に顔をあげたところを見ると、皆にそれが聞えたらしかった。
小さな汽車が、あえぎながらやっと山のいただきから、また数マイルの谷間へ下りた所に、鉱山街、箇旧コチュウが横たわっている。
雲南守備兵 (新字新仮名) / 木村荘十(著)
奇物変物もすっかり影をひそめてしまった。では富の程度でも幾分か増進したかと問えば、それどころかこの村でも目下一戸当り千円の借金にあえいで居る。
また病人は病苦にあえぐ事を描いた文芸に接する事によって、その病苦を慰む事が出来る。考え様にれば人生は陰鬱いんうつなもの悲惨なものとも見る事が出来る。
俳句への道 (新字新仮名) / 高浜虚子(著)
夜通し吹荒れた西南の風に渦巻くけむりの中を人込みにまれ揉まれて、後へも戻れず先へも行かれず、押しつ押されつ、あえぎながら、人波の崩れて行く方へと
にぎり飯 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
少くともそんな気がして、二人で一緒にふりむくと、そのおじいさんは何やらあえあえぎ私達に向って物を言っているのだが、それがなかなか聞きとれなかった。
晩夏 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
絶えず吐く黒い煙と、あえいでいるような恰好かっこうとは、何かのろ臭い生き物のような感じを、見る人に与えた。
真珠夫人 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
その層の一番どん底を潜ってあえぎ喘ぎ北進する汽車が横川駅を通過して碓氷峠うすいとうげの第一トンネルにかかるころには、もうこの異常高温層の表面近く浮かみ上がって
浅間山麓より (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
そしてそこに聞こゆるものは、ただ一つの響き、瀕死ひんしあえぎに似た痛ましい響き、呪詛じゅその声に似た恐ろしい響き、すなわちサン・メーリーの警鐘の音のみだった。
あえぎ喘ぎ坂を登って行った車夫は高輪の岡の上まで出ると急に元気づいた。なるべく遅くと注文したいほどに思っている客を乗せて、車はぐんぐん動いて行った。
新生 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
四日の独立祭を目のまえに控えて、フィラデルフィアの町は、もう襲いかけた炎熱の下にあえいでいた。
チャアリイは何処にいる (新字新仮名) / 牧逸馬(著)