黄昏たそが)” の例文
低い山の裾をまわり、保土ヶ谷をすぎるころから、黄昏たそがれが深くなった。米軍の軍用トラックはいちだんとスピードを増しはじめた。
その一年 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
冬の日の風は死して、寂としてはや黄昏たそがれる渓間に、棚びきそめた灰色の靄をゆるがせて、二千呎の深い底から瀬の音が響いて来た。
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
「宇治だの」範宴はんえんは立ちどまった。足の下を迅い水音が聞える。やっと、黄昏たそがれに迫って、この宇治川の大橋へかかったのであった。
親鸞 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
と子供の声も黄昏たそがれて水底みなそこのように初秋の夕霧が流れ渡る町々にチラチラとともしびがともるとどこかで三味線の音がかすかに聞え出した。
山の手の子 (新字新仮名) / 水上滝太郎(著)
が、ものおと人聲ひとごゑさへさだかには聞取きゝとれず、たまにかけ自動車じどうしやひゞきも、さかおとまぎれつゝ、くも次第々々しだい/\黄昏たそがれた。
露宿 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
雨戸が一枚あけてあるだけだし、もう黄昏たそがれていて、灯のないその十一帖の座敷はひっそりと暗く、寒さが身にしみとおるように思えた。
五瓣の椿 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
正面に待乳山まつちやまを見渡す隅田川すみだがわには夕風をはらんだ帆かけ船がしきりに動いて行く。水のおもて黄昏たそがれるにつれてかもめの羽の色が際立きわだって白く見える。
すみだ川 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
それから煙草を二三服、懷中提灯ふところぢやうちんの用意をして外へ出ると、幸ひにトツプリ黄昏たそがれて、大して忍ばなくとも、人に顏を見られさうもありません。
やがてそれも薄暗くなつて来た。野原はひとしほ肌寒くなつて、だんだん夕闇がせまり、そろそろ黄昏たそがれそめる。
紅葉の『色懺悔』は万朶ばんだの花が一時に咲匂うて馥郁ふくいくたる花の香に息のつまるような感があったが、露伴の『風流仏』は千里漠々ばくばくたる広野に彷徨して黄昏たそがれる時
晩秋おそあきの晴れた一日ひとひが、いつか黄昏たそがれて、ほんのりと空を染めていた夕映ゆうばえも、だんだんにうすれて行く頃だ。
雪之丞変化 (新字新仮名) / 三上於菟吉(著)
豹一は一里以上もある道を築港ちっこうまで歩いて行き、黄昏たそがれる大阪湾を眺めて、夕陽を浴びて港を出て行く汽船にふと郷愁を感じたり、訳もなく海に毒づいたりした。
(新字新仮名) / 織田作之助(著)
そうして、東京という大都市のなかに、見るも黄昏たそがれたような孤島が作られることになったのである。
地虫 (新字新仮名) / 小栗虫太郎(著)
半町ばかり行つて復た振返つて見ると、未だ友達は同じところに佇立んで居るらしい。夕餐ゆふげの煙は町の空を籠めて、悄然しよんぼりとした友達の姿も黄昏たそがれて見えたのである。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
そとはもうすっかりと黄昏たそがれたようになっていた。私は馬車に乗って座を占めながら、寒さのほかに、広野の中で行き暮らしたような心細さが、ひしひしと心を襲った。
遠野へ (新字新仮名) / 水野葉舟(著)
秋の日はたちま黄昏たそがれて、やや早けれどともしを入るるとともに、用意の酒肴さけさかなは順をひて運びいだされぬ。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
そういって、いわつばめは、だんだん黄昏たそがれていく、奥深おくぶかそら見上みあげていました。
しんぱくの話 (新字新仮名) / 小川未明(著)
あたりはすっかり黄昏たそがれて広重ひろしげの版画の紺青こんじょうにも似た空に、星が一つ出ていた。
海底都市 (新字新仮名) / 海野十三(著)
黄昏たそがれて霧が立ちこめ、会社のひけどきの混雑。掻きわけて駅にすすむ。東京までの切符を買う。プラットフオムで、上りの電車を待っているあいだの永かったこと。わっ! と叫び出したい発作。
犯人 (新字新仮名) / 太宰治(著)
黄昏たそがれて行く山の中の寂しさがよく現れて居ると思ふ。かも秋でも冬でもない時の寂しさが見える。青いと音の感じを云つた言葉と、我れを待つと云ふ友情とでしめやかな春を伝へてゐるのである。
註釈与謝野寛全集 (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
表は、次第に、黄昏たそがれて来た。場内は電燈でまぶしいほど明かるい。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
寄りてこそそれかとも見め黄昏たそがれにほのぼの見つる花の夕顔
源氏物語:04 夕顔 (新字新仮名) / 紫式部(著)
米友が四辺あたりを見廻す時、四辺はようやく黄昏たそがれる。
大菩薩峠:07 東海道の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
もはや黄昏たそがれるのも早かった。
イオーヌィチ (新字新仮名) / アントン・チェーホフ(著)
南の国の黄昏たそが
かの日の歌【一】 (新字旧仮名) / 漢那浪笛(著)
その日の黄昏たそがれ、多くの傷兵が、惨として夕月の野に横たわっている官軍の陣営へ、何処からきたか、一ぴょうの軍馬が馳けきたった。
三国志:02 桃園の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
正面しやうめん待乳山まつちやま見渡みわた隅田川すみだがはには夕風ゆふかぜはらんだかけ船がしきりに動いてく。水のおもて黄昏たそがれるにつれてかもめの羽の色が際立きはだつて白く見える。
すみだ川 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
空はまだ明るかったが、あたりはすっかり黄昏たそがれて、夕凪ゆうなぎどきの湿気が、地面をむっとおおっていた。二人は水の見えるほうへ歩きだした。
山彦乙女 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
それから煙草を二三服、懐中提灯ふところぢょうちんの用意をして外へ出ると、幸いにトップリ黄昏たそがれて、大して忍ばなくとも、人に顔を見られそうもありません。
……雪が消えて、まだ間もない、乾いたばかりの——山国で——石のごつごつした狭い小路が、霞みながら一条ひとすじ煙のように、ぼっと黄昏たそがれてく。
絵本の春 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
帰り途、ひつそりと黄昏たそがれてゐる口繩坂の石段を降りて来ると、下から登つて来た少年がピヨコンと頭を下げて、そのままピヨンピヨンと行つてしまつた。新聞をかかへ、新坊であつた。
木の都 (新字旧仮名) / 織田作之助(著)
アヴェ・マリヤの鐘のねに、山上の日は黄昏たそがれて、“Wie Todes Ahnung” と唱われたように、黒い面覆が谷を包んで、見わたす氷の頂にアルペン・グリューンの輝く時。
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
空腹感をそそるかにあたりは黄昏たそがれはじめ、気ばやな家々に灯がともりはじめて行く。そんなときの読書はただの気休めにすぎない。なかなかやってこない都電も、くれば満員にきまっている。
煙突 (新字新仮名) / 山川方夫(著)
畢竟ひつきよう彼は何等の害をも加ふるにあらざれば、犬の寝たるとはなはえらばざるべけれど、縮緬ちりめん被風ひふ着たる人の形の黄昏たそがるる門の薄寒きにつくばひて、灰色の剪髪きりがみ掻乱かきみだし、妖星ようせいの光にも似たるまなこ睨反ねめそらして
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
暮れるのに遅い春の日も、ようやく、黄昏たそがれて来た。
花と龍 (新字新仮名) / 火野葦平(著)
東京とうけい城の関外へ出てから二日目、小さな宿場町へ黄昏たそがれ頃つくと、とある田舎酒館いなかぢゃやの前に馬をめて、彼らを待っていた男がある。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
池のおも黄昏たそがれる空の光を受けて、きらきらとまばゆく輝き、枯蘆と霜枯れの草は、かえって明くなったように思われた。
元八まん (新字新仮名) / 永井荷風(著)
外は黄昏たそがれかかっていて、早くも酔っているらしい客が、あちらこちらに一人二人と、娼家の軒先で女たちと話したり、ふざけた声で笑ったりしていた。
いま生命いのちびろいをした女でないと、あの手を曳いて、と小春に言ってみたいほど、山家の冬は、この影よりして、町も、軒も、水も、鳥居も暗く黄昏たそがれた。
みさごの鮨 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
日は次第に黄昏たそがれて、ゲンツィヤナの花は、もう、どれもどれもしぼんでしまった、私達は牧夫のように煙管をくわえて、坂路をとことこと下りて来る、山の夕暮は膚に沁みて、ホテルの窓ごしに
スウィス日記 (新字新仮名) / 辻村伊助(著)
さすがに古い京都らしいくすんだ黄昏たそがれ方であった。
土曜夫人 (新字新仮名) / 織田作之助(著)
山を降りて来たころ——沢はひっそり黄昏たそがれていた、風呂の煙が一つの軒からひろがって、狐色の尾花の上を低くっている。
宮本武蔵:02 地の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
街は雨のうちに黄昏たそがれかかってき、往来はタクシーや通行人たちや、トラックなどでそうぞうしくなっていた。
季節のない街 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
歌人うたびと住居すまいも早や黄昏たそがれるので、そろそろ蚊遣かやり逐出おいだしを懸けたまえば、図々しいような、世馴れないような、世事に疎いような、また馬鹿律義でもあるような
三枚続 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
自分はぢつとランプの火影ほかげを眺めた。外には夕栄ゆふばえに染められた空と入江とが次第に蒼白く黄昏たそがれて行く。へやの中には石油のランプがいかにも軟な悲しい光を投げ始める。
海洋の旅 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
「さあさあ、て来なされ、遊廓は灯ともし頃の宵がよく、もそっとよいのは、黄昏たそがどきかよというげな。武蔵どのも、ておざれ」
宮本武蔵:05 風の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
同じ足どりで、なにか眼に見えないものにでも導かれるように、まっすぐに歩いて行くのである。井倉川の橋を渡り、島田新田も過ぎ、あたりは黄昏たそがれ始めた。
その木戸を通って (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
わたくしの心は暗くもならず明くもならず、唯しんみりと黄昏たそがれて行く雪の日の空に似てゐる。
雪の日 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
すかりと握拳にぎりこぶしの手を抜くとひとしく、列車の内へすっくと立って、日に焼けたつらかわら黄昏たそがるるごとく色を変えながら、決然たる態度で、同室の御婦人、紳士の方々、と室内に向って
唄立山心中一曲 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
遠い過去のようでもあり、つい昨日きのうのような心地もするが、正しく指でってみると、それは去年の春三月十四日の黄昏たそがれの事であった。
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)