興津おきつ)” の例文
海道を下って、興津おきつの浜あたりに陣した時、維盛、忠度の二人の大将は、案内者の斎藤別当を間近く呼んでから、真面目に質問した。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
宿やどじつとしてゐるのは、なほ退屈たいくつであつた。宗助そうすけ匆々そう/\また宿やど浴衣ゆかたてゝ、しぼりの三尺さんじやくとも欄干らんかんけて、興津おきつつた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
興津おきつ川や酒匂さかわ川、安倍あべ川のやうに瀬が直ちに海へ注ぐ川は、川口にまで転石が磊々としてゐる。それには必ず水垢がついてゐる。
水垢を凝視す (新字旧仮名) / 佐藤垢石(著)
小さなバスケット一つに一切をたくして、私は興津おきつ行きの汽車に乗っている。土気とけを過ぎると小さなトンネルがあった。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
右の方へは三保の松原が海の中へ伸びている、左の方は薩埵峠さったとうげから甲州の方へ山が続いている。前は清水港、檣柱ほばしらの先から興津おきつ蒲原かんばら田子たご浦々うらうら
大菩薩峠:07 東海道の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「私が兄さんのところに御厄介になったのは興津おきつででしたねえ、あの時私は十七でした。だからもう六年になります」
こうして始まった流浪が進んで行ったらしまいにはどうなるかというようなことは全く彼には考えられなかった。鎌倉から興津おきつあたりまで歩いて行った。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
岩谷はその時興津おきつにいたんだわ。しょっちゅう方々飛びまわっていたから。それで行く先々に仲間の人がいて、何かしら話があるのね。お金もやるのよ。
縮図 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
その頃金港堂の編輯を督していたのは先年興津おきつで孤独の覊客きかくとして隠者の生涯を終った中根香亭なかねこうていであった。
美妙斎美妙 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
江戸より船にてのぼりしに東海道の興津おきつの沖を過ぎる時に一むらの黒雲虚空よりかの船をさして飛来る、船頭大いに驚き、これは竜のこの舟を巻上げんとするなり
新釈諸国噺 (新字新仮名) / 太宰治(著)
用事ありて駿州すんしゅう興津おきつに赴きけるに、線路の傍らに当たれる庵原郡倉沢村の天神社に、無数の燭火ともしびともりて石段に人影の見えたるより、この深更になにごとならんと
迷信と宗教 (新字新仮名) / 井上円了(著)
富士駅附近へ来ると極めて稀に棟瓦むながわらの一、二枚くらいこぼれ落ちているのが見えた。興津おきつまで来ても大体その程度らしい。なんだかひどく欺されているような気がした。
静岡地震被害見学記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
私は、駿河するがの国(静岡県)の海岸の袖師そでしで生まれた。興津おきつの隣り村である。私は生まれてまもなく、母にいだかれて東京に移った。母の生家は、徳川時代から神田明神下かんだみょうじんしたにあった。
私の歩んだ道 (新字新仮名) / 蜷川新(著)
浄見埼は廬原いおはら郡の海岸で今の興津おきつ清見寺あたりだといわれている。この歌の前に、「廬原いほはらの清見が埼の三保の浦のゆたけき見つつもの思ひもなし」(巻三・二九六)というのがある。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
ふもとの四人を明日の夕刻来てくれと招き置きたる者にて、その用事は、頃日けいじつ余が企てたる興津おきつへ転居の事今まで遷延せんえんして決せざりしを、諸氏と相談の上最後の決定をなさんとするなり。
明治卅三年十月十五日記事 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
東海道ならば由比ゆい蒲原かんばら興津おきつの山々、焼津やいづに越える日本峠のように、汽車の響きと煙で小鳥をおびやかし、さらにいろいろの方法をもって捕獲を試みる所が、年を追うて増すばかりである。
雪国の春 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
門におおきえのきがあって、榎やしきと云や、おめえ興津おきつ江尻まで聞えたもんだね。
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
それがし祖父そふ興津右兵衛景通おきつうひょうえかげみちもうしそろ永正えいしょう十一(十七)年駿河国するがのくに興津おきつに生れ、今川治部大輔いまがわじぶたいふ殿に仕え、同国清見きよみせきに住居いたし候。永禄えいろく三年五月二十日今川殿陣亡じんぼう遊ばされそろ時、景通かげみち御供おともいたし候。
興津弥五右衛門の遺書 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
赤坂の方も何ぞかわり候事も無之これなく先日より逗子ずしの別荘の方へ一同みなみなまいり加藤家も皆々興津おきつの方へまいり東京はさびしきことに相成り参らせ候 いくも一緒に逗子にまかり越し無事相つとめおり参らせ候 御伝言おんことづけの趣申しつかわし候ところ当人も涙を
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
宗助はそれを洋服の内懐うちぶところに押し込んで汽車に乗った。約束の興津おきつへ来たとき彼は一人でプラットフォームへ降りて、細長い一筋町を清見寺せいけんじの方へ歩いた。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
興津おきつの題目堂で変な男と別れてから、東海道を少し南へ廻って、清水港しみずみなとへ立寄り、そこで小半時こはんときも暇をつぶしたが、今度は久能山道くのうざんみち駿府すんぷへ出て、駿府から一里半
大菩薩峠:07 東海道の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
天王寺大懺悔てんのうじだいざんげ』一冊を残した外には何の足跡をも残さないで、韜晦とうかいしてついに天涯の一覊客として興津おきつ逆旅げきりょ易簀えきさくしたが、容易にひつを求められない一代の高士であった。
美妙斎美妙 (新字新仮名) / 内田魯庵(著)
興津おきつを過ぐる頃は雨となりたれば富士も三保みほも見えず、真青なる海に白浪風に騒ぎすなどる船の影も見えず、磯辺の砂雨にぬれてうるわしく、先手の隧道ずいどうもまた画中のものなり。
東上記 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
両親ふたおやがついて、かねてこれがために、清水みなとに、三保に近く、田子の浦、久能山、江尻はもとより、興津おきつ清見きよみ寺などへ、ぶらりと散歩が出来ようという地を選んだ、宏大な別荘のもうけが有って
婦系図 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
それがし致仕ちし候てより以来、当国船岡山ふなおかやま西麓さいろくに形ばかりなる草庵そうあんを営み罷在まかりあり候えども、先主人松向寺殿しょうこうじどの逝去せいきょ遊ばされて後、肥後国ひごのくに八代やつしろの城下を引払いたる興津おきつの一家は、同国隈本くまもとの城下に在住候えば
宗助そうすけはそれを洋服やうふく内懷うちぶところんで汽車きしやつた。約束やくそく興津おきつたときかれ一人ひとりでプラツトフオームへりて、細長ほそなが一筋町ひとすぢまち清見寺せいけんじはうあるいた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
興津おきつから万沢を経て身延に詣でて見ると、そこは早や故郷の甲州である。
大菩薩峠:35 胆吹の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
十四日に江戸を立って、十九日に興津おきつ清見寺せいけんじに着いた。家康は翌二十日のうまの刻に使を駿府の城にした。使は一応老中本多上野介正純ほんだこうずけのすけまさずみやしきに入って、そこで衣服を改めて登城とじょうすることになった。
佐橋甚五郎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「今度、当地こちらへ来ます時に、然うです。興津おきつ……東海道の興津に、夏場遊んでる友だちが居て、其処へ一日寄ったもんです。夜汽車が涼しいから、十一時過ぎでした、あの駅から上りに乗ったんですよ、右の船頭が。」
浮舟 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
興津おきつあたりでとまつて、清見寺せいけんじ三保みほ松原まつばらや、久能山くのうざんでもながらゆつくりあそんでかうとつた。
(旧字旧仮名) / 夏目漱石(著)
ある時は遠州秋葉山の下で見た者があると言い、ある時は駿河の興津おきつに現われたなんぞとうわさには出たが、かいもく行方が知れなかった。その兇賊が、今日という今日、網の目にひっかかったのだ。
大菩薩峠:32 弁信の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
興津おきつなみ調しらべひゞいた。
雨ふり (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
そうしてなるべくならいっしょの汽車で京都へくだろう、もし時間が許すなら、興津おきつあたりで泊って、清見寺せいけんじ三保みほの松原や、久能山くのうざんでも見ながらゆっくり遊んで行こうと云った。
(新字新仮名) / 夏目漱石(著)
興津おきつたかさんは、あんなに学問ができて、中学校の先生をしているが、検定試験を受けるたびに、からだがふるえて、うまく答案ができないんで、気の毒なことにいまだに月給が上がらずにいる。
三四郎 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
ついでに興津おきつまで行こうかと相談した時、兄さんはいやだと云いました。
行人 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)